2007年2月12日 (月)

 春山大明神の記

  

 春山大明神の記

                                        

 「甘楽町史」に、南牧村の市川家が伝えている、春山大明神の伝説が収載されている。あまり知られていないこの伝説を最後に紹介しておこう。

 以下は南牧村星尾出身の市川氏の調査によるものである。

春女並びに菊女の伝説(春山大明神の記)

春山大明神(甘楽郡南牧村星尾仲庭、地蔵堂敷地内)祭神(春山大明神=春女)例祭(913夜の当日=旧暦)天正十五年頃(1587)国峰城主小幡上総介の家臣に甲斐国巨摩郡藤井の庄よりお召抱えの菅根正治と云う者がおり、才色兼ね備えたお春、お菊という二人の娘が居た。

ある時二人は、殿様の侍女として仕える事となった。

美しい姉妹は殿様に、格別に可愛がられたので、同輩たちがこれを妬み、殿様に差し上げる食膳の中に縫い針を入れられて、二人の姉妹の仕業として疑われ、殿を害する心ありと妹菊女はとらわれ、領内引き回しの上、桶に首だけ出して桶の中に蛇数匹を放ち、これを小幡藩主の菩提寺である宝積寺の、熊倉という山の中ほどにある池(菊が池)へ投げ入れた。

のち、この池のまわりに蒔いた煎りゴマの花が咲いたので、お菊の怨念ならんといわれた。菊女の処刑の際、何か言う事はないかと問われ、国峰の舘の見える宝積寺裏の熊倉山を処刑の場にしてくれと願った。

 これは熊倉山へ行く途中、宝積寺境内を通るので、その際、和尚が必ず命乞いを願ってくれると思ったが、命乞いをしなかったので以来寺が全焼したりなど、宝積寺へ祟ることしばしばで、寺の山門は何度建てても火災にあい、名刹でありながら今だに山門のない寺である。小幡藩滅亡もまたよりどころない二人の怨霊の祟りと言われている。

 くだって明和五年(1758)お春、お菊二人が、とかく宝積寺に祟りをするので、同寺二十七世万仞和尚は二人を金毘羅に祭り、石の祠を造りお春とお菊両名の名を刻み、寺の鎮守としてからは寺へ祟らなくなったと言う。

 石祠の文字は次の如くである。

 眷属夜刃 明和五年万仞立

 金毘羅大権現 宝積寺鎮守

 菊池山神

 姉のお春は逃れて、一路西の方へ向った。そして、ようやくのはて辿り着いた所は、山深い里、南牧村星尾仲庭の市川勘解由の屋敷であった。お春が救いを求めたので、主は屋敷内にある厩の、干草の内深く隠し入れたが、槍を手にした追っ手の者たちの手にかかり、干草が怪しいと見られ干草の上から盲刺しに突き刺されて、哀れにも殺害された。

 その日は913夜の月の夜であった。お春は絶えんとする息の底から、私が死んだら骸の上に煎りゴマを蒔いて下さい。必ずゴマの芽を出して、無実の証としますと未練を残してこの世を去った。

 お春の骸を埋葬し、言い残した言葉どおり、そのまわりに煎りゴマを蒔いたところ、ゴマの芽が生えてきたのでその不思議さに驚いた。

またその後、お春の殺されたあたりで、女の悲しい泣き声がする事があったので、仏の霊が浮かばれずにいるのであろうと哀れに思い、手厚く供養してきたと伝えられてきた。

 後年、病人が続き、また直りにくい事があったので、神職に病い平癒の祈願をお願いしたところ、お春様を大明神に祭り社に安置すれば、よいとのこと故、早速お祭り申し上げたところ、霊験きわめてあらたかに、今までの難病もたちまちに治ったと言う。

以来、毎年9月13夜の日を祭りの日として、この日は社にお神酒、供え物等し、また赤飯を炊き村の子どもたちに分け与えて春山大明神の功徳とした。

 なお市川家では(現戸主、十三代喜義)代々、ゴマを栽培する事とお春、お菊の名を子どもにつけることを禁じられている。

 昭和5310月家祖市川勘解由13代孫 市川盛敏(茂)調記

 

 (注)宝積寺古文書を参考にする事多し、現在も星尾あたりでは、墓参の時、墓地及び墓碑などに、生米など穀物を播き供え供養する風習がある。

 以上

 お菊伝説は諸人のうちに広まり語り継がれ、やがて宝積寺の鎮守となり霊験新たかと信仰され、多くの人が参詣するようになった。いかに諸人の中に浸透していたか、歌が唄われるようになり、その歌の数が多い事からも読み取れる。歌は長文なので、『宝積寺史』の中からタイトルと作者だけを列記してみる。

 述懐 反歌 作詩 新井守村 (長歌)

 お菊一代記八木ぶし 作詩 水沢天外散人 校訂 西有穆堂

 お菊さま 作者 不詳 (甘楽町史収載)

 菊女伝説 作詩 田村貞雄

 

「述懐」は国学者守村が、龍蟄が妙義町中里の菊女の墓に添碑を建てた時に、その霊前に捧げたものという。お菊一代記は、小冊子として刊行されたという。お菊さまは念仏講で、女衆が唱えて甘楽町秋畑では、昭和50年代まで歌われていたという。

 どの歌もこの稀代なるストーリーを織り込んでお菊の悲しみを歌っている。小幡龍蟄は明治維新後、明治四年に岩手県権知事に就任している。

祖先の足跡を生涯に亘って調査し、多くの史料・著書を残し、明治29年に70歳で没した。松代藩(真田家)の中老職にあり五百石を給されていたとされる。  

「宝積寺史」によれば、永久保貫一氏が同寺に調査に来た他、全国に伝わる[お菊伝説]について研究し本を出版しているという。その説によるとお菊伝説の根源地となった松代、姫路、行田、江戸、彦根などに伝わるお菊伝説は小幡一族やその家臣が伝えた物という。

また皿屋敷伝説もお菊伝説と一緒に、或いは同伝説が発展した物としてか同時に伝えられた物のようだ。

 三波川の妹ヶ谷を開拓した「竹野」(小柏氏)の子孫という人から頂いたコメントによると、三波川の竹野が来たと伝えられている小柏家の墓地には小幡家の女中の墓と伝えられている墓が二つあるという。

 また三波川の小柏氏では胡麻の栽培が禁止されているとの事である。食材の胡麻を煎る時も、一粒でもこぼれたらその胡麻から芽が出るとして慎重に扱っていたようだ、という。

これ等の伝統・伝承はお菊伝説を如実に物語っているかのようである。お菊伝説に

は骨子となる事実があった事を窺わせるのに充分である。そしてこの二つのお墓はお菊とその姉のお春の物であるのか。

 三波川には小柏姓の家が今、十二軒ほどあるが何故ここに小幡家関係者の墓が存在するのか?この謎を解明するには更なる探求が必要となるが、後述する別項において少し考察してみたい。

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