お菊伝説
宝積寺のお菊伝説
お菊伝説は幾つかあり、それぞれ少しずつ違っている。また全国各地に伝わってもいるが、この各地に伝わっている伝説は、各地に散って行った小幡氏の子孫や家臣、関係者によって、もたらされたものという。当事者の一端とも云える宝積寺が著した宝積寺史によって詳しくみてみよう。
宝積寺史には大略次のように記されている。
宝積寺の菊女伝説は有名で、群馬県で「お菊さん」を知らない人は居ない。この伝説を最初に記録した本は不詳だが知られているのは1743年の序がある「小幡伝来記」である。この本は「上野志料集成」(大正六年)の中の上毛伝説雑記巻十一に
「小幡伝説」という題名で収録されている。
これによれば国峰城主小幡上総介信真は、侍女菊が据えた食膳の椀に針が一本落ちているのを見つけた。信真はおのれ、自分を殺害しようとする曲者として菊を蛇攻めの仕置きにした。大きな桶に菊を裸にして入れ、蓋に穴を開けて多数の蛇を入れ、宝積寺奥山の池に沈める。
小柏源介(宝積寺史は源六)は猪狩りに来て池の辺を通ると、桶の中から女の泣き叫ぶ声がする。源介は弓の弭(はず)で桶をかき寄せ、蓋を破って菊と蛇を助け出す。菊は「今からお家の蛇が入っても怨みをさせません。このご恩は忘れません」という声とともに死んだ、このことから小柏家はたとえ毒蛇を踏んでも刺されることなく、その子孫は繁栄した。
菊の母は「無念だお前が死んでも、霊魂があるなら小幡家へ祟りをなせ。その印を見せよ」と懐から煎りゴマを取り出して蒔くと、三日の後に芽生えた。母は「万願成就即現怨霊」と喜んだ。それから菊の怨霊は小幡家へ祟りをするようになる。ゴマは年久しくたった今でも池の辺に生えている。
小幡家は露地にも園にも菊を植えない因縁はこれから始まった。その後、菊の怨霊を慰めるために、宝積寺は母と姉妹姪と菊を入れて五大姉にまつり、朝夕回向したという。―
小幡伝説は信真(のぶざね)の没後百五十年経って成立した本である。小幡伝説を典拠として菊女の伝説を書いた代表的な本は次のものである。上毛菊婦伝、因果の水鏡菊が池、上野人物志、群馬県北甘楽郡史、小幡町郷土読本、甘楽町史、行田史譚、諸国百物語。
信真(1540~1592年)は実在の人物である。菊女の出生地は上毛菊婦伝(小幡龍蟄)では甲斐国巨摩郡藤井庄の菅根正治の娘としている。そして「予が家の菩提所宝積寺の和尚は、菊の引回さるるを見物し、命乞いをもせざる故、、その後寺へ祟りをなし、また予が家にも祟りをなす由、既に序に弁ずる如し。」
としている。
「春山大明神の記」(南牧村星尾仲庭の市川家伝説)もこれに従っている。上野人物志では多野郡神川村生利(万場町)新井右近の娘としている。また信真夫人が実家の箕輪城から連れてきたという説もある。どの本も実在の人物としている。
菊女を助けた小柏氏の名は、小幡伝説、上野人物志では源介。上毛菊婦伝、因果の水鏡菊が池では源助。群馬県甘楽郡史、小幡町郷土読本では源六としている。小柏源六(定重、高政の子)は、天正三年(1575年)長篠の役で戦死した実在の人物である。
「因果の水鏡菊が池」は、宝積寺の四十六世住職が書いた脚本であるが、蛇の他に百足を入れたとする。「「ヘビもムカデもどーけどけ、小柏どんのお通りだ」のわらべ歌は有名である。宝積寺の山門は建ててもすぐ燃えると、山門のないことが寺への祟りのシンボルとなった。
しかし、山門連続焼失の確実な資料はない。行田史譚では松平忠明の家老山田大隈守が侍女の菊を刑に処したとある。山田家は庭にお菊稲荷を祀ったという。諸国百物語に見える菊女伝説は、兵庫県の姫路城の話となっている。前橋藩、安中藩にも同様の伝説がある。
上毛菊婦伝を著した小幡龍蟄(りゅうちつ)は信真十一代の孫であり、自分の先祖は伝説のような、残忍な武将ではないという同族の絆もあって、菊女の仕置きは信真の出陣中に、妻が自分の下女を仕置きしたものと考えた。
安政五年(1858年)龍蟄は、妙義町中里村の菊女の墓に添碑を建てた。「小幡伝説」成立後三年の後、二十六世乙禅叵甲が記した文書には五つの法名が記され、右は菊女の法名なりとしている。次に一つの法名があり、右菊女の母の法名なり、右五大姉は当山開基の小幡上総介殿の下女なり。
幽怨代々小幡家の奥方へ祟り候由、折々申し来たれば、すなわち毎度遺し贈る大姉号なり。延享二年とある。祟りのあったつど江戸から使者が来て回向を頼む。時の宝積寺住職はそのつど読経して改めて贈った法名が五度になり、菊女のことを五大姉と称したという。
後に宝積寺は菊女を金毘羅大権現としてまつり、熊倉山菊が池の傍らに石祠を建てて寺の鎮守とした。こうして宝積寺の守護神となり、祟りはなくなった。各地に散在する小幡氏も色々な形で菊女御霊をまつり供養している。例えば江戸小幡氏、松代小幡氏、榛名小幡氏。
明治からは宝積寺の菊縁日は四月二十八日となり白倉神社(宝積寺が別当職)の春祭りと重なり、宝積寺から白倉山への峠道は参詣者の列が途絶えなかった。この行事はその後、太平洋戦争で中絶した。昭和63年には全国の小幡氏が宝積寺に参集して「国峰小幡氏に集う会」を発足させた。
平成2年には集う会は小幡氏四百年供養法要を営み菊女金毘羅大権現ならびに小幡氏歴代の大供養を行った。平成5年には本堂前に菊女観音菩薩立像が建立された。
「甘楽町史」によれば宝積寺住職西有静観氏が過去帳・書類に従って書いた「菊ヶ池」という芝居があるとして、他に幾つかの説を紹介しているがいずれも大差ないものとなっている。「妙義町郷土史」に妙義町大字中里、五輪平に菊女の墓の記事がある。妙義の菊女の墓は安政五年四月に小幡氏の十一世孫、信州松代藩士の小幡長左衛門が建てたと墓碑に記されている。(同町史)
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