二本木峠と小柏峠
因果の水鏡菊が池 Ⅲ
尚、大正十一年に小幡町で開演した、東京大歌舞伎、藤森座の広告が載せられている。要略を次に示す。
中央に縦に印刷されたタイトルが「菊女金毘羅大権現一代記」であり、副題のようにして最上段に横一列、右から「お待ちかねの菊女神霊劇開演」とある。
口上を述べた後、由来として「この狂言は、天正年間北甘楽郡小幡の城主小幡上総助、城内に起こりし愛妾菊女悲惨の最期なせし、大大悲劇にして本郡日野村小柏八郎右衛門の義勇を奮いし、実説を骨子としたるものにして、当地方としては尤も因縁深き劇なり。
この劇の主人公菊女の霊は、いまなお小幡村宝積寺に菊女金毘羅大権現と祀られ、その守札は、商売繁盛家内安全子供の虫除養曩(さき)には最も不思議のご利益あり、今尚、参詣者引きも切らさる有様なり。
◎特に開演中御信仰の御方には、御守札五百枚限り毎夜差し上げ候。」
とある。
源六定重が八朗右衛門と名乗った事は、記録には見当たらない。小柏氏にあっては、世襲名ではないが、近世になって八郎左衛門を名乗る人は多かった。それ以前に六郎或いは六郎右衛門を名乗った人は三人ほどいるが、伝説の文献などに見かける八朗右衛門を名乗った人物は幕末の重基だけである。
八郎左衛門と混同したのではないかと思われる。
二本木峠と小柏峠
第八幕の文中に「二本松峠」の地名が出てくる。この峠名は現在の地図上に見当たらないが、何処であろうか。
みやま文庫発行の「群馬の峠」によれば、上日野の小柏から山を越え、甘楽町白倉・轟・小幡町へ行く途中に二本木(にほうぎ)峠がある。標高は820m。とある。
これだけ読むと接続する両町の位置関係から、二本木峠は現在の小柏峠と思える。
しかしよく読むと、次に「中峠」の紹介があり、その説明に
小字名調書の甘楽郡小幡村に「中峠」がある。「甘楽町地名考」によると、二本木峠の北、白倉神社の西方にあり、中峠を通る道は小幡・轟から入り、二本木峠で白倉から至る道と合流した。
とある。
また同書には二本木峠の隣に「水越峠」が紹介されていて、標高800mで、小柏~甘楽町白倉とある。水越峠もまた現代の地図には現れない。
「小柏峠と天狗山」によれば、小柏峠には近代に置かれた「小柏峠」という手書きの標識があり、一体の石仏があると云う。更に峠から少し小柏側に降った所に一体の道祖神があるとしている。
そして無名峠から小柏峠は徒歩で10分という、標高もさしたる違いはない。無名峠もまた地図には出ていない。しかし以上の資料を総合的に検証して、何れの記述にも矛盾しないように峠の位置を比定してみた。
甘楽町の小幡・轟側から入り山道を登って行くと、旧白倉神社の西にあたる場所で左右に分かれる分岐がある。ここが中峠である。左に行くと旧白倉神社に行き、右に行くと上日野小柏方面である。
右に道をとり少し行くと二本木峠である。ここで(中峠から左へ分かれて行った)旧白倉神社から来る道が左方から合流する。更に山道を小柏方面に進むとY字路の分岐がある。
右へ行くと登山者が無名峠と呼ぶ峠に至り、無名峠から左に降りれば上平を経て小柏に至る、降りないでまっすぐ行けば焙烙峠に至る。
先のY字路の分岐点で左の道を辿ると小柏峠に至る。小柏峠から更に山道を進むとまた分岐がある。右へ降りるとやはり上平へ至る、左へ進むと小柏へ至る。この道を降りた地点は、小柏舘の東の辺りへ繫がっている模様である。
(国土地理院の古い地形図)
また現在の道路から小柏舘へ向かって、舘の左端に当る所に良く見ると細い山道が見つかる。この山道は北側の裏山へ登って行く道である。幅は50~60センチほどの物であるが、登って行けば小柏舘の東側から来た道と合流しているものと思われる。
「群馬の峠」には二本木峠と水越峠が併記されている。
したがって、この二つの呼び名は同時に存在していたと推測して差し支えない。
結論となるが、この水越峠が現在小柏峠と呼ばれているものであろう。「二本松峠」という名称は、二本木峠の誤植、または誤りではなかろうか。松の字と木の字は似通っている。
登山者が呼ぶ無名峠の名称は文献にも地図にも現れていないが、小柏側から登って小柏峠を左に行った所である。(先に述べた場所)
正に名前のない峠である。二本木峠は先に述べた場所にあるので、上日野の中心地であった小柏から小幡・轟に行く時には必ず通る事になる峠であった。また逆の場合も同様である。小柏氏が大檀家であった宝積寺との往来も当然にこの道を通った。江戸期以前はこの道が街道然として使われていた。会場から秋畑那須へ行く遠回りのルートは使われていなかった。
上日野地区から甘楽地区へ行くルートは、他に奈良山から焙烙峠を越える道、矢掛から亀穴峠を越える道、鹿島から小梨峠を越える道などがあったのである。
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