2007年10月 6日 (土)

安徳天皇は生きていた/三種の神器

安徳天皇は生きていた

安徳天皇は壇ノ浦で二位の尼に抱かれて、入水して果てたとされている。二位の尼は平清盛の正妻・時子である。従二位の位にあり清盛の死後は尼になっていた為、二位の尼と呼ばれた。

宇佐神宮の宮司家・宇佐家の伝承によれば、同家は神武天皇が東遷の際に立ち寄った時に、足一騰宮を建立し当主の妻を差し出し供応したという。そして神武の兵士たちには土地を与えて屯田制として生活させた。

この神武部隊の滞在期間は4年に及んだという。

都落ちして大宰府にくだっていた安徳天皇が、源氏方に加担していた緒方惟栄の圧迫を受け宇佐神宮宮司・公通の館に逃げ込み一時ここを皇居と定めた。この時に公通は、宇佐神宮にて斎戒沐浴・断食して七日七夜祈ったところ神託を得た。

それは嫡男・公仲を安徳天皇の身代わりとして、天皇を守護し奉れというものだった。公仲の母は清盛の娘・浄子であり建令門院の妹であるから、天皇と公仲は従兄妹の関係であり年齢も同じ8歳であった。

かくして天皇は宇佐に残り、身代わりの公仲が安徳天皇として讃岐の屋島に移った。この後、平家は山陽道を制圧し勢いを盛り返したが、義経が下向して参戦した事により、たちまち劣勢になり壇ノ浦で亡ぶ事になる。こうして宇佐公仲は、天皇の身代わりとして二位の尼と共に壇ノ浦の藻屑となった。

安徳は30年ほど遁世し、公通の先妻の子公房の庇後を受けていたが、やがて宮司職を譲られた。

1214年に大宮司に補任され従五位下に列せられ、男子三人をなしたが宮司は長男に譲り出家した。実母である建礼門院や、平家一門の菩提を弔って晩年を過ごしたという。

この後、宇佐神宮の宮司職は安徳天皇の子孫が勤めた。真実かどうかはともかく、可能性として充分にあり得る事ではある。恐らくは事実なのであろう。宇佐公仲となった安徳は、宇佐家の系図上では公通の孫となっている。

三種の神器

三種の神器は、安徳天皇と共に都落ちに随判されていたが、二位の尼が携行して壇ノ浦に沈んだ。剣は見つからなかったが、鏡と勾玉は見つかって、義経が京都へ持ち帰り後白河法皇に返したとされている。

池や湖ならともかく、潮流のある海に沈んだ物が当時の技術で見つかるとは信じ難いものがある。それとも、鏡は二位の尼が小脇に挟んで入水したといわれているので、潮に流されて沈むのに時間がかかったのか。

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2007年4月24日 (火)

小柏氏と堀口氏 Ⅱ 向陽寺

小柏氏と堀口氏 Ⅱ 向陽寺

この後、小幡町で最も古い家ではと思われる堀口中○家で話を聞いてみた。上日野の小柏氏と縁戚関係があったような事は聞いているが、何代くらい前の事なのかは分らないとの事だった。

代々の当主名は分っているが、貞景或いは伝内という人は居ないと明確に答えて頂いた。中○家は現在の当主で26代になるとの事である。18代までは曹洞宗であり宝積寺を菩提寺としていたが、19代からは神道に改宗しているとの事であった。

また天引の小柏氏とは関係がないという。

上日野の小柏家から養子を貰ったのは、小幡町の他の堀口家の可能性については否定的なお答えだった。この結果には頷けるところもあり、矛盾しているところもあり謎が更に深まった感もある。

ちなみに同家では「織田様代々覚書」を所蔵しており、他の古文書も所有されている事と思われる。またこの堀口家との関連は明らかではないが、小柏氏は堀口家から養子を迎えている。

近隣にあって小柏本家の後見として、同家を支えた小柏景氏の四代目の、高次がその人であり堀口家の二男とされている。系図には「為養母弟矣」と記されているが、その正確な関係は不明である。

向陽寺

宗旨 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼佛 宗祖 道元禅師 瑩山禅師

本山 大本山永平寺 大本山 総持寺 由来 天長年間(824~834)に鎮護国家の寺として、現在地よりも約500m東方の入木屋の地に創建されたと伝えられる。

天文年間(1532~1555)に武田氏一族の望月三郎氏が開基となり、所領9石を寄進して当地に移し、新たに曹洞宗の寺院として再興された。

開山は吉井町多胡の仁叟寺四世荘山道厳大和尚で、俗名は武田信綱と云い信玄公の親族であったとされ爾来、寺紋には武田菱が用いられている。

当寺は天文年間の再建以来幾度の火災にあい、特に正徳3年(1713)の火災では諸堂の全てを失い、翌正徳4年に再建された。

現今の本堂はその時のものであり、概ね300年の風雪を経ている。

 (向陽寺パンフレット)

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2007年2月15日 (木)

名刀 むかで丸

 名刀 むかで丸

 ごく大まかにこの頃の時代設定かと思われる伝説がある。小柏八郎右衛門は「むかで丸」という名刀を所持していた。ある時、峠の大石に座して一休みした時に赤い鞘のその刀を置き忘れて来てしまった。

 これに気づいた八郎右衛門は後から峠を降りてきた町人に、峠の石の上に刀がなかったかと聞いた。町人は刀はなかったが、大きな大きなムカデが石の上にいてこっちを睨んでいたので、恐ろしくなり慌てて逃げて来たと言った。

 八郎右衛門が峠の大石の所まで戻ってみると、刀はちゃんと石の上に置いたままになっていた。この名刀「むかで丸」は所持する本人が見ると刀であるが、他の人が見るとムカデに見えて脅威を与えたと言う。(ふじおかふるさと伝説)

 小柏定重がお菊を助けた故事から生まれた伝承といえるかもしれない。八郎右衛門という名前は幕末の頃まで小柏系図には現れない。

 八郎左衛門と六郎右衛門の名前は時々世襲された名前である事から、「左」が「右」に誤記されたものであろうか。ちなみに同伝説には小柏氏が4箇所に登場するが、名前は全て八郎右衛門になっている。

 

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2007年2月 4日 (日)

お菊伝説

 お菊伝説

 宝積寺のお菊伝説

 お菊伝説は幾つかあり、それぞれ少しずつ違っている。また全国各地に伝わってもいるが、この各地に伝わっている伝説は、各地に散って行った小幡氏の子孫や家臣、関係者によって、もたらされたものという。当事者の一端とも云える宝積寺が著した宝積寺史によって詳しくみてみよう。

 宝積寺史には大略次のように記されている。

 宝積寺の菊女伝説は有名で、群馬県で「お菊さん」を知らない人は居ない。この伝説を最初に記録した本は不詳だが知られているのは1743年の序がある「小幡伝来記」である。この本は「上野志料集成」(大正六年)の中の上毛伝説雑記巻十一に

「小幡伝説」という題名で収録されている。

 これによれば国峰城主小幡上総介信真は、侍女菊が据えた食膳の椀に針が一本落ちているのを見つけた。信真はおのれ、自分を殺害しようとする曲者として菊を蛇攻めの仕置きにした。大きな桶に菊を裸にして入れ、蓋に穴を開けて多数の蛇を入れ、宝積寺奥山の池に沈める。

小柏源介(宝積寺史は源六)は猪狩りに来て池の辺を通ると、桶の中から女の泣き叫ぶ声がする。源介は弓の弭(はず)で桶をかき寄せ、蓋を破って菊と蛇を助け出す。菊は「今からお家の蛇が入っても怨みをさせません。このご恩は忘れません」という声とともに死んだ、このことから小柏家はたとえ毒蛇を踏んでも刺されることなく、その子孫は繁栄した。

 菊の母は「無念だお前が死んでも、霊魂があるなら小幡家へ祟りをなせ。その印を見せよ」と懐から煎りゴマを取り出して蒔くと、三日の後に芽生えた。母は「万願成就即現怨霊」と喜んだ。それから菊の怨霊は小幡家へ祟りをするようになる。ゴマは年久しくたった今でも池の辺に生えている。

 小幡家は露地にも園にも菊を植えない因縁はこれから始まった。その後、菊の怨霊を慰めるために、宝積寺は母と姉妹姪と菊を入れて五大姉にまつり、朝夕回向したという。―

 小幡伝説は信真(のぶざね)の没後百五十年経って成立した本である。小幡伝説を典拠として菊女の伝説を書いた代表的な本は次のものである。上毛菊婦伝、因果の水鏡菊が池、上野人物志、群馬県北甘楽郡史、小幡町郷土読本、甘楽町史、行田史譚、諸国百物語。

信真(1540~1592年)は実在の人物である。菊女の出生地は上毛菊婦伝(小幡龍蟄)では甲斐国巨摩郡藤井庄の菅根正治の娘としている。そして「予が家の菩提所宝積寺の和尚は、菊の引回さるるを見物し、命乞いをもせざる故、、その後寺へ祟りをなし、また予が家にも祟りをなす由、既に序に弁ずる如し。」

としている。

「春山大明神の記」(南牧村星尾仲庭の市川家伝説)もこれに従っている。上野人物志では多野郡神川村生利(万場町)新井右近の娘としている。また信真夫人が実家の箕輪城から連れてきたという説もある。どの本も実在の人物としている。

菊女を助けた小柏氏の名は、小幡伝説、上野人物志では源介。上毛菊婦伝、因果の水鏡菊が池では源助。群馬県甘楽郡史、小幡町郷土読本では源六としている。小柏源六(定重、高政の子)は、天正三年(1575年)長篠の役で戦死した実在の人物である。

 「因果の水鏡菊が池」は、宝積寺の四十六世住職が書いた脚本であるが、蛇の他に百足を入れたとする。「「ヘビもムカデもどーけどけ、小柏どんのお通りだ」のわらべ歌は有名である。宝積寺の山門は建ててもすぐ燃えると、山門のないことが寺への祟りのシンボルとなった。

しかし、山門連続焼失の確実な資料はない。行田史譚では松平忠明の家老山田大隈守が侍女の菊を刑に処したとある。山田家は庭にお菊稲荷を祀ったという。諸国百物語に見える菊女伝説は、兵庫県の姫路城の話となっている。前橋藩、安中藩にも同様の伝説がある。

上毛菊婦伝を著した小幡龍蟄(りゅうちつ)は信真十一代の孫であり、自分の先祖は伝説のような、残忍な武将ではないという同族の絆もあって、菊女の仕置きは信真の出陣中に、妻が自分の下女を仕置きしたものと考えた。

 安政五年(1858年)龍蟄は、妙義町中里村の菊女の墓に添碑を建てた。「小幡伝説」成立後三年の後、二十六世乙禅甲が記した文書には五つの法名が記され、右は菊女の法名なりとしている。次に一つの法名があり、右菊女の母の法名なり、右五大姉は当山開基の小幡上総介殿の下女なり。

幽怨代々小幡家の奥方へ祟り候由、折々申し来たれば、すなわち毎度遺し贈る大姉号なり。延享二年とある。祟りのあったつど江戸から使者が来て回向を頼む。時の宝積寺住職はそのつど読経して改めて贈った法名が五度になり、菊女のことを五大姉と称したという。

後に宝積寺は菊女を金毘羅大権現としてまつり、熊倉山菊が池の傍らに石祠を建てて寺の鎮守とした。こうして宝積寺の守護神となり、祟りはなくなった。各地に散在する小幡氏も色々な形で菊女御霊をまつり供養している。例えば江戸小幡氏、松代小幡氏、榛名小幡氏。

明治からは宝積寺の菊縁日は四月二十八日となり白倉神社(宝積寺が別当職)の春祭りと重なり、宝積寺から白倉山への峠道は参詣者の列が途絶えなかった。この行事はその後、太平洋戦争で中絶した。昭和63年には全国の小幡氏が宝積寺に参集して「国峰小幡氏に集う会」を発足させた。

 平成2年には集う会は小幡氏四百年供養法要を営み菊女金毘羅大権現ならびに小幡氏歴代の大供養を行った。平成5年には本堂前に菊女観音菩薩立像が建立された。

 「甘楽町史」によれば宝積寺住職西有静観氏が過去帳・書類に従って書いた「菊ヶ池」という芝居があるとして、他に幾つかの説を紹介しているがいずれも大差ないものとなっている。「妙義町郷土史」に妙義町大字中里、五輪平に菊女の墓の記事がある。妙義の菊女の墓は安政五年四月に小幡氏の十一世孫、信州松代藩士の小幡長左衛門が建てたと墓碑に記されている。(同町史)

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