2007年4月29日 (日)

天引 熊野堂の摩崖仏  笠塔婆  

 平成13年出版の「郷土氏姓録」(日本姓氏出版)は、分厚い立派な装丁の本である。同本には□□家は次のように掲載されている。

 [家暦] 当邑草創小柏一門の旧家で家紋は「丸に三つ柏」を用いられる。遠祖を辿り現存する位牌を精査するのに、享保八年八月三日歿(1723年)――頓證了覚大徳が判明、累代に亙り護持されている。

 菩提寺は当地の向陽寺である。*小柏姓出自~~別項参照。――小柏家の中興系譜――勘右衛門氏(世襲)勘右衛門氏は天保二年64歳歿。――

以下は略すが現在に至るまで連綿とその系譜と略歴が記されている。冒頭には家紋の写真が掲示されている。先代の当主は戒名に俗名の1字が用いられている。

熊野堂の摩崖仏

 この地域が、江戸時代に発展したであろう事を喚起させる物に摩崖仏がある。この江戸初期の製作と推定されている摩崖仏は、小柏集落のある「久保」の少し先の熊野堂にある。

 天引川の最上流部にあたる。甘楽町指定の重要文化財である。文化財係によると、凝灰岩に薬師如来一体が彫られていて、舟形光背を持っている。眉間の百毫から発する頭光と身体から発する身光がある。

 この二つを合わせたものを挙身光といい、この挙身光を光背に表現したものが舟形光背であるとしている。銘はなく像は高さ55cm、幅44cmで浮き彫りしてある。

 この摩崖仏を囲んで堂宇があり、摩崖仏を本尊として春と秋に祭礼が行なわれていたとしている。

 また熊野社があったが、明治41年に諏訪社に合祀されたという。地元では「おくまさま」(熊野様)と呼ばれている、この信仰は今も引き継がれているようだ。この他、隣村の白倉にも平石摩崖仏がある。

 熊野堂の摩崖仏がある所からは、400mほどしか離れていない場所であり、天引川とほぼ平行して流れている白倉川の近くである。

笠塔婆

鮎川の奥に位置する上日野小柏(氏)には800年以上の歴史がある他、近年立てられた碑文には縄文時代からの歴史があると記されている。

街道の通る吉井町や小幡から平坦な道を通って、すぐの所にある天引は更に古い歴史があると思われる。

「群馬県の地名」によれば、中宿に正安四年(1302年)銘の、板碑一基と笠塔婆三基があり、倉内に笠塔婆一基がある。笠をかぶっている物は非常に珍しい。

信州街道から天引川と平行に走る道を入っていくと、天引川が細くなる辺りに県指定の重要文化財となっている笠塔婆三基と板碑一基がある。

板碑の上に、大きい蓋のような笠のような平らな石を載せている事から、笠塔婆と呼ばれている。とある。

甘楽町文化財係によれば、その材質は地元で産出される天引石(砂岩)である。

笠塔婆は群馬県全体でも20基程しかなく、まとまって3基もあるのは珍しいとしている。碑の高さはおよそ1.2mほどである。同係によると蓮の花や阿弥陀如来、観音菩薩の種子が刻まれている。

正安四年(1302)の銘があり、近郷の豪族によって建てられたとしている。

 またこの場所から西方に約1.5km離れた白倉川の近くにも笠塔婆一基がある。

同係によれば、全長1.74mで角柱状であり、デザインは先の笠塔婆とほぼ同じであるとしている。主尊の阿弥陀如来が蓮の花をかたどった中に配され、脇侍は向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩である。

 右側面には不動明王、左側面には愛染明王の種子が薬研彫りで刻まれている。鎌倉時代の仏教文化を知る上で貴重な物であるとしている。鎌倉時代は仏教文化の花が開いた時代であったので、同時代の信仰を反映させているのだろう。

正安元年(1299)の銘があるのでこちらの方が先述したものより3年程古いものとなる。

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2007年3月 8日 (木)

 小暮市右衛門 「大神」となる

 小暮市右衛門 「大神」となる

 この頃、小柏家の強引な家抱政策に対し、近隣の農民が立ち上がり吉井藩松平公をも巻き込む大事件が起こった。

 宝暦七年(1757)吉井藩(松平氏・一万石)から小幡藩(織田氏・二万石)への編入により、名主“小柏様”への隷属になる事に強く反対した農民は、その代表として、旅慣れていた修験僧(世間師)の百姓小暮市右衛門を選んだ。

 小暮は田本で「権律師」の僧位を死後送官された修験僧で、全国をよく巡回していた。そこで、小暮市右衛門は総代となって江戸へ直訴したが、吉井藩の江戸屋敷へ預けられ入牢の身となった。

 この時、松平家の親戚の水戸藩主から「吉井候は百姓を難儀させるな。」と諭され、市右衛門は無罪となり帰される事となった。ところが、市右衛門は牢を出る際に役人から毒を一服盛られ、腹の痛みを押さえ籠に乗り、村人に無罪の喜びを一刻も早く知らせるべく急いだ。

 彼は念仏を唱えつつ籠を急がせたが、ついに下日野・駒留の大宮様(地守神社)の前で倒れ水を求めついに絶命して果てた。これは宝暦七年二月十八日の事である。農民らは市右衛門の残した遺徳を偲び、田本の臨川院「権大僧都本岩大徳院」の墓石を建てた。

 なお、小暮家には市右衛門が諸国巡礼に出かける時に着た行衣が残されていた。それには、

西国巡礼三十三番 為二世安楽也 

 享保十六年 

上州多胡郡上日野田本村

   小暮 市右衛門

 と記されている。更に臨川院の屋敷内に若宮八幡の祠を造って「小暮大神」として祭り「小暮様」と崇め、毎年二月十八日の命日に「先祖祭り」と称して小暮家総本家

に集まった。そこで神官の祈祷を受け、参加者の氏名を記して小暮様の神前に納め、先祖の遺徳を偲んだ。

 小暮の家抱反対越訴は江戸中期、西上州の山間奥地の経済的に遅れた地域に起こった、名主小柏家の「家抱」再編成に対する一般農民による反対越訴であったと位置づけられる。

 諸国を巡り旅慣れた「世間師」でもあった小暮市右衛門は民衆の代表に選ばれ、修験僧として反家抱の立場から法を犯して吉井藩へ直訴したのである。より民衆側の立場に立った農民であった。

江戸時代後期の代表越訴型の義民が上州では磔茂左衛門に代表されるとすれば、小暮の越訴は平百姓による民衆宗教(修験者)に基盤を置く、「衆生救済」のための義民の反権力闘争であったと言えよう。(多野藤岡地方誌・各説編)

小柏祝重の跡を継いだのは重簡である。幼名を右馬介といい、後に内藏之丞とした。後の六郎右衛門である。重簡の弟に重方がいる。共に名主を勤めた。

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2007年2月24日 (土)

 小柏竹野の入植期 妹ヶ谷城  

竹野の入植期 妹ヶ谷城

開拓が進み、山を越えた小柏村からも時に応援が来たという事もあり得る。

おそらく三波川の飯塚家を継いだ兄の常氏の協力も得られたのであろう。そして小柏村から、小柏性の人や常氏の二男、三男などの子孫も移り住んで来て、小柏集落を形成したと考えられる。

 現在も諏訪神社を中心として小柏姓の家が8軒も集中している。妹ヶ谷の地名・由来について「鬼石町誌」は黙して何も語ってはいない。伝説の項を見ても妹ヶ谷の地名についての言及は見られない。

妹ヶ谷には現在11軒ほどの小柏姓の家が存在しており、竹野の子孫も分家などして、由緒ある小柏姓を名乗ったものと推測できる。

江戸時代の地境を調停した絵文書を見ると、小柏姓の人が何人か山などの土地を持っていた事が分る。この絵図は小学生が描いた絵のようなものであり、一枚の和紙に描かれてこれ以上はない大雑把な物である。

芝地などの区分は墨の濃淡によって区分されている。ここに現れる小柏姓の人は先述した新三郎の他は小柏平治郎の名前が見える。他には新井徳治郎の名があり、この三人の地境を調停したもののようである。

竹野は後年小柏家に住まいしていたもののようであるが、二男か或いは三男の家に子守などを頼まれて居ついてしまったものか。または離婚して分家した二男の家に身を寄せたのかもしれない。

現在も妹ヶ谷の小柏氏が居住しているエリアの、隣接地に4軒の飯塚姓の家が存在している。余談になるが昔の女性は何度も結婚したものである。子育てや食事・家事の役割を担い、働き手としても大いに必要とされたのである。現代よりも少ないが離婚も相応に存在していた。

資料もなく知る人もない時は、傍証を積み上げる作業によって、ある程度真相に近づく事が出来るのではなかろうか。

竹野が移住した時期をやや強引に推側すれば、1686年頃になるかもしれない。320年程前の事になる。推測してみると竹野の出生年は、1646年頃と考える事が出来る。父の重氏が1602年生れであり、10人目の子となる竹野が生れた時、重氏の年齢を46歳と考えてみた結果である。

三波川小柏氏の子孫の人の話では、妹ヶ谷不動尊の再興が1695年であるとしている。

この事から移住して9年ほど経過してやや落ち着いてきた頃に、不動尊を再興したと考えられ移住年代に大きな誤差はないものとみる事が出来る。江戸時代初期のこの頃は各地で盛んに新田開発が行なわれている。

また「群馬県の地名」を見ると、寛文郷帳には「芋萱」と記載があり、元禄郷帳になると「竹谷戸」の記載がある事になっている。寛文は1661~1672年、元禄は1688~1703年である。

1672年にはまだ芋萱であったが、元禄期(1688~1703)の調査には「竹谷戸」が登場している。したがって1673~1689年の間に「竹谷戸」の字名・地名が出来たとみる事ができる。

先に挙げた入植時期1686年説を補強するものといえようか。

 飯塚家文書(1)に三波川の絵地図が収載されている。この地図には「芋萱」ではなく上妹谷・竹谷戸・下妹ヶ谷と記載がある。

地図の作成年代と、時代がやや近接してくる可能性もあるが、同文書は1716年頃の文書が多く収載されており、矛盾はしないものと考える。

この320年前というのは、小柏定重の三兄弟の子孫が天引へ移住したと云われており、その時期を推測してみると340年程前となり、双方の時代差は20年となり近接している。

これによっても重高の兄弟たちが近隣に移住していった影が窺える。この時代には士農工商の下に、エタ・非人が置かれるなどの厳格な身分制度があった。武士の中にあっても侍士、徒士、足軽などの身分差があった。

 幕府の財政は逼迫し享保の改革が行なわれたのもこの頃である。また新田開発が進められた反面、飢饉や洪水も多く農村の崩壊もあったという。この頃から各地での激しい一揆が起こるようになった。

神道式 お別れ会 

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2007年2月19日 (月)

 黒滝山 不動寺 Ⅲ

  黒滝山 不動寺 Ⅲ

 

「藤岡市史通史編」にも潮音と小柏氏の次のような記事がある。

山岳霊場の地、黒滝山不動寺は潮音道海が中興開山となった。開基となったのは南牧村の市川半兵衛、白石六郎左衛門、小柏の郷士小柏八郎左衛門重高(六代)らであった。

 小柏氏は日野小柏に土着した郷士、日野七騎の筆頭で、当地の名主を代々努め「小柏様」と呼ばれた在郷地主であった。小柏氏は「小柏系図」によると平純基を開基とし、代々北条氏、管領上杉氏、武田氏に属していた。

特に十八代小柏定重は庄司源六と称した「大力無双」の士であった。小柏源六親子は武田氏の武将となり戦功を立てたが、天正三年(1575)の織田信長・徳川家康との長篠の戦で奮闘し討死している。

また小柏源六は小幡お菊伝説で知られており、その名は童歌にも「蛇もムカデもどーけどけ、小柏殿(どん)のお通りだ」と歌われた有名な武将であった。

この童歌は小幡氏の側室お菊が蛇責めの刑を受けたものを、源六が助けてやったのでこの歌を唱えて行けば、決して蛇(マムシ)に噛まれないという蛇よけのマジナイであった。

 源六(定重)から六代目に小柏八郎左衛門重高がいた。重高は砥沢の市川宗家と縁続きであり、しかも信仰が篤く黒滝山の潮音禅師に帰依した。

重高夫婦は剃髪し、重高は一燈居士、妻は姉高大姉となって開基に加わった。小柏氏の菩提寺養命寺で出家した行者「祖源」が、黒滝山で修行し潮音の弟子となって高源と改めた事も黒滝山との結びつきをより深いものにした。

 なお、上日野の小柏家の西方の火口山に滝があり、延宝年間に潮音禅師が在住した滝壺のほとりの草庵跡には今も石垣が残されている。

 

 仏教に深く傾倒していた重高はこの頃、養命寺の本寺でもある宝積寺にも半鐘を寄進している。

「宝積寺史」には小柏重高が寄進した半鐘について、貞享四年(1687)四月作、高さ五十九センチ、口径三十五センチ、鋳造人西宮四郎兵衛。この鐘は20世仏舟海代に小柏一燈居士が寄進した物である。としている。

 重高はいま、不動寺の奥まった位置にある開山堂の中央に、木像として黙然と端座している。そのたおやかな表情はお参りに訪れる人々を迎えて、祝福を与えているようにも受け取れる。

 開山堂の内部は土間造りで敷石畳になっている。広さは五間四方というから25坪ほどになる。正面には等身大の潮音の寿像があり、両脇に三十センチほどの開基者の木像が鎮座している。

 小柏重高・吉重父子(実は兄弟)の象と位牌が並び、重高室妙香・市川半兵衛・白石六郎左衛門の開基となった四人の木像が鎮座している。(吉重を除く四人)六郎左衛門は黒滝山の土地を寄付し、半兵衛は重高と縁戚であり、かつ六郎左衛門の仏道に掩護を与えていた。

 この四人が開創・開基となり潮音を請じて、黒滝山不動寺を開山したのである。開山堂には、後に一切大藏経を寄進した栄三禅尼・御代田の普賢寺に梵鐘を寄付した吉重の木像が安置された。

この六体の木像は1852年の山火事で、開山堂が類焼した時も寺僧と近隣の人々によって一時避難し類焼を免れた。

 白石六郎左衛門は、小柏山養命寺において出家し祖源の法号を唱えていた。後に黒滝山に戻り、巌窟にこもって20年間の修行を重ねていた。近在で開かれた潮音の説戒に現れ、問答を仕掛けその結果潮音に師事し名も高源と改めた。

 小柏重高・白石六郎左衛門・市川半兵衛そして潮音の四人は奇しきも不思議な縁で結ばれていたのである。(「関東の仙境黒滝山))

 黒滝山不動寺にはこの他、黄金色に輝く金体不動明王があり行基の作と伝えられている。「不動堂」に安置され十二年に一度、開帳されるだけである。平素は小柏重高・吉重両人の寄進した厨子の中に納まっていて、その扉は固く閉ざされている。

 小柏重高の弟(重氏の二男)、重弘は白倉村の山田家を相続し、山田與惣右衛門を名乗り後に全當と号した。妹(重氏の長女)は榎谷戸村(坂野)の小柏彌五兵衛光高の妻となり法名を慧観という。

その長子の光氏は中俵家を継ぎ中俵作重郎となり、二男高行彌平治が榎谷戸家の家督を相続した。

 小柏彌五兵衛光高の長女は重氏の二女(養女)となり、高崎城主安藤右京進重長の家臣金井重兵衛勝光の妻となって法名を妙林とした。

重氏の三女は藤岡の住人、桜井五兵衛勝行の妻となった、法名は逞心とする。

 重氏の四女は始め沼田城主、真田伊賀守信利の家臣、堀田九兵衛近忠の妻となり、後に藤岡の広瀬左源太季孝に嫁ぎ法名を光心とした。

小柏重氏の四男徳氏は丑之助と称し後に宗莫と号した。真田伊賀守信利に仕えていたが、真田氏が沼田を立ち去ってからは小柏村に戻った。

 五男の常氏は三波川の飯塚家彦右衛門の名跡を継ぎ、飯塚平右衛門と名乗り、法名を了真とした。

六男、吉次は小柏権右衛門であり、後に又兵衛と改めた。摂州尼崎の城主青山大膳亮幸利に仕えていたが、後年浪々とした暮らしを送った。後に甲斐の徳本流の医師となり露休と号し小柏村に住んだ。

重氏の五女は村上の住人、飯塚惣兵衛春猶に嫁ぎ、法名を貞真とした。(竹野か)

六女は松枝(松井田)の松本勘兵衛清房の妻となった。重氏の長男重高には嗣子がなく、本多家に仕えていた弟(重氏の三男)の吉重が養子となり、小柏家の家督を受け継いだ。

吉重は初め平吉と名乗っていたが後に権兵衛と改めた。その法名を一桂といい、不動寺には吉重の建影像が残されている。

「群馬懸多野郡誌」によれば、吉重は黒滝山二世の月浦和尚について禅を学び、和尚が浅間山に普賢寺を開いた時には梵鐘を寄進した。その鐘は今も同寺に残っている。(同家系図及び古文書、小幡伝説)と記述している。

同誌では小柏家に伝わっていた系図以外の古記録「別記」を、ここで「家系図及び古文書」としている。この表現は家系図と古文書が一繋がりになっており、家系図と古文書がセットで有った事を示している。

文書舘や他の旧家にあった古文書であれば「家系図、古文書、小幡伝説」と記述する筈である。もしくはただの「古文書」では、何が何だかさっぱり分らず真偽の程が疑われるので、題名や所蔵家の名前を記すのが当然である。

史書を編纂するほどの歴史研究家であれば尚更の事、その責務ともいえるところである。したがって、題名のない古文書は同系図に記載のある「別記」にほぼ間違いないとみられる。

家系図と密接な関係を持っている古文書であったから、題名を記さず「家系図及び古文書」と二つを一つの物(セット)として表現したのだろう。

系図と関係のない古文書であれば「人別帳」とか「宗門改め帳」とかその文書の題名を必ず記す筈である。或いは表紙の付いた冊子にはなっていなくて、多くの古文書と同じように、ある年代(又は事跡を遺した人物)ごとに一塊になっていたのかもしれない.

この記述によって小柏家に、系図を補填する先祖の事跡を記録した「別記」があった事がほぼ明らかとなったと言える。この正系図が縦糸となり、「別記」が横糸の役目を担って小柏家の歴史を連綿と伝えてきたのだろう。「多野郡誌」の、この項を執筆した担当者は自分の目で「別記」を閲覧し執筆したものであろう。

 「甘楽町史」も「多野藤岡地方誌各説編」も吉重を一柱と記しているが、小柏氏正系図では一桂となっている。よく似ている字なので誤写であろうと思われる。

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