上野国甘楽郡中里村菊女事
小幡龍蟄は「上毛菊婦傳」のなかで、お菊の素性について更に詳しく検証している。「上野国甘楽郡中里村菊女事」と題された一項がそれである。次に大要を記してみよう。
上州妙義山より、辰の方角にあたる向かいの山を大桁山という、この大桁山の卯の方角の麓の村を十二村という、その小名に中里村という村がある。妙義より、一宮へ行く街道を左の方へ、百間(約180mか)程踏み込みし所の山麓に村がある。
すなわち中里村なり。
また街道よりおよそ十間程右へ踏み込みし畑の中に、墓あり、これが菊女の墓なり、東向きにて、左に槻(榎)の大木あり、この槻の木の左に高さ一尺ばかりにて、小さき石碑の如き物二つ程あり、
この石碑の如き物は、この辺の者が菊の墓へ立てて願事致すなり、成孰の節に納めし品であろうとの言い伝えがあるが定かではない。
当時この辺の畑は、中里村弁蔵という者の土地なり、且つ槻の木、枝が多く畑に支障が出て迷惑につき、近頃切り取ったが、弁蔵一家ならびに切り取った者の一家が罰を蒙り病気が絶えない、よって神職に頼みお詫びをしたところ、追々全快にいたる由。
木は若芽が出て格別、年経ずして大方、元の如く大木となったという。
この墓の辺は中里村にて、誰となく常に掃除され大切にされ、疎かにすれば罰が当たる由。中古は中里村は家数が百七軒ほどあったが、今は多くは死に絶えて今は漸く二十軒足らずの家数の由。
全く菊の墓を疎かにした罰と人々恐懼す。また近村の人々癪を煩うは、この墓石を削りて飲めば、全快するとして諸人削るため、文字の有無が判じられない。ただ菊女の墓と言い伝わっているのみで、法名を知る者なし、この辺今尚、霜雨等の夜は怨火が出る由、また諸人疎かにすれば罰を蒙り、散するれば霊験ある由、大いにこれを尊敬す。
寛永14年小幡候縄張りの節、菊徐の墓所弐畝十五歩除地、その頃この辺は助兵衛才十郎の所有の畑の由なり、徐地は旧例に従っただけである、考えるに、前に言われていた石碑の如きものは、古いものにして文字の有無は判らず、いずれにしても近代のものにあらず、恐らくは菊女一家の葬地にて家内の者の墓なるべし。安政五年四月二日この墓所に謁す。
この墓地に添碑を建てんと、中里村名主、仲右衛門・地主弁蔵へあい話し、御領主にては子細ある間敷か、承りしに一村大いに喜び、小幡領主松平玄蕃頭殿、お役人へ仲右衛門一存の趣にて申し立てしに、もとより徐地の事ゆえ子細(支障か)なき由につき、添碑の下書きは宝積寺考道和尚に頼む事として、
その下書きは四月五日仲右衛門へあい渡し、添碑建立の段取りを同所へ任す。菊女は中里村出生の者の由、遠祖、信真君の国峰城ご在城の頃、甲斐国巨磨郡藤井の庄より召抱えた菅根正治という者、中里村に住まうという。
同人に娘二人ありその一人の由。姉か妹かは今だ判らず、国峰城の奥に勤めていた時、上の思し召しに叫ぶという共、同僚の中に菊女を憎む者ありて、ある時菊女、君に御膳を上げるそのご飯中に針があり。
これ同僚のした事なりて、菊女の過ちにあらずと云共、申し訳なく罪に落入、お仕置き仰せ付けられるという。一説に最初はお詫び申し上げ、それで収まったがまた続けて同じ事があり、その節にお仕置き仰せ付けられたと云う、二度とも同僚の仕業の由。
お仕置きは御領内引き回しのうえ、菊を桶に入れ首だけ出して、桶の中に蛇数匹をいれ、轟村宝積寺の裏の熊倉という山の中ほどにある池に浮かばす。死せし後、一家の者身体を故郷中里村に葬るという。
その頃、菊女菩提寺は、菅原村管応禅寺であった筈と仲右衛門はいう。何故このように言われるか今だ判らず。且つ予家の菩提所宝積寺の和尚、菊の引き回さるるを見物し命乞いをしなかった故に、その後、寺へ祟りをしてまた予家へも祟りをなす由。
既に序にて論じたところなり。
考えるに、菊お仕置きは天正年間の事で、宝積寺十世魯岳和尚の時か、既に天正十五年の魯岳討死・寺の焼失などの事は菊の祟りであろう。又いわく、お仕置きの場で、当人に望みはあるかと聞いたところ、宝積城の中を通り国峰御殿の見える所でお仕置きになりたいと言ったと云う。
それで熊倉山でお仕置きになったと云う。当人がそう言ったのは、上の御菩提所の中を通れば、必ず命乞いの願いも聞いてくれると、思っていたが和尚は命乞いもしなかった故、寺へ祟り又、後世拠り所無きゆえ小幡城主へも祟りをなし、宝積寺にて絶えず朝暮読経し改めて贈る法名は五度に及んだ。
その法名は仏心大姉、妙心大姉、連心大姉、仏蓮大姉、心仏大姉の五大姉となった由。お仕置きのことが宝積寺に伝わっているところでは、前に言ったように菊を桶に入れ首だけ出して、桶の中に蛇を入れ、熊倉山中ほどの池に浮かばせし時、小柏源助とういう者が山狩りをしていて、通りかかりその叫ぶ声を聞くに堪えず、桶の蓋をこじ開けて、菊女は源助に一礼を述べて直ちに死すと云う。
また別説では、桶ではなく石櫃に入れ、前にいう如くにしたところ、蛇共菊女の肉を食べつくし後、石櫃の中にて共に食い合い、その声甚だ悪く小柏源助山狩りに通りかかり、声を聞き不思議に思い石の櫃をこじ開けたところ、蛇共は散って行ったと云う。
菊女が死せし後、母が来て嘆き悲しみこの如き責めに遭うとは口惜しい事なり、これより小幡家へその子孫まで祟りをなせ、我もまた同じようにする、言う事が判るならこれを発芽させよと煎りゴマを池の辺に植えた。
そのゴマは発芽したと云う。今にいたりても、年々生えて花は咲けども実はならぬと云う。熊倉は高山にして、中ほどにある菊女お仕置きの場所まで登るのには、一里余あるなり、この辺は昔は池だったか、今はおよそ百間四方ばかりの平坦地で水はない。
またこの山稜・山続には格別石もないが、菊池の辺りには六、七尺四方くらいの、大石が多くあり。そこより六、七丁左のほうに昔、天寿庵と言う庵があった由、故に今この辺を菊が池と云う。また天寿庵の淵とも云う。ここより北西の隅にあたる所に、国峰(城)御殿裏山の高い所が少し見える。
また曰く、お仕置きのとき石櫃に入れたという説があるが、桶のほうが事実なるべし、小柏源助は小松重盛の末孫の由。今上州日野村の郷士に小柏源助という者があり、これ小柏の家なり。安政五年熊倉山に登り菊が池を見た。案内の者がゴマ草はこれなりと云うので、それを見ると松代にて小車という草に似ている。花はどんな物かは知らない。
菅根正治の子孫は今は耐えて居ないが、正治の兄弟に治部右衛門という者が有る由、その子孫が即ち仲右衛門の由と同人が云う、また同国、下仁田村の字の、大崩村に菊女の親類筋の者が居る由、それは同、八木連村太右衛門の父出雲という神職へ、十五、六年以前に、自分は菊女の親類筋なりと話して来た事があるが、名前までは聞かなかったと、父出雲の話だった。と太右衛門が云った。
今はこの他に縁者あるというのを聞かない、また同州で山田を名乗る者の家にはとかく良くない事が起こると云う。菊女もしくは山田を名乗る者に讒言されたものか、その故に今尚、山田家を怨むものか、と高瀬村、旧臣新居又太郎が云う。
仲右衛門家より山沿いに、百間ほど東へ行ったところの山に、八幡の社ありその社,石段の前の左の方に、並んで五輪の如き石碑二つあり、これが菊女の両親の墓との言い伝えがある。
毎年九月十五日は八幡祭日の節として、村一同が祭っている由、仲右衛門の弟太平が云う。考えるに宝積寺の旧記によれば、菊女の母の葬地は宝積寺になるべし、両親
の墓というのは信じがたし。石碑二本とも文字の有無は論ぜず、もしや一家の者の墓かなおの研究が待たれる。
十二村の字、崎保村に正国寺という真言宗の寺あり、安中市の明光院の末寺なり、近頃この寺に欲深い和尚が居て、菊女の墓は諸人が尊敬するので、その墓所は正国寺の中に有と云う。
古い時代に川の洪水があった事により、やむを得ず崎保村の現在地に寺を移した、よって菊の墓は正国寺の所有なりと言った事があるが、この寺は天和年間に建立した由で、したがってこの事は事実ではないと仲右衛門は云う。
菊女、とかく宝積寺に祟りをなすので、同寺二十七世万仞和尚菊を金毘羅に祭り、寺の鎮守となすにより、以来寺への祟りをしなくなったと云う。鎮守は熊倉山菊が池より、五丁ほど左の方に小さき石の社あり北東の隅へ向いている。
またいわく小幡城主にてもこれを恐れ尊い、この社の鳥居は白木にて粗末なれど、当時小幡城主より寄進にて修復の度、宝積寺へ依頼して石社へ次の文字を彫った。
正面 眷属夜叉 金毘羅大権現 菊池山神
右 明和五年万仞立
左 宝積寺鎮守
以下、石碑、添碑などの形状・文字・寸法などの詳細な説明が続いて、長文となっている。この他、松代の屋敷内にお菊を祀った二社について説明し、忍之藩の小幡氏、江戸小幡氏の領する安中市中野殿の、小幡氏の供養について触れているが省略して巻末の記事だけを次に示す。
松代清野村龍泉寺寺内に、安置の鎮守は菊を祭る所なり、毎年九月十九日を祭日とす、同村字鳥見塚裏に、かねて所有の土地のうち、四斗二升三合の畑を安永二年にこの社に寄付をした。
吾曽祖父義正君の御代なり、その書面に年来安置の鎮守とあれば、その前より古くから祭りたまえしと見ゆる。且つ母の玉女は後に祭りたまうと見ゆる。恐らくは仁寿君の御代の文化の時か。 比壱巻先年納置候処不相見由ニ付猶又うつし納置物也
明治廿八年二月 六十九叟 小幡龍蟄
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