2007年3月 1日 (木)

 南牧衆市川氏 Ⅰ

  南牧衆市川氏 Ⅰ

 小柏氏とは黒滝山の開基を一緒に行なうなど、縁由の深かった南牧の市川氏について概観を示すのも意義があろう。

「藤岡市史通史編」には不動寺に関連した記事のところに「小柏重高は砥沢の市川宗家と縁続きであり」とある。記録を見る限りでは重高の時代には、既に縁戚を結んでいたとの確証はない。小柏正系図は小幡氏に招請された高道の頃から縁戚関係がやや詳しくなっている。

したがってそれ以前は主に当主の記録・事跡を中心として編纂されている。同系図では重高の四代目に当る記重の六女が南牧の市川氏に嫁いでいる。その後、同六代目にあたる重簡の長女が市川帯刀眞直に嫁いでいる。

更に重簡の二代後の重基の二男真太郎(八郎治の弟)が、南牧砥沢村の市川家に養子に入り後継者となっている。更に八郎治の五女が砥沢の市川虎義の妻となっている。

このように近世にあっては濃い縁戚を形成してきている事が確認できる。

南牧村

 甘楽郡に属す。山林及び原野が70%を占め集落は川に沿って形成されている。戦国期には高橋氏、小沢氏、市河氏ら南牧衆と称した国人層がいた。砥沢村には幕府の御用砥(石)を切り出した砥山が大規模に開発された。

南牧道は中山道の脇往還(下仁田道)の下仁田より分岐し、南牧谷を経て信州・甲州に通じる。(「群馬県の地名」)

砥山は徳川家康より朱印状により、市川半右衛門が採掘の権利を与えられていた。採掘された砥石は主に鎌を研ぐのに用いられ、全国に流通したという。

「群馬県の地名」を見ると砥沢村の記事は大略次のように記載されている。村の中央を南牧川が東流し、その川沿いに南牧道が通っている。

生島足島神社の起請文に南牧衆として連署している市川氏は、当地に居住し元和九年(1623)より砥山請負人となり、分家筋に当る羽沢村の市川家は南牧関所の関守となっている。

この羽沢の市川家氏からは、佐久郡の五郎兵衛新田の開発者が出た。砥沢の村名は砥山に関係しており、当山は幕府の手厚い保護を受けていた。

安政五年の家数は117戸、人口456人、明治10年には砥石880万本を生産したとある。

羽沢村は南牧川の少し上流にあり、砥沢村の奥隣になる。「群馬県の地名」には大略次のようにある。

北西は信州佐久郡田野口村と接し近年は概ね幕府領。砥山普請人足の御用を承っていた。天保九年の家数109戸、人口365人。

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2007年2月11日 (日)

上野国甘楽郡中里村菊女事

上野国甘楽郡中里村菊女事

小幡龍蟄は「上毛菊婦傳」のなかで、お菊の素性について更に詳しく検証している。「上野国甘楽郡中里村菊女事」と題された一項がそれである。次に大要を記してみよう。

上州妙義山より、辰の方角にあたる向かいの山を大桁山という、この大桁山の卯の方角の麓の村を十二村という、その小名に中里村という村がある。妙義より、一宮へ行く街道を左の方へ、百間(約180mか)程踏み込みし所の山麓に村がある。

すなわち中里村なり。

また街道よりおよそ十間程右へ踏み込みし畑の中に、墓あり、これが菊女の墓なり、東向きにて、左に槻(榎)の大木あり、この槻の木の左に高さ一尺ばかりにて、小さき石碑の如き物二つ程あり、

この石碑の如き物は、この辺の者が菊の墓へ立てて願事致すなり、成孰の節に納めし品であろうとの言い伝えがあるが定かではない。

当時この辺の畑は、中里村弁蔵という者の土地なり、且つ槻の木、枝が多く畑に支障が出て迷惑につき、近頃切り取ったが、弁蔵一家ならびに切り取った者の一家が罰を蒙り病気が絶えない、よって神職に頼みお詫びをしたところ、追々全快にいたる由。

木は若芽が出て格別、年経ずして大方、元の如く大木となったという。

この墓の辺は中里村にて、誰となく常に掃除され大切にされ、疎かにすれば罰が当たる由。中古は中里村は家数が百七軒ほどあったが、今は多くは死に絶えて今は漸く二十軒足らずの家数の由。

全く菊の墓を疎かにした罰と人々恐懼す。また近村の人々癪を煩うは、この墓石を削りて飲めば、全快するとして諸人削るため、文字の有無が判じられない。ただ菊女の墓と言い伝わっているのみで、法名を知る者なし、この辺今尚、霜雨等の夜は怨火が出る由、また諸人疎かにすれば罰を蒙り、散するれば霊験ある由、大いにこれを尊敬す。

寛永14年小幡候縄張りの節、菊徐の墓所弐畝十五歩除地、その頃この辺は助兵衛才十郎の所有の畑の由なり、徐地は旧例に従っただけである、考えるに、前に言われていた石碑の如きものは、古いものにして文字の有無は判らず、いずれにしても近代のものにあらず、恐らくは菊女一家の葬地にて家内の者の墓なるべし。安政五年四月二日この墓所に謁す。

この墓地に添碑を建てんと、中里村名主、仲右衛門・地主弁蔵へあい話し、御領主にては子細ある間敷か、承りしに一村大いに喜び、小幡領主松平玄蕃頭殿、お役人へ仲右衛門一存の趣にて申し立てしに、もとより徐地の事ゆえ子細(支障か)なき由につき、添碑の下書きは宝積寺考道和尚に頼む事として、

その下書きは四月五日仲右衛門へあい渡し、添碑建立の段取りを同所へ任す。菊女は中里村出生の者の由、遠祖、信真君の国峰城ご在城の頃、甲斐国巨磨郡藤井の庄より召抱えた菅根正治という者、中里村に住まうという。

同人に娘二人ありその一人の由。姉か妹かは今だ判らず、国峰城の奥に勤めていた時、上の思し召しに叫ぶという共、同僚の中に菊女を憎む者ありて、ある時菊女、君に御膳を上げるそのご飯中に針があり。

これ同僚のした事なりて、菊女の過ちにあらずと云共、申し訳なく罪に落入、お仕置き仰せ付けられるという。一説に最初はお詫び申し上げ、それで収まったがまた続けて同じ事があり、その節にお仕置き仰せ付けられたと云う、二度とも同僚の仕業の由。

お仕置きは御領内引き回しのうえ、菊を桶に入れ首だけ出して、桶の中に蛇数匹をいれ、轟村宝積寺の裏の熊倉という山の中ほどにある池に浮かばす。死せし後、一家の者身体を故郷中里村に葬るという。

その頃、菊女菩提寺は、菅原村管応禅寺であった筈と仲右衛門はいう。何故このように言われるか今だ判らず。且つ予家の菩提所宝積寺の和尚、菊の引き回さるるを見物し命乞いをしなかった故に、その後、寺へ祟りをしてまた予家へも祟りをなす由。

既に序にて論じたところなり。

考えるに、菊お仕置きは天正年間の事で、宝積寺十世魯岳和尚の時か、既に天正十五年の魯岳討死・寺の焼失などの事は菊の祟りであろう。又いわく、お仕置きの場で、当人に望みはあるかと聞いたところ、宝積城の中を通り国峰御殿の見える所でお仕置きになりたいと言ったと云う。

それで熊倉山でお仕置きになったと云う。当人がそう言ったのは、上の御菩提所の中を通れば、必ず命乞いの願いも聞いてくれると、思っていたが和尚は命乞いもしなかった故、寺へ祟り又、後世拠り所無きゆえ小幡城主へも祟りをなし、宝積寺にて絶えず朝暮読経し改めて贈る法名は五度に及んだ。

その法名は仏心大姉、妙心大姉、連心大姉、仏蓮大姉、心仏大姉の五大姉となった由。お仕置きのことが宝積寺に伝わっているところでは、前に言ったように菊を桶に入れ首だけ出して、桶の中に蛇を入れ、熊倉山中ほどの池に浮かばせし時、小柏源助とういう者が山狩りをしていて、通りかかりその叫ぶ声を聞くに堪えず、桶の蓋をこじ開けて、菊女は源助に一礼を述べて直ちに死すと云う。

また別説では、桶ではなく石櫃に入れ、前にいう如くにしたところ、蛇共菊女の肉を食べつくし後、石櫃の中にて共に食い合い、その声甚だ悪く小柏源助山狩りに通りかかり、声を聞き不思議に思い石の櫃をこじ開けたところ、蛇共は散って行ったと云う。

菊女が死せし後、母が来て嘆き悲しみこの如き責めに遭うとは口惜しい事なり、これより小幡家へその子孫まで祟りをなせ、我もまた同じようにする、言う事が判るならこれを発芽させよと煎りゴマを池の辺に植えた。

そのゴマは発芽したと云う。今にいたりても、年々生えて花は咲けども実はならぬと云う。熊倉は高山にして、中ほどにある菊女お仕置きの場所まで登るのには、一里余あるなり、この辺は昔は池だったか、今はおよそ百間四方ばかりの平坦地で水はない。

またこの山稜・山続には格別石もないが、菊池の辺りには六、七尺四方くらいの、大石が多くあり。そこより六、七丁左のほうに昔、天寿庵と言う庵があった由、故に今この辺を菊が池と云う。また天寿庵の淵とも云う。ここより北西の隅にあたる所に、国峰()御殿裏山の高い所が少し見える。

また曰く、お仕置きのとき石櫃に入れたという説があるが、桶のほうが事実なるべし、小柏源助は小松重盛の末孫の由。今上州日野村の郷士に小柏源助という者があり、これ小柏の家なり。安政五年熊倉山に登り菊が池を見た。案内の者がゴマ草はこれなりと云うので、それを見ると松代にて小車という草に似ている。花はどんな物かは知らない。

菅根正治の子孫は今は耐えて居ないが、正治の兄弟に治部右衛門という者が有る由、その子孫が即ち仲右衛門の由と同人が云う、また同国、下仁田村の字の、大崩村に菊女の親類筋の者が居る由、それは同、八木連村太右衛門の父出雲という神職へ、十五、六年以前に、自分は菊女の親類筋なりと話して来た事があるが、名前までは聞かなかったと、父出雲の話だった。と太右衛門が云った。

今はこの他に縁者あるというのを聞かない、また同州で山田を名乗る者の家にはとかく良くない事が起こると云う。菊女もしくは山田を名乗る者に讒言されたものか、その故に今尚、山田家を怨むものか、と高瀬村、旧臣新居又太郎が云う。

仲右衛門家より山沿いに、百間ほど東へ行ったところの山に、八幡の社ありその社,石段の前の左の方に、並んで五輪の如き石碑二つあり、これが菊女の両親の墓との言い伝えがある。

毎年九月十五日は八幡祭日の節として、村一同が祭っている由、仲右衛門の弟太平が云う。考えるに宝積寺の旧記によれば、菊女の母の葬地は宝積寺になるべし、両親

の墓というのは信じがたし。石碑二本とも文字の有無は論ぜず、もしや一家の者の墓かなおの研究が待たれる。

十二村の字、崎保村に正国寺という真言宗の寺あり、安中市の明光院の末寺なり、近頃この寺に欲深い和尚が居て、菊女の墓は諸人が尊敬するので、その墓所は正国寺の中に有と云う。

古い時代に川の洪水があった事により、やむを得ず崎保村の現在地に寺を移した、よって菊の墓は正国寺の所有なりと言った事があるが、この寺は天和年間に建立した由で、したがってこの事は事実ではないと仲右衛門は云う。

菊女、とかく宝積寺に祟りをなすので、同寺二十七世万仞和尚菊を金毘羅に祭り、寺の鎮守となすにより、以来寺への祟りをしなくなったと云う。鎮守は熊倉山菊が池より、五丁ほど左の方に小さき石の社あり北東の隅へ向いている。

またいわく小幡城主にてもこれを恐れ尊い、この社の鳥居は白木にて粗末なれど、当時小幡城主より寄進にて修復の度、宝積寺へ依頼して石社へ次の文字を彫った。

正面 眷属夜叉 金毘羅大権現 菊池山神

右  明和五年万仞立

左  宝積寺鎮守

 以下、石碑、添碑などの形状・文字・寸法などの詳細な説明が続いて、長文となっている。この他、松代の屋敷内にお菊を祀った二社について説明し、忍之藩の小幡氏、江戸小幡氏の領する安中市中野殿の、小幡氏の供養について触れているが省略して巻末の記事だけを次に示す。

松代清野村龍泉寺寺内に、安置の鎮守は菊を祭る所なり、毎年九月十九日を祭日とす、同村字鳥見塚裏に、かねて所有の土地のうち、四斗二升三合の畑を安永二年にこの社に寄付をした。

吾曽祖父義正君の御代なり、その書面に年来安置の鎮守とあれば、その前より古くから祭りたまえしと見ゆる。且つ母の玉女は後に祭りたまうと見ゆる。恐らくは仁寿君の御代の文化の時か。 比壱巻先年納置候処不相見由ニ付猶又うつし納置物也

 明治廿八年二月 六十九叟 小幡龍蟄

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2007年2月 1日 (木)

小柏 定重長篠の合戦に出陣

定重長篠の合戦に出陣

 高政の後継者(子)、定重がお菊伝説で有名な小柏源六である。定重は庄司源六と呼ばれたこともあったようだ。定重は父高政と共に武田信玄・勝頼に仕えていた。小柏系譜を見れば、お菊の事は次のように記載してある。

小幡信定の奥に召し仕えていた女、その名を菊というが小さい過ちを犯した。これを重罪となし、家来が桶に入れてかつ蛇、百足を入れて菊を責めた。

 この時に定重は軍事の用件にて二本木峠を馬で通りかかり、その山中に女の悲鳴を聞きつけ、不思議に思い山林の中に駆け込んだ。

見ればお菊がその苦痛に悲鳴を上げている、定重は忍び難く不憫に思いすぐにお菊を助けた。このとき菊女は苦痛の中から声を絞り、定重に告げて吾の苦痛を救ってくれた厚き恩を幾度生まれ変わっても忘れないと言った。この縁によってあなたの子孫を必ず長く守る事を誓うとしてこときれた。

これによって小柏家をはじめ小柏村出生の者まで皆蛇の害を免れた。もし蛇の災いがありそうな時は小柏氏のお通りと唱えていけば蛇も寄ってこないと云う。

 その他の事跡の詳細については別に記録がある。

以上が小柏氏系図に記載されているものである。「藤岡市史」には小幡伝来記にもお菊伝説が収載されているが、内容の違いなどから小柏系図の方が古いものであり、小幡伝来記から取られたものではないとの趣旨を記載している。

宝積寺史収載の「旧領弁録」ではお菊を助けたのは小柏源介定政となっているが、

宝積寺史には正しく記載されている。二本木峠は現在の小柏峠と思われる。(別項記載)

 定重については「多野郡誌」に次のような記載がある。

 小柏源六は甘楽郡小柏村に生まれた。小柏家は小松内府重盛の嫡子三位維盛の一子維基を始祖として、この地の郷士となり、鎌倉北条に属し、後平井上杉に従い、また甲州武田に帰した。江戸時代には土地の名主をして現代に至った。

 維基から十八世定重に至った。定重は左馬助六郎右衛門高政の嫡子で、すなわち庄司源六と称した。父子ともに武田の武将で、諸所の合戦に武功を顕したが、天正三年遂に長篠役で戦死した。

 長篠役後勝頼から定重の功を賞し、甲冑及び武具を添えて感状(感謝状)を寄せられた。これが今同家に存している。それより前、小幡信貞の女中菊女蛇責の事によって世に知られている。

 「甘楽町史」にもほぼ同様の記事があり、その次に定重が関わったお菊伝説を紹介している。(「多野藤岡地方誌・各説編」の記事もほぼ同様。)

 小柏氏系譜には次のようにある。

 定重 小柏源六 父子共に武田信玄同四郎勝頼に従う。天正三乙亥年五月二十一日未だ黎明の時、武田勝頼の命を承り、小幡大膳亮と共に小斥候に出て敵陣に忍び寄りし時、敵これを知り足下に起き上がり囲まれた。

 定重性質、大力あり武勇無双の者にして度々の戦功あり。事此処に至っては今更逃れ難く、いまその時節に望みても、その場において聊かもその猛気おち)ず、比類なき働きをなし、三州長篠にて終いには戦死してお訖(おわりぬ)。 

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2007年1月27日 (土)

小幡氏の赤備え終焉

「小幡伝来記」にはこの他に、孫市郎直好(直正嫡子)實高九代末孫、小幡御一族の事、菊女の池煎胡痲生ずる事、佐野城の事戸澤砦の事、西牧落城の事、小幡左衛門佐信秀御出世の事、国峰城異説の事、という項目がある。一部は紹介したところもあり、重複する所もあるので今は省略する。

向陽寺に匿われた信秀はその後、同寺を訪れた奥平美作に傳州が推挙を依頼し、美作が秀忠(徳川)にとりなし、安中(市)野殿にて一千石を与えられ、取立てられたという。

 「甘楽町史」に小幡信定(信真・国峰城主)参加の、小田原城攻防の合戦概況が載っている。

これを見ると、籠城側は本丸に氏政旗下の三千人、氏直旗下の五千人の計八千人が詰め、信定は渋取口を相模津久井城主、内藤景豊と共に、八千九百人で固めたとある。他の上野衆も信定と一緒に、ここの配置に付いたのだろう。

 渋取口にはこの他に、岩槻城主太田氏房・北条氏ら一万八千三百人が守備に付いたとあり、相当重要な守備所だったと思われる。

 

 甘楽町史・旧領弁録にも国峰城の記事がある。長文なので、概略を紹介しよう。

国峰城は峰城ともいう。「箕輪軍記」(長野氏)の云うところでは、国峰城に小幡重貞が千騎で立て籠っていた。

弟の鷹ノ巣城主、図書之介とは同じ長野業政の婿同士である。兄弟は不和となり、重貞が草津へ湯治に行っている間に、図書は兄の悪口を舅の業政に吹き込み、それによって業政は国峰城を占領し図書之介を入城させた。

 重貞は帰る事ができずに、仕方なく甲州へ行き信玄を頼った。信玄は大日向に五千貫の所領を与え砦を築いた。後に信玄は上州に侵攻し、国峰城を取り返し重貞を入城させた。

「関東古戦録」では重貞が憲重に変わっていて、熱海に湯治に行っていたとあり、図書之介が上杉景虎を欺き、国峰城を占拠し重貞を入れなかった。とある。

 このため重貞は信玄に拠ったという。

「和田記」にも同じような記事があるという。甲陽軍鑑にも同様の記事が見える。小幡龍蟄は、ふたりが長野氏の婿というのは誤りで婿は信真であるとして、既出の重貞も信真の誤りとしている。

鷹ノ巣は下仁田の鷹ノ巣であろうとしている。また砦を築いたのは南牧であるとしている。信玄・信真の攻略により、長野氏の箕輪城落城の後、信真は信玄から上総介の名を貰った。また長野氏の娘である妻を離別し、武田譜代の者と縁組するよう命令を受けた。

信真は、二十七年も連れ添った妻であり、沢山の子供も育てたが実家には勘当されていて、今となっては行く所もなく、路頭に迷うだけであり、そうなれば自分の恥ともなり、他の事なら何でもするが、こればかりは成敗されるとも出来まじき候、ときっぱりと断っている。

信玄は怒りもせず、その意気で義理堅い故、信頼して先陣も申付けられる、甥の武田典厩を婿に仰せ付けると言った。(実際には典厩の子供)

この信真が長広舌を振るったくだりは、「鎌倉公方九代記」に詳しく載せられている、名調子の名文となっている。

 龍蟄は有名な赤備えもこの頃、命ぜられたのではと推測している。小田原落城後、小幡信真はその所領を追われ、真田昌幸を頼って信州上田へ落ちて行った。甘楽に覇を唱え約400年間、十五代に亘ったその栄華の日々はここに終焉を告げた。

 この後、真田軍の赤備えが事に有名になっている。小幡軍の赤備えを受け継いだものとみえる。 

小幡氏の赤備え終焉

 

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2007年1月19日 (金)

竹花城と小柏城

 

竹花城と小柏城

「竹花城」の名前は他の文献には見られないものである。藤岡市教育委員会の「小柏館跡(2)埋蔵文化財発掘調査報告書」を見ると、「館南西(裏鬼門)嶽ノ本~嶽ノ鼻には、小柏氏累代墓所及び掘切が残り、館の東西外周付近には科人断罪の伝承が残る」とある。

したがって、小柏館、敷地に隣接し低地に向って、突き出ているような墓所の部分が「嶽ノ鼻」と呼ばれていた事が判る。そこに隣接する所が「嶽ノ本」という地名で呼ばれていたのである。

してみると、「嶽ノ鼻」が美字で簡略された「竹ノ花」に変わり、呼び易い詰めた音の「竹花」に変わったとみる事が出来る。とすれば小柏館が「竹花城」と呼ばれていた事になる。一山を隔ててはいるが、隣村にあり、小柏氏との繋がりが深かった、宝積寺ならではの知識、呼び方であったのだろう。また地元の人のみがそう呼んだのではなかったかと思われる。

この頃は、重家が築いた、西御荷鉾山の山麓に踏み込んだ鼠喰城よりも、街道沿いに位置していて、周囲の山や集落の支配にも便利な、小柏館の方に主な拠点を置いていたのだろう。

小柏氏墓所の前に、高山長五郎が筆を取った板碑が二つある。その一つには桓武天皇以来の小柏氏の家系図が書かれていて、もう一つの板碑に小柏氏の由来が書かれている。そこに小柏舘の東側の山は、城山(しろやま)と呼ばれているが、城山(じょうやま)と呼び習わすべき。とある。

更にその横に立つ石碑の碑文に「小柏八郎を主とし小柏城を中心に今日に至る――中略――三本木より小柏城までは日向組十戸の――後略。」と、小柏舘を小柏城と呼んでいた事が明確に記載してある。

また奥ノ反の鼠喰城の入口にある石碑にも「小柏城主小柏八郎」とあり、上日野地区では小柏舘を小柏城と呼んでいた事が分る。

これにより、ある時期、竹花城又は小柏城と呼ばれていた事が判る。  

小柏(村)の交差点に「小柏」というバス停がある。このバス停の北側は雑木林の斜面になっていて、南傾斜の小高い丘となる。

  

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この小高い丘が城山(じょうやま)と呼ばれ砦が築かれていたようだ。私も最初に現地を訪れた時には、小柏舘跡はこの丘の辺りであろうと見当をつけたものだった。したがってこの砦を含めた小柏舘が小柏城と呼ばれていた可能性がある。

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2007年1月14日 (日)

織田家と宝積寺の確執

 

 織田家と宝積寺の確執

「甘楽町史」に収載の幡氏旧領弁録(小幡龍蟄著述)によると、富岡市妙義町の菅原神社に、小幡氏一族が奉納した鰐口に、一族の名前が彫りこまれている。その中に高政の名前もある。

小幡新竜斎全賢(重定、尾張守憲重)の次に子息の信真(のぶざね)の名前があり、その次に高政の名前がある事から、かなり重く用いられていたものと推定できる。高政の次には信直の名前がある。

史家によると関東幕注文にある、この小幡次郎が鰐口に記載された高政であろうとしているが、宝積寺の史料なども参酌して考えると、どうもそのようには思えない。この鰐口に記載されている地名は、上野州高田庄菅原郷(妙義町菅原)とあり、現在の妙義町高田の包含地であったようだ。

続いて、大神宮御神前鰐口寄進部類眷属一味和合祈とあり、一族が結束して鰐口を奉納したことがわかる。この際の趣意を奉じて祈願した者は、小幡新竜斎、高政、信直であり、一族の安全、子孫繁盛、武運長久祈願とある。

尚、源勝頼の名があり、一族が結束して武田勝頼に従い、助けることを誓約した物でもある。続けて敵を打ち破り、住まいを安泰に、たとえ七難が降りかかってもたちまち消えるように、小幡一門が息災延命であるよう祈願文を刻んでいる。

鰐口は仏塔や神社の拝殿の前に縄で吊るし、参拝者がその太縄を持ち鰐口にぶつけ鈴をならす為の物である。

この鰐口は寄進された後、火災にあいその背面は焦げてしまったという。「幡氏旧領弁録」を著した、松代藩士(中老職)の小幡龍蟄によれば、新龍斎は信竜斎と書く事もあり上総介重貞であり、全賢は入信してからの道号であろうとしている。(甘楽町史収載)

大族の小幡氏の系図は幾つもあり、少しずつ違う物もあればかなり違う物もある。龍蟄は伝え言うところでは、背面になお次の三十七文字がある。「妙法華経如来神力品第二十一諸仏救也者住於大神通為悦衆生故神力現無量天正元年」。

寺僧が作った模型板の旧記には天正五年とあるが今、元年に訂正するという。

織田家の城下町、甘楽町のはずれの秋畑に、関東の名刹宝積寺がある。宝積寺史がいうところでは、小幡上総介は初め信実で信真、信貞、信定と四回にわたり改名した事になっている。

甘楽町では今でも華やかな、武者行列のお祭りがある。宝積寺は古い寺で伝統・格式を有している。寺史によれば現職の住職が、公用で外出する時は輿にのり、供ぞろえが十数人つくことに決まっていた。衣装や供の持ち物などに至るまで細かな規定があったという。

正規の寺名は後ろにある山を、鷲翎山というところから「鷲翎山宝積寺」という。この宝積寺は小幡伝説やお菊伝説などでも有名な寺である。檀家である小柏氏と同寺は深い繋がりがある。小幡家の墓地の隣に小柏家(奈良山小柏)の墓地がある。

宝積寺は住職が代替わりするたびに、その披露・供養を目的として「進山式」を行っている。

この進山式は曹同宗の各寺にも行く他、同寺内でも檀家を呼んで盛大に執り行われた。ある進山式のときに小幡家、小柏家、織田家が参列した。

その時に寺が用意した席次は上記の通り、織田家が三番目だった。これに感情を害した織田家は、後に崇福寺を再興してそちらへ菩提寺を移したといわれている。

これを宝積寺史でやや詳しく見てみると、東昌寺と宝積寺との間で本寺、末寺の紛争があり、織田四代の信久がこの仲裁に入った。

和解を画策していたが、両寺とも聞き入れず裁判沙汰にまでなってしまった。

その以前に信久はこの裁判で、宝積寺が敗訴したなら檀家を離檀すると警告していたが、案の定宝積寺の敗訴となってしまった。

感情を害した信久は、小幡の真言宗崇福寺を改築し、臨済宗に改めて織田初代から三代までの墓碑を移した。

別の説では先にあげた進山式の席次の不満である。

宝積寺は宝徳二年(1450年)の開山以来、国峰城の小幡氏の菩提寺であり、竹花城主、小柏氏と共に大檀越(援護者)をなしていた。

織田氏は時の領主とはいえ、檀家としては新参でありその為、式宴の席次は第三席となった。この処遇が信久の不満となり、離檀に拍車をかけただろうとしている。

時代が移り、後に崇福寺が廃寺の憂き目にあい、先祖の供養もなかば打ち捨てられているのを、見かねた時の宝積寺住職が供養を申し出て、織田家もまた檀家として戻ってきたとされる。

この宝積寺が編纂したのが、先に挙げた「鷲翎山宝積寺史」である。装丁も立派な分厚い本である。同寺の歴史や収蔵品、伝説、寺に関わった士族の歴史などが、細かく著述されている。

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2007年1月11日 (木)

小柏 高政 Ⅱ 野々宮神社

 何処からやあ~って来たのやら。植えた覚えはありません。(キッパリ)素性の分らない花がいま満開に暮れに二輪ほど咲いていましたが、更に咲き増し?して15~16輪ほども咲いた。椿のようではありますな。でも定かには            …?

 たま~に遊びに来る山鳩かヒヨドリの仕業?

 

  

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    「あんたはん何処からきなはった?」

 どなたか花の名前を教えてたも….。幹の丈は1.6mくらい、葉はやや光沢のある肉厚の硬い感じ..引き抜こうと思っていたら花が咲いたのじゃった..ふんふん!

 そういえば、この近くにもう一本あるぞ、そちらは南天みたいな奴じやが、ふんだふんだ。

 春が山の向こうまでやって来ているような,微かな気配も漂ってきた。昨日は嬉しい便りも….梅の枝 ほのかに春が 忍びいて  

    遥かなり 来し方山河 はにかみの あの日はいまだ 埋め火ありて….

小柏 高政 Ⅱ

 野々宮神社        野々宮神社境内奥の橋 

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「多野郡誌」を引き継いだであろう「多野藤岡地方誌・各説編」は、野宮社は上日野小柏にあって、祭神は日本武尊。永禄年中(1558~70)の事、当社から半里ほどの谷合で、小柏左馬助高政が十人の敵を斬ったという。

そのため社前の沢の流れが七日七夜血に染まったので、血(のり)の宮といったのが野宮になったと伝えている。祭神を鹿屋野比売命ともいう。槻三本野宮にあり。一本は目通り一丈九尺六寸廻り、一本は一丈九尺廻り、一本は一丈ニ尺廻り。杉十六本。(慶長三年御用木帳)明治初年の修築の時、鏡二面、刀一口、土器などが発掘されたという。社地は古墳であろう。  としている。

地方史に十人斬りは永禄年間とあるが、更に資料をつぶさに検証したところ、多野藤岡地方誌の付記に、北条五代記に天文二十年三月十日小田原より三万余騎にて上州平井へ寄る。とある記述を見つけた。

これによれば、平井よりも途中へ出て防戦上杉方敗れ憲政厩橋へ逃る。平井城は悉く焼払云々。としている。

憲政は途中まで軍勢を出して北条方を迎えうったがひどく敗れた為、平井城を放棄して戻らずそのまま前橋へ落ち延びた事が分る。

平井城を落とした余勢を駈って周辺の鼠喰城にも押し寄せたのであろう。小柏系図にも天文二十辛亥年との記載がありこれを裏付ける。

 「豆相記」にも「天文二十年辛亥年十月北条氏康・氏政父子囲山内上杉憲政居上州平井城攻敗。 中略 山内憲政出奔北越矣。」  とある。

また「箕輪軍記」に憲政愚将にて長野業政の諌を不用 中略  上原兵庫之助が巧言に迷、非業の政道多かりしかば諸士背民恨て終に北条氏康に国を被奪、天文二十年平井を落城後に走云々。とあり、他の諸武士団と共に高政も憲政に愛想をつかしたのかもしれない。

 勇猛で鳴らした高政にとっては、長年本拠地とした城をほっぽり出して一気に遠い前橋まで逃亡する事など考えられなかったのかもしれない。

小幡氏系図が「鷲翎山宝積寺史」に収載されている。それによれば高政の妻は、

 第十三代小幡顕高   十四代憲重   十五代信真

              女子(小柏高政室)

              女子(白倉道左室)

                       (国峰小幡氏に集う会作成系図)

 となっているので、これを信じるとすれば憲重(重貞)の兄弟()となる。よって高政は重貞の義弟という事になってしまうが、、、、。

 他の文献は重貞の姪を妻とした事になっている。

 

 小幡龍蟄の著した「上毛菊婦傳」の末尾に、小柏高政について次の記述がある。

  覚性浄林居士 小柏左馬介高政

  光岩智明大姉 同人妻 小幡尾張守重貞姪女

 こちらは小柏系図と同じ重貞の姪である。

小柏系図にある小幡重貞は誰か?憲重か?他の小幡家系図を見ると

旧領弁録の小幡系図

       顕高        重定        信真

     (播磨守)  (尾張守憲重・新龍斎)  (尾張守信貞 上総介)

上野人物誌の系図

                  妻長野娘

       顕高          憲重        信貞

     (一に重定)    尾張守泉龍斎 憲景 信定    上総介、尾張守

  更に「甘楽町史」によりやや詳しくみていく。

 小幡正系譜

        顕高      重定       信真  (旧領弁録と同じ)

 安中市野殿 木村氏所蔵系譜(江戸小幡氏の子孫か)

        顕高      憲重     信真

 上野伝説雑記    

    新龍斎    妻長野妹

        実高      重定     信真           

 吉井町史

      実高       重定         信定     

            顕高 憲景 泉龍斎      信貞 忠甫斎

                          弾正忠信長

 一宮神主志摩所持系図

                重定(尾張守後上総介 信真 新龍斎)

                信氏

                昌高

 寛政重修諸家譜

          顕高     憲重      信真

        播磨守法名宗顕  尾張守法名新龍    上総介

 以上の小幡氏系図の中で最も信頼出来るのは、最後に記載した寛政重修諸家譜であるという。重貞はやはり憲重であり、少し混同が見られるが、時に信定、信真、顕高、憲景、新()龍斎を名乗ったようだ。

 起請文などでは信真を、同じ「のぶざね」読みの信実と記載している。

                                                                                                                              

 小柏氏系図では高政の室は重定の姪であるので、寛政重修諸家譜、旧領弁録と同じである。甘楽町史の「小幡氏関係の社寺ならびに縁故者の一部」によれば、小柏高政の妻は小幡信貞の姪であり、小幡定政(源助)と同一人であるとしている。出典は不明であるが、小柏正系図とは不一致である。

尚、同系図では定政は高政の二男であり、左馬助後源重郎であり、源助と名乗った記録はない。後述する菅原神社寄進の、鰐口記載の名前の順も新龍斎、信真、高政の順であり、旧領弁録と一致する。

 小幡龍蟄によれば、泉龍斎は新龍斎の誤りであろうとしている。さもあろう。

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2007年1月 8日 (月)

奈良山小柏氏 七村城を築く

シジュウカラがやって来た。メジロと一緒に遊んでる。のどかなひと時・至福の時を感じた方がい~いかもョ。シジュウカラは頬の下半分が真っ白で上半分は覆面をしたように黒い、ツートンカラーだすわ。背中は薄い黄緑色と白とのストライプが微妙に競演していて綺麗でんす。

七村城

 高景の子は景氏であり、幼名を小柏新吾という。景氏もまた大柄の体躯をもち、その力は父の高景に劣らないものだった。そのため、叔父の高道にも一目置かれ、本家の後見役として重きを成した。

景氏の弟は高治でありその幼名を小柏新助といった。高治は、上日野の細谷戸の地守を任じられていたが、やがて武田信玄より信州佐久郡田ノ口村の、代官を命じられ赴任して行った。今にその子孫が田ノ口相木村に残っているとされる。

 景氏の子は高元であり、若年の頃は小柏宮内介を名乗っていた。母は本家当主の高道の娘である。

高元の子は高久・小柏加兵衛であるが、その実は養子であったらしく、大塚村の何某の男と記されている。高久の後継者は光氏・小柏作重郎であるが、やはり小柏弥五兵衛の嫡男を養子にしたのである。

 光氏の子は高次・小柏武兵衛であるが、実は堀口氏の次男を養子に迎えたものであった。武兵衛は後に一無という号を名乗った。養母の弟なりとも言うが詳細は不明である。高次の子は高連・小柏浅次郎であり、後に武兵衛と名を改めた。

 小柏高道の長女は従兄弟の小柏新吾景氏の妻となった。法名を貞範尼という。この女子も男子に負けず、力持ちと評判をとった。その委細は別に記録があるとされている。高道の次女は、上日野小柏の奥隣の奈良山の後藤新太郎基道の妻となった。

後藤家は古くから、奈良山に住みついていた有力武家である。基道の子、道兼は姓を改め、小柏新左衛門となり、以後小柏本家を脇から支える重責を担った。

 新左衛門は後に、「竜源寺」の開基となり、小柏氏の祖、平維盛の墓を建立して供養している。

母方の先祖をたどっていき、供養したのである。

「宝積寺史」に次のようにある。 上日野奈良山「奈良山竜源寺」、創建不詳、本尊不詳、開山芳谷永磨、開基小柏新左衛門道兼。沿革、奈良山の領主、小柏新左衛門道兼は小柏氏の祖、維盛(平)の墓所を建立し、宝積寺12世芳谷永磨を請じて開山とする。

 同地の春日神社には、奈良山小柏氏の始祖、後藤大和守基明を祀る。後藤氏は基道の代に小柏氏と改称したという。現在は廃寺であるが、跡地には歴代住職の墓石、三基がある。寺地の上の方に、小柏氏の屋敷跡および墓地が残っている。

 この他、宝積寺の小幡氏の墓地の隣に歴代先祖の墓地がある。27世万仭道坦は進山披露のため、宝暦八年(1758)一月二十三日に当寺を訪問した。

その記録に「奈良山に赴く、殊の外難所なり、竜源寺にて喫茶、次に新左衛門にて吸い物、終りて麺子を出す、次に安五郎方にて吸い物、新左衛門より僕三人にて荷物を送る。薄暮れに本山に帰着す」

とある。宝暦六年の進山記録には、

二十四日 石原の利済寺方丈尊来入院祝賀なり、他門故に応対入念を入る。蕎麦切を出す。同日小柏八郎左衛門子息を名代に〆入院の祝賀を勤む、旧例は五百文三本入なり、今度は三百文三本入なり□□なり。

 二十八日 小幡屋敷より熊井戸園右衛門を使者と〆去する比口屋敷にて出頭の検察あり、副寺チンキンの間にて応待す。

とある。この八郎左衛門は小柏祝重と思われる。名代としたのは長男の重簡であったのだろうか。また別の進山記録では当時の宝積寺の住職が養命寺に来て、小柏八郎宅へ泊まったとの記述もある。

 七村城

 上日野御荷鉾の名無村にその城跡がある。鮎川の水源に近い峰にあって、東端の郭(春日神社がある)から山頂の本丸まで二百七十m。小田原の北条氏の家臣後藤基明が同氏滅亡後、十余名を従えて来住して築いたと伝えている。

基明は後、奈良山に移って小柏と称した(奈良山小柏家)その跡を後藤屋敷と呼び、基明の墓がある。(多野藤岡地方誌・各説編)

山内上杉氏が関東管領の職を代々勤めていた時代は,平井城下町が最も繁栄を極めた時代である。京都が打ち続く戦乱により荒廃していた為に、多くの人が地方へ流れそれに従って文化も分散したという。

上杉顕定は連歌でも名を成して、戦乱の中にも歌会を開いたりした。関東管領のお膝元は比較的平和との事で人と物資が集まった。このため、東平井一帯の城下町は一時は鎌倉にも劣らないとまで言われた繁栄を見せた。

「甲陽軍艦」に平井城には相模、武蔵、下総、安房、常陸、上野、信濃、越後、佐渡、出羽、陸奥、飛騨の国の諸侍が勤務していたとある。「上野伝説雑記」には十五カ国とある。これならば正に鎌倉を凌ぐものがある。

京都からも白拍子が多く下ってきて賑やかに栄え、武士たちは軟弱になって武を忘れた為に滅びてしまったとの記述がある。(多野藤岡地方史・総説編)

 

「多野郡誌」には本村住民小柏喜伊三郎の祖先後藤基明、北条氏康の家臣たりし時、同家落魄以後この地に来たとある。全然酋長の如く何れへも納租せず耕作をして生活をなし、その後間もなく同地に移住し、その姓を小柏と改め今なお古墳があるとしている。

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2007年1月 7日 (日)

平井城の落日

 非常食の残飯、おにぎりを齧ってから藤岡図書館に行った。朝なのに人がどんどん入ってくる「ビッグカメラ」か此処は?小さい子供たちもママに連れられてお勉強に….うン、?漫画のビデオってかでも藤岡の人は向学心・探究心が高いのでんすね。これならニッポンの未来もダイジョーブィー。

長く関東管領拠点だった土地・お国柄?藤岡良いとこ~一度はおいで~ヨイショ~

コピー機をガチャガチャやって、取り忘れた970円を持って行ってしまう小学生がいる相州のライブラリーとは違うのだっ。藤岡市民に栄光あれ~。

館員さんたちは何処の図書館よりも生真面目(すぎる..?)な人ばかり。やっぱ上毛人はまじめだぜぇ。何も言わなくてもしなくても、その心底には親切な心を誰もが持っている。何かあればすぐにでも手を差し伸べてくれる、それが上毛人だんべえ。性善説の根源は上毛野国にあり。

おらには手に取るように伝わってくるのじゃっ。しかし….郷土史の資料がずらり、館外持ち出し不可の書籍もあり~の当初、垂涎の資料宝庫のように見えた館内も一つ一つ手に取り、ためつすがめつして一回りしてみると、ふんぎゃっ。これといった獲物も得られないまま昼も過ぎてるし退館バイチャッ。

 室町~安土時代の小柏氏

 

平井城の落日

小柏重徳の後継者高家は平太郎であるが後に庄司と改名した。管領上杉安房守憲基およびその従兄弟憲実(後に養子となった)に属した。1440年鎌倉将軍、足利左兵衛督持氏公が戦死した分倍河原の合戦において軍功を挙げた。

これより先、憲実は足利持氏と不和になり一時上野国平井城に戻ったが、持氏が兵を差し向けた為、これを迎えうつべく憲実は上野国、越後勢を率いて武蔵国に進出した。分倍河原において合戦となったが、持氏側の鎌倉の氏族の多くが憲実側につき持氏は捕らえられ後に自害した。

この後、憲実は足利学校を再興している。小柏高家の後継者重行は平治左衛門尉である。父の高家とともに上杉安房守憲實に属した。

小柏重行を継いだ顕重は小柏宮内少輔で法名浄山である。当時関東管領の職にあり、上野国平井城に住いしていた上杉民部大輔顕定・兵部少輔房顕(前管領)に仕えた。

平井城に出仕している時に、上杉顕定から顕の一字を賜りこれにより顕重と名乗った。

この事は小柏氏が代々忠臣として仕えた結果だとの記載がある。

しかし、小柏顕重は永正元年(1504年)武州立河原の合戦に出陣し討死してしまった。この頃、小柏家が属していた山内上杉と扇谷上杉との抗争が激しさを増していた。山内の上杉顕定、養子憲房は合戦下手だったのか、武蔵国須賀谷で破れ、同国高見原で敗れ、相模国菅生原でまたおくれをとった。

翌年には相模真巻原での合戦にも破れ、続く同国須賀谷原の合戦では漸く勝利を手にした。その後、相模国菅生原での合戦にはまた敗れてしまった。10年後の9月23日、上杉顕定は立河原において、扇谷上杉、駿河今川、北条長連合軍と合戦に望み破れた。

小柏顕重はこの戦の時に戦死したものと思われる。9月27日、同所で再び対陣した両軍は今度は扇谷上杉朝良軍側が負けて朝良は川越に退いた。顕定は川越城を包囲して長期戦になったが、翌年には和睦がなり顕定は平井城に帰還した。

関東管領は古くは、足利高氏が二代ほど勤めたこともあったが、代々上杉家が任じられていた。その殆どが山内(鎌倉山内)上杉であった。

犬懸上杉からは朝房・朝宗・氏憲が飛び飛びに任じられた他は、山内上杉が31人の内18人を輩出している。詫間上杉からは2人が任じられている。1363年より1578年まで実に214年にわたり、上杉家だけで連綿と関東管領の職を奉じているのである。

小柏顕重の後継となった顕高は小柏駿河守であり、後に剃髪して浄印入道と号した。父が戦死した後も上杉顕定・上杉兵庫頭憲房に仕えて、顕定から顕の一字を使うことを許されて顕高と改名した。毎日、関東管領居城の平井城に出仕した。後、上杉兵部少輔憲寛に仕えた。

顕高の後継者は高道である。又の名を小柏大學といい法名は道徹である。管領の上杉兵部少輔憲政に属し、幾度もの軍功を上げた。天文14年(1545年)川越合戦の時に戦功を挙げた。

高道の代においても合戦が多く繰り広げられた。第21代の関東管領の憲寛は憲政に家督を譲り、第22代の関東管領となった。この頃、北条氏(後北条)が急速にその版図を拡大していた。

北条氏綱は川越城を攻略し、松山城をも落として上野国に迫る勢いを見せていた。憲政は川越城を奪回すべく扇谷上杉と手を結び、天文14年(1545)川越城を包囲した。

北条氏康は川越城を救援すべく入間川で憲政軍を破り、憲政は平井城に退いた。この時の合戦において小柏高道は戦功を挙げている。

その後、北条氏康・氏政親子に攻められ平井城は落城の憂き目にあい、憲政は越後へ落ち延びた。憲政は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に管領職を譲り後を託した。

こうして上野国は武田氏、北条氏、上杉謙信の三つ巴となった抗争の時代に突入していく。

この頃の有力武将と在地武士集団の関係は、完全な主従関係ではなく、緩やかな同盟ともいえるものであった。それゆえ、その時々の力関係、情勢によって離合集散が繰り返された。

小柏高道は後に小幡尾張守重定に招請を受けたが応じなかった。やがて重定の姪を息子の高政が娶ることになり、これにより小幡重定と和睦した。

「ふるさと人ものがたり」によれば、上杉氏の平井落城後、主を失った高道を国峰城主小幡重貞が招いた。しかし小田原の北条氏に内通して憲政から離反、その先駆けとなって上杉氏を没落させた重貞を許せず応じなかった。

後に和睦し小幡家に内紛が起こった時には、孫の命を救いこれを援助して小幡本家存続のために働いたとしている。

高道には高景という弟があり、その幼名を小柏小次郎といった。高景は管領の上杉憲政に属し、兄と供に平井城に出仕していた。高景の力量は群を抜いていたとされる。豪胆で且つ大力があったらく、後に駿河守を名乗った時には鬼駿河と人をして言わしめた。

  平井城 土塁跡

 

                                      

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