2007年10月23日 (火)

三波川 妹ヶ谷城 探索始末記…。

 妹ヶ谷不動尊の境内を左に(南)降りて下から来た道に合流する。この左から来ている道は、不動尊の入口の階段の下を通って回り込んで来ている道だ。この辺は幅も確保されていて歩き易い遊歩道といったカンジ….

 左下に細い沢が見えるこの道は、石神峠に至るハイキングコースだ。暫く行くとどんどん沢が近くなって来る。

 右側は雑木林で険しい傾斜になっている。杣道はおろか登れそうな所は何所にもない。更に遡って行く。左にあった沢と道の高低差がなくなり、ハイキング道は沢を渡って向こう側へと続いている。

 地図を見ると沢を渡っては行き過ぎになる。右の山への登り口を見落として通り過ぎたようだ。一回戻り左側の山へ登れそうな処を探すが、やはりそれらしい所は見あたらない。

 大まかな地図なので、実際には沢を何度か渡るのだろう。またUターンした所へ引き帰し沢を渡る。ギボウシの花などを見ながら、また暫く行くと道は次第に草の生い茂った道となっている。

 歩く道は緩やかな傾斜だが、草に埋もれた道は細い暗い線のように見える。構わず先へ進んで行くと道はまた沢を渡っている。

 妹ヶ谷不動尊の横から妹ヶ谷城へ行けると聞いていたが、相変わらず右の山へ入って行けそうな場所はない。

 そのうち道は草で覆われた状態になり、歩を進めるたびに草を蹴飛ばして行く状況になった。そして右側の山腹へやや寄った道になった頃、左の沢に空の堰堤があった。水は殆どないので砂防ダムか。

 堰の中央付近まで行き、遠くを望むと前方の左側と右側から、Y字の形で沢らしきものが合流して来ている様子が分った。そこでまたハイキングコースに戻って、先へ進む道を見ると草に覆われていて踏跡もない。

 これ以上は軽登山靴でないと厳しい。その上右側への登り口もなく、この先へ進んでも登れる処はなさそうに思え、今来たルートそのものも怪しくなってきた。これは一旦撤退するしかない。

 用意した地図  この他 国土地理院の地形図 ゼンリンの地図

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2007年4月15日 (日)

 二回目の文化財調査 Ⅲ

 二回目の文化財調査 Ⅲ

 以上の教育委員会による報告書で目新しい項目は

1.南側石垣部分辺りに埋蔵金の伝承があった。

2.舘の東西外周付近に科人断罪の伝承があった。その辺りはインゴウバタケ(因業畑か)と呼ばれていたらしい事。

3.近世において小柏屋敷に火災があった。

4.B区北側の畑地に小柏屋敷の従者居住伝承があった。

5.中国渡来銭が出土した。

 この5項目を考察する。

 1.の埋蔵金伝承は実際に破壊した跡があり、現実味を帯びてくる。税金や山稼ぎの上納金、炭や木材・椎茸や山菜などの売上金で、残った金は火事になっても安全な土中に隠したという事は充分考えられる。

 2.の科人断罪は家抱などの自家に従属した者が何らかの罪に問われ、主人の名の元に独自に断罪し罪を償わせたものか。

3.の火災については藤岡市史に大正八年4月に校舎を焼失したとする記録がある。この時に同敷地にあった舘も一緒に焼失したのであろうか。

4.の屋敷従者の居住とは誰の事であったろうか。この文面・表現からは家抱ではないように思える。小柏家の支配・行政に協力する直属の家来(番頭)のような者がいて、家抱の管理・監督などの仕事に携わっていたものか。

5.の中国渡来銭とは何を意味するものであろう。明治期に生糸売り込み人と呼ばれた生糸問屋が勃興した。

八郎治も大蔵卿に土地を簒奪され、別の収入の道を確保すべくあせったのであろうか。明治初期に横浜に進出している。生糸を売り、中国商人から受け取った銭であったのか。今は詳らかに出来ない。

      現在の小柏舘跡  道路が貫いている。

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2007年3月20日 (火)

明治時代 金札・学校 小柏戸長

 明治時代 金札・学校 小柏戸長

 明治元辰

徳川氏亡ぶ 諸国強談質家品物只出す 又十月残なく返す 利吉宅に押入る 田本万三郎火、井田馬場土蔵の作り売りをなす

 同二巳

奈良山名主退役、岡本名主となる 金札始めて通用す 信士法名居士となる 穀高値、南京米安値あり

 同三午

二分金通用止る 旧役人を廃止す 風梅太々伊勢納む、田本芝居、芭蕉塚立つ 法正塚定橋落る 小柏九人百姓になる

 同四未

鹿島大芝居、岡本梅二鹿島の川で死す、岡本曾市屠さる 農兵不残免職 井田馬蔵薬師を立てる 小幡山花見あり

 同五申

吉井陣屋畑となる 富岡製紙始まる 平井三島大神村社と定る

 同六酉

去年より地券改、岡本副区長、小柏戸長となる 一月より太陽暦となす 日の丸旗立つ。冬岡本火

 同七戌

千万吉坂野に屠さる 春学校開く 十月小柏分校す 秋岡本大芝居、三十六人大損す、市五郎立会人となり森三郎家を売る

 同八亥

金井新道開く 岡本小柴家を建つ 天朝より学校へ金を給ふ 柳三郎立会人となり室静厳住職となる

 同九子

一月大雪五寸降る 去年より酒店官許となる 小柏村中百姓となる 三村合併願不叶 旧役人不残廃止 三月投票なし 戸長小川 副戸長福田・喜月両人地租改正を始む

 同十丑

風梅去る秋より中症病、下日野村芝地論、春地位等定む、春諸供養塔合併す

 同十一寅

小柴連三郎、小暮峯吉家新築、春畑収穫帳なる 神風護免許下る 小柏天狗加持流行、鹿島大神(神宮)村社に定む 藤岡に郡長置く 大小区戸長廃止す

 同十二卯

藤岡に区役所を置く 戸長堀越市五郎 用掛新井喜善治、養浩院に仮役場を置く 春山林地租をなす 南甘楽より大量人を雇ふ 秋村会を置く 坂野甚三郎屠服不死

 同十三辰

春辺見杢太郎家新築、夏村史廃止す 又投票戸長堀越市五郎

 同十四巳

この秋下田本川岸に村内製紙場器械を設く 福田種蔵酒店を藤岡長屋を借り開店す 鹿島祭日に大煙火、その日雨風寒し、商人不印なり

 同十五午

旧冬より器械生糸大下り 商人中大不印又博打刈込みにつき福政大観風梅宅六十日舎る 本年は十一年ぶりにて旧来を用ひ、十六年末の二月八日の夜より雪降り出し九日を以て元日とし その雪深く三尺余なり

 同十七申

八月榛名坂道長さ百間、幅五十間崩れ、川瀬深さ五丈余となる

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2007年3月19日 (月)

小柏氏秩父山にて金を掘る

 

 

 風梅年代記 5

 寛永元申

大仏村永明寺、養浩院の住持と定む 坂野乙右衛門の祖母、狢と交合す

 同二酉

細谷戸に百庚申建つ 戸川丑太郎、藤岡の絹市を止む

 同三戌

小柏氏秩父山にて金を掘る、大損す 細谷戸、矢掛村論にて分る 鹿島友吉天狗と剣術を遣ふ

 同四亥

風梅外五人、博打の科にて入牢す

 同五子

番場川原丑松鯉池を拵へ酒店をなす 鹿島卯市、天狗の乗気となる

 同六丑

風梅、田本万三郎の店を借りて酒店を出す、夏ひでり、御荷鉾山へ雨乞上る

西嶺に不動立つ

 安政元寅

地頭より人馬言付く 日野にて五十人江戸詰る 越中島のかためをなす 悦道和尚、養浩院に入り、おこうと申す美女も連れ込む

 同二卯

万三郎、風梅、駒蔵 田本にて操興行す 地頭より科めを蒙る 小柏より桧大木、川流多金たたく

 同三辰

小柏名主死す 村役人にて 名主預り、戸川久蔵鏑川にて水死す

 同四巳

奈良山新左衛門、田本万三郎年番名主 片山郡藏組頭となる 小幡山大猪狩

 同五午

井田不二太郎、養浩院大門に横死、ノウ千代さん唄流行 七兵衛と申す者田本にて常磐津師範す

 同六未

大水、鯉屋流る 平仁田大ぐえ、所々川荒検分あり 妹ヶ谷と栗拾論に及ぶ 藤八ケン流行

 万延元申

細谷戸天神組を村中と定む コロリ風行人死す 吉井殿様養浩院旅館

 文久元酉

名主万三郎死す 奈良山一人名主となる 臨川院出張所立つ 源三郎茶製造を始む

 同二戌

田本芝居 友信玄 悪徒者を亀屋にてしばる、小柏祭組二つに分かつ 田本亀屋へ押込み入る

 同三亥

博打騒動四十人に及ぶ 過料七十貫奈良山へ納む

 元治元子

吉井より農兵三十人日野村被仰付、下仁田軍あり 農兵並百姓不残吉井へ詰る 片山氏火

 慶応元丑

村々番所を立て昼夜番人出る、八日市端巌寺を養浩院となす

 同二寅

風梅田本去る、天徳に亀屋新築、岡本名主見習いとなる、御荷鉾道普請 フギリに御小屋新築す

 同三卯

井田馬蔵、天徳に寄火花を成し大損す 吉井農兵三国峠に戦ふ 小柏村源吉病犬を伐る

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2007年3月12日 (月)

御鉾山騒動 Ⅱ

 御鉾山騒動 Ⅱ

小暮市右衛門が死亡してから10ヵ月後、農民たちは更なる行動にうってでた。上・下日野村は元禄までは天領であったが以降吉井藩領となった。村役人は小柏家など日野七騎と呼ばれる旧家が代々勤めていた。

宝暦七年(1757)両村の百姓代表は、何度も村役人の不正を追及する訴状を吉井藩に提出していた。しかし村役人と藩役人の間に馴れ合いがあり、一向に取り上げて貰えなかった。

かえって藩役人から横暴な仕打ちを受けた為、ついに幕府へ訴え出た。訴状に記された内容は概ね次のようなものであった。日野村は寛永五年に検地帳を焼失して以来、年貢は毎年永銭で納めていた。村役人の不正で費用がかさむので、惣百姓は反別による持高に見合った年貢上納を願い出た。

村役人は身勝手で年貢以外の税を余分に取り、入用銭として納めていたが、受け取りも出さないので、納得いかない税金は納めない事にした。宝暦二年に「脇差帯刀禁止令」が出され村全体がさびれて困っている。

村所持の切開畑が幾つかあり、それに見合う年貢を納めたいと村役人に訴えたが、取り上げてくれない。

御荷鉾山は天領で入会山として薪を取り炭を焚き出してきた。ところが山元(小柏家)が山の木を伐り出し、山は荒れ果ててしまった。村役人と山元が馴れ合って不正があるが、村役人は取り上げてくれない。

 村民は御荷鉾山で芝秣を取り下日野村はそこで干していた。ところがこの地は山元で名主の小柏家の保有地であった。そこでその川原は入会地同様なので、小柏家にかけ合ってくれないかと村役人に相談したが取りあってくれない。

以上の事どもを農民は藩役人の代官へ訴えたが、村役人への取調べはせず訴人や

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2007年3月11日 (日)

御荷鉾山騒動 Ⅰ

 

御荷鉾山騒動 Ⅰ

小柏重方の代にも大事件が起こっている。御荷鉾山の騒動の一件が持ち上がったのである。「多野藤岡地方誌・各説編」に事件の要約が以下の如く載っている。

文政・天保年間(1818~1843)に上日野・下日野・金井三村の百姓による哀訴事件。御荷鉾山は元禄年中に日野と秋畑の境界論争があって、日野分と決し、吉井藩主松平弾正から御印附裏書絵図面を与えられた。

ところが文政五年、(1822)日野三か村の村役人と吉井役所の役人が共謀して、これを吉井宿俵屋清兵衛に二百両で売却したことが百姓に知れた。そこで、上木を売ったとか、入質したなどと偽りその代価は百両であるとし、内八十四両を百姓方へ割渡した。

「風梅年代記」に文政八年(1825)岡本助左衛門の計にて御荷鉾山を吉井俵屋清兵衛へ百両で売る。と記されている。

藩主公許の稼山の入会権を守るため、百姓方は文政十一年からたびたび吉井役所へ訴えた。しかし役人の吟味も正当でないため、総代四人が江戸へ出訴した。甘楽郡上日野村百姓総代常吉、多胡郡下日野村同馬之助、緑野郡金井村同作右衛門・繁右衛門の四名で、一時入牢のちに宿預けとなった。

吟味中金井村寅五郎、幸右衛門(繁右衛門の子で多胡村に養子となる)も入牢となった。文政十二年、寅五郎、幸右衛門は獄死、繁右衛門も宿預け中病死し、常吉・作右衛門も病気になった。

馬之助は宿預け中脱走し、帰村して策略の後、三村百姓連印哀訴状を持って自首の上再び哀訴した。勘定奉行曽我豊後守の裁きによって、天保二年(1831)村役人方、名主二人江戸払、組頭十二人過料銭十貫文宛、百姓代三人同三貫文宛、山買主同十貫文。百姓方総代三人軽追放、百姓三百三十九人御叱。

宿預けの最中に役所へ時々呼び出されて吟味されたという。あとから江戸表へ出向いた村役人もあった。漸く勘定奉行の曽我豊後守によるお白州が開かれ、上日野村名主助左衛門、金井村名主助太夫は江戸払いとなり、この騒動に参加しなかった家抱十八人には褒美が出された。

この名主助左衛門は風梅年代記によれば、岡本熊太郎、後の助左衛門である。文化9年に小柏名主が退役し、熊太郎が助左衛門と改め名主になったとある。岡本名主は江戸払いとなった年に退役している。

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