2007年4月28日 (土)

小柏徳氏の天引移住 Ⅲ

 位牌と過去帳から、年齢などの整合性を勘案して作った系図の概要を示したのが下記である。

        78才? 頓證了覚大徳 1723ー1645生?

                 (小太郎父)

         83?  前山覺庭  17491666?

               

          

                                               

                        

         91?  長山清閑 17781687? 

                        (太郎兵衛父)

 

73? 理山玄性 17801707? 76徳翁忍光 1781―1705?

      (太郎兵衛)                 (八三郎父)  

            66 権大僧都月潤浄心 1791―1725?

                     (勘右衛門父)

         57?権大僧都喜山秀悦 1804-1747?

                            (勇蔵養父)

            以下 略

 先に「頓證了覚大徳」の没年齢を、ごく大雑把に60歳くらいと仮定して論じてきたが、系譜前後の繋がりなどを詳細にかつ慎重に検討して、系図上では78歳と推定しここに訂正する。

 20歳で次代の嫡子を輩出しているところや、91歳の長寿年齢などが現れ少し奇異に感じられる部分がある様にも見えるが、何人か養子が含まれていると推察されるので、その部分は年代が縮小しその他の部分が広がるので、さほどの無理は生じないかと考察する。

 現に私の祖父とその祖父は養子である。祖父と曽祖父との年齢差は僅か14歳である。直系ばかりで数百年も家系を繋げるのは無理というものである。徳川家を例にとって見ればよく分る。

 □□家は同じ家との間で婚姻を繰り返し、嫁を出したり嫁を貰ったり養子を貰ったりしている。これは家と田畑を守り繋ぐ為に何所の家でも行なわれていた事だろう。 

 同家には曽祖父を含まずその前代までの老若男女の名前が30人も伝えられている。高祖父(祖父の祖父)は養子であったが、妻に先立たれた為に後妻を迎えて更に3人の子をなした。

そして血の繫がる子に家督を返す為か、自分は分家して居を近くに移している。その土地は久保の外れにあるが、平坦な角地で元は畑であったのか広い土地である。

残してきた本家は自分の二男に継がせて、他の家族は連れて行ったようだ。分家した土地は後に三男が家督相続し、長男は高祖父の養父(本人から見れば祖父)の家督を相続している。

 これにより高祖父の子供のうち、男・三兄弟の三家が出来た事になるが、その子細は子孫でも良く分らない複雑なものになっている。

 近世にあってもこんな状況であり、先の30人を完璧に縦横の系図に組み込むのは至難の仕儀となってくる。過去帳も、住職が変った時や虫食い・水濡れなどによって書き換えられ、近世だけでも明らかに間違いと思われる物も存在するのである。

 

 先に□□家の始祖は、徳氏の子供かも知れないと仮定して論を進めてきたが、もしこの系図が本筋において、間違いがないとすれば同家の判明している、一番古い位牌の「頓證了覚大徳」は小柏徳氏本人の物という可能性が出てきた事になる。

 先に推定した徳氏の出生年次は1642年であり、「頓證了覚大徳」の推定出生年次が1645年であり、その差は僅か3年しか認められないからである。

 あくまでも可能性の一つであるが、徳氏が上日野から移住して来て久保一帯を開拓したのであれば、「大徳」の称号は真にふさわしいものに見えてくる。

 徳氏の兄弟は13人もいて、その妹と見られる「竹野」は妹ヶ谷を開拓しその名を今に残している。

 小柏氏の二男・三男・四男はその殆どが養子に出ている。その養家は掘口・友松・山田・飯塚・須藤・松下・市川家である。中には出家した人もいる。養子になった記録がない二男・三男は徳氏・吉次の他には見当たらない。

 □□家は、小柏一族が11軒ほど密集している一角のほぼ中心になる位置に居住している。この辺を中心として隣地に、分家が建てられて広がっていったと見る事が出来る。(或いは隣接する旧家からかその両方からか)

 現状を見ると、中心地にある二つの旧家からそれぞれ西と東に広がったとの推測が成り立つ。

現に西隣の小柏家は近世に□□家から分家した家であり、□□家の墓地の先、畑を挟んだ数十m先は同家の高祖父が分家した広い角地であり、久保の集落の西端になっている。

 もしも心証を披瀝する事が許されるならば、この両家の始祖は徳氏と吉次になる可能性を秘めている。

 「甘楽町史」を紐解くと、「鉄砲とピストル所持者(明治十八年 白倉村連合戸長役場調)」という項目があり、天引の欄に私の曽祖父・嘉市とその兄の定吉の名前が見える。他に小柏姓の二名の名前が記載され、天引村全部で30人の名前が記載されている。

天引という「字名」は広い地域に亘っていて、明治10年頃は家数が208軒あり、人口は1,012人であった。(「群馬県の地名」郡村史)その中に小字名・久保がある。小柏姓の家はこの久保の中の狭いエリアに密集していて、その中には他の姓の家は全くないのである。

天引川に沿って、長方形に展開している小柏姓の集落の右隅に一軒だけ別姓の家があるが、小柏姓の家と隣接していていずれ縁戚に繫がる家と推測できる。

昔は洗濯もしたという小さい小川、天引川を挟んだ対岸にも小柏姓の家が一軒ある。

この他、少し離れた所に天引の小柏姓のうちでも古いほうと見られている。小柏家が一軒あり向陽寺の近くに小柏姓の家が2軒ほどあるが、周囲に畑があり畑の近くに分家して出て行ったのではないかと思われる。

天引の小柏家はこの他には1~2軒あるだけである。久保(小柏)集落の前を流れる天引川を挟んで,向かい側に位置しているのが、向陽寺である。

 

 

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2007年4月12日 (木)

小柏舘の調査 Ⅲ

 小柏舘の調査 Ⅲ

 石材の加工技術に若干の差異は認められるものの、基本的には石垣の築造技術に小柏舘跡の石垣と現在認められる石垣との間に大きな差はない。

また調査範囲内は、近代以後における攪乱の影響を著しく受けており、遺構の保存状態は余りよくなかった。

 したがって石垣の築造技術や土層の断面から築造年代を特定する事は困難であった。今回の調査における焦点の一つは、小柏舘跡の築造年代を確認する事にある。

舘跡の西端に位置する小柏家墓地内には貞治六年(1367)銘、応永二十七年(1420)銘の宝篋印塔が存在する事、また山崎一氏が指摘しているように、墓地と舘跡の間に堀切状の遺構が認められる事から、小柏舘の起源が中世に遡ると想定された。

 しかし、今回の調査では検出された石垣の年代は、出土物から少なくとも近世の所産である事が明らかとなった。

内耳鍋や焙烙等、中世の所産である遺物は少なからず出土してはいるものの、石垣の築造過程において近世陶磁器片と共に混入したとみられ、石垣に年代を直接反映する資料ではないと判断した。

 勿論今回の調査結果をもって中世舘跡の存在を完全否定する事はできない。今後の舘跡とされる中央部分についての発掘調査の結果を待って結論付けることにしたい。

 この他、出土物として炭窯跡、染付椀、内耳鍋、石垣を記し各写真を付している。この時、発掘された石垣は現在では道路の下になってしまったようだ。

  小柏舘 空撮

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2007年2月26日 (月)

妹ヶ谷城と小柏氏

野々宮神社近くにある妹ヶ谷城と、小柏氏との関連性は色濃く漂って来ているが、これを明らかに出来るものを今は提示出来ない。

或いは飯塚氏が関わった物かとも考えられるが、同氏の本拠地琴辻からはかなりの距離があり、正面の前進基地でもない山腹の後背地となるような位置に砦を築いたとは考え難い面がある。

妹ヶ城の位置は不動滝の西南、野々宮沢の南の山上になる。標高は200mくらいの所で、長さ30m、幅12m二段の保塁である。妹ヶ谷不動尊は下曲輪である。(山崎 一 稿「奥多摩地区の故城塁址」)  

曲輪とは、自然の地形を利用して築いた砦状の石壁や土塁・保塁等を指しており、不動尊までが妹ヶ谷城の一部であった事になる。この研究結果を読むと砦のような物が浮かび上がってくる。

上日野の小柏氏が鎌倉方面からの侵攻に供えて、鼠喰城の出城とした可能性も高いのではなかろうか。何故なら妹ヶ谷から山を越えて来れば、すぐに小柏村となり侵略される危険性が高まる事になる。

小柏氏はその舘の東、約200mの所に砦を築いていた。ここは街道を見下ろす位置にあり、小高い丘・山のような場所であり、其処は城山(じょうやま)と呼ばれていた。

砦状の物も城(しろ)と呼ばれていた事が分る。妹ヶ谷城もその役割から見て砦のようなものであったと考える事が出来る。その規模にもよるかと思えるが、先に見たように砦であっても城と呼ばれたのである。

この城山の砦と妹ヶ谷城の関わりが考慮されるところである。城山と妹ヶ谷城との間で狼煙などによる連絡方法を確立していた可能性に注目したい。小柏氏は西御鉾山の頂上近くにも鼠喰城を築城している。

見渡す限りの山を所有していたと伝えられており、この辺り一帯の山の支配権を有し、配下の者や農民たちも山は自分の家の庭のように歩き回っていたと考えられる。したがって妹ヶ谷城のある山にもその影響力があった事は否めないものとなる。

更に小柏重高は舘の西方の火口山に草庵を建てて、そこに潮音を招じている。私はこの草庵の場所に思いを馳せる。そこは何もない、ただの山で潅木や萱が生い茂っていたのであろうか?否である。

そんな所にいきなり草庵を建てるとは思えない。してみると其処は以前から小柏氏にとって周知の場所であったのだ。伐採や炭焼きなどで時々足を踏み入れる場所であったからこそ、南傾斜で良い場所だと熟知していたと考える。

そして其処が草庵の場所に選ばれたのではあるまいか。こう考えてくると草庵を立てる前にもその場所は何らかの用途に利用されていた可能性がある。炭焼き小屋・番小屋・椎茸栽培の建屋なども考えられる。

その他、少し飛躍するが見張り所・信号所があったと考える事も出来る。こう仮定すると小柏(村)を通る街道を、城山と共に東西両方で監視できる事になる。そして南側には鼠喰城と妹ヶ谷城がある。

これ等の施設が相互に連絡をとっていた可能性を考える所以である。

 年代的にみると、まず江戸時代には合戦はなくなり平和な時代が長く続いている上、この時代のことならば何らかの記録・伝承が残っている筈であるのでこの線は消える。

 次に想定されるのは上杉氏の時代であるが、その後の上杉・武田氏・北条氏が覇を競って合戦に明け暮れた時代の可能性も僅かながら残されている。しかし近隣の土塁・山城の築城年代からみて、更に時代を遡るものとみられる。

 近隣の諸城・砦には三波川譲原に「真下城」があり、その西には尾之窪城、枇杷尾根城、塩沢城、諸松城がある。諸松城の西に位置するのが妹ヶ谷城である。真下城は別名下山城といい「上州の史話と伝説その二」によれば承平五年(935)の築城としている。かなり古いものである。

平将門が平貞盛を追って、この地に来た時に要害の地と見て城を築いたという。「上州の苗字と家紋下巻」によれば、真下城は真下伊豆守吉行の築城としている。「日本城郭全集3」も真下城は真下氏の築城説をとっている。いずれにしても、真下氏が移り住んで来てから真下城と呼ばれるようになったのであろう。

 

下三波川の尾之窪城は「上州の史話と伝説その二」によれば平貞盛が築いたものという。

更に「上州の史話と伝説その二」によれば、山崎一の調査により東小学校の所が、枇杷尾根城跡である事が判明した。

戦国時代の物であり、近くに貞和二年(1346)銘のある板碑や、室町時代の五輪塔などがある。

塩沢の塩沢城については詳しい資料がないが、「日本城郭全集3」には「塩沢砦」として次のように紹介されている。

標高三百六十メートルの山頂に、東西45メートル、南北25メートルの本丸がある。東斜面に幾つかの小郭が認められる。本丸は東縁に堀があり北縁を除く他、高さ1.5メートルの土居をめぐらす。

諸松城の出城であったと考えられる。――

「土居」とは土を積み上げた土手・土塁のようなものであろう。この表現を読む限り本格的な城のような印象を受けるが、築城者・築城年代などは不明のままである。

諸松城は諸松にあり「日本城郭全集3」では本間佐渡守の城と伝えられていると紹介している。本間佐渡守が佐渡の守護代・本間家であれば16世紀後半の人となろう。すると築城年代かなり新しいのかもしれない。

この他「三波川地域城」は土塁・平山城であり、南北朝時代のもの(1392頃)として、飯塚氏の築城と伝えられているとしているものがある。しかしこの三波川地域城が前記のどの城を指しているのか判然としない。

また尾之窪城、枇杷尾根城、塩沢城の全ての別名を「三波川地域城」としているものもある。この他、尾之窪城、枇杷尾根城、塩沢城、諸松城、妹ヶ谷城とは別に「三波川地域城」という城があるとしているものもある。

これ等各種の資料を突き合せて検証した結果、「三波川地域城」は平滑・大内平の保塁六箇所を指している事が分った。飯塚屋敷の近くである。されば、これは飯塚氏の築城に間違いあるまい。

前記の5城とは別の城である。さて収集した資料を全て披瀝して分析したところで、結論を誘導してみよう。

小柏氏は鼠喰城に不動明王を祀っており、西御鉾山の頂上にも不動明王を祀っている。その他黒滝山の不動寺にも不動明王があり小柏氏の守り神ともいえる。

三波川小柏氏の話では、妹ヶ谷不動尊・野々宮神社などの土地も小柏氏の所有との事である。

妹ヶ谷不動尊の奥(裏山)にある妹ヶ谷城は、やはり小柏氏に関係した城址であると考えたいが、この地域は多くの武将が跳梁跋扈したエリアであり、色々な可能性を秘めている。

また飯塚家にはそれこそ厖大という言葉が、ピッタリなほど古文書が残されているが、多くは江戸期などの近世文書である。

記録などは戦国時代からあるようだが、その記録の中に妹ヶ谷城を築城したという記録はないようである。すると妹ヶ谷城は更に古い年代の築城だったのか、或いは飯塚氏とは別の武将が築城したという考え方が出来る。

ではそれが誰かという事になるが、残念ながら現時点では詳らかに出来ない。城の様式・年代など更なる研究が必要なのである。

「真下城」の築城が935年と見られ、三波川地域城の築城が1392年頃とすれば、この地域での築城は457年間に亘っている事になり、あまりにも長い期間になりすぎる嫌いがあるのだ。

鼠喰城の築城は「日本城郭全集3」では1367年としているが、様式からするともう少し年代が降る(15年程か)可能性もあるとしている。いずれにしても三波川地域城の築城年代と鼠喰城の築城年代は近接している。

真下城と尾之窪城とは同時代の人物が築いたと伝えられており、これからすると両城の築城年代は近接しているとみる事が出来る。

地理的・配置的な面から考察すると、真下城は神流川入口の抑えとみられ尾之窪城は山上に有る事から砦・出城・見張り所的な意味合いを持っていたと考える事が出来る。

三波川侵攻の抑えの役目を担っていたのが、川の北岸に設置された枇杷尾根城・南岸に置かれた塩沢城・諸松城であり、枇杷尾根城が三波川の入口を守る前進基地のように映じてくる。

塩沢城と諸松城とは近接しているので、おそらくは築城年代にかなりの開きがあるのではないかとの推察が成り立つ。両城は1キロメートルと離れていないので、塩沢城を諸松城の出城と見做す事は無理があるように思う。

諸松城から、その西方に位置する妹ヶ谷城まではかなりの距離がある。実質的・直接的に三波川の領土を守備する枇杷尾根城・塩沢城・諸松城の三城の築城年代・築城者を明らかにする研究が待たれる。

この三城の関わり合い、性格などが分かってくれば、その奥に位置する妹ヶ谷城の姿・輪郭も次第に見えてくるのではなかろうか。

三波川流域の諸城だけではやや史料が少ない感もあるので、この他のやや離れた所に位置する三ッ山城・浄法寺城についても見ておこう。三ッ山城の内城とされる浄法寺城は舘跡・保塁であり、1566年以前に長井豊前守信実が居たという。したがって築城推定年代は16世紀初頭頃になろうか。しかし浄法寺城は1350年頃の築城といわれておりかなりの開きがある。

総花的に概観するとこの地域の城の築城年代は、14世紀後半のものが多いといえようか。14世紀は新田義貞が大いに活躍した時代である。義貞は楠正成の千早城を攻めた後、上野に帰国し準備を整え倒幕の兵を挙げている。

鎌倉を落して京に上った義貞は足利尊氏の勢力討伐を目指し、鎌倉に向かったが箱根の戦いに敗れている。尊氏は鎌倉にいた弟の義直とも血みどろの戦いを繰り広げている。

1355年には新田義宗が上野国に挙兵し鎌倉を目指して、武蔵国の各地が戦場となっている。上野国守護や関東管領の職にあった上杉氏もまたこれ等の戦乱の中に巻き込まれている。

14世紀後半から15世紀前半には、上野国の武士集団によって各地に宝篋印塔が建てられている。この後も結城城合戦が勃発し関東の大動乱へと戦乱は続いてゆく。南北朝の動乱期から関東の大動乱と続く、この時代に幾つもの城が造られたとすればその世相から自然の成り行きであろうか。

妹ヶ谷城の築城年代が、近辺の諸城と同じように14世紀後半(或いは13世紀後半~14世紀後半)と類推するならば、ほぼ同時期に鼠喰城を築いた小柏氏の影が強くなってくる。

上日野小柏から峠一つを越えれば妹ヶ谷である。北に位置する小柏村を頂点として鼠喰城と妹ヶ谷城を結ぶとほぼ二等辺三角形の形になる。(妹ヶ谷城の部分がやや右下に長くなるが)

妹ヶ谷城を小柏氏が築いたとすると、竹野にとってこの地は先祖が足跡を残した縁由のある処であり、愛着もあり近くに住んでいて土地勘もあった事から入植したと考えればさほど無理が生じないと言えようか。

なお、三波川小柏氏によれば、飯塚氏は源姓、小柏氏は平姓で地域や役割を分担していたようだとしている。

小柏氏は三波川上流の山や水源の管理を行なう傍ら、祭祀や行政の一端を担い、猟民・農民の取り纏め・調停などに力を発揮していたと推定される。上流の方までは目が届き難く、飯塚家は主としてそれ以外の土地を管轄していたのであろうか。

  妹ヶ谷城と小柏氏

 

妹ヶ谷城を築城したのは誰か?そしてその城主は誰か?という命題はなかなか興味のあるところである。ここでは一つの小考察を述べさせて頂く。

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2007年2月 5日 (月)

 因果の水鏡菊が池

因果の水鏡菊が池

次に大正十年に宝積寺住職、西有穆堂によって、書かれた「因果の水鏡菊が池」を概観していこう。原文は長文なので筋のあらましを記す事にする。尚、原文では小幡家は小旗の表記になっている。

第一幕は妙義山参詣の場である。主役は小幡上総介信真である。お菊は妙義町中里村の庄屋菅根正治の娘となっている。山桜に飾られて美しい妙義山麓の妙義神社の紹介から物語に入っていく。

 神社には何百段もの階段があり、社殿そのほか立派に壮麗な建物があり、裏山の妙義山は奇岩、怪石がががたる絶壁を織り成している。信真は家老の森平策之進他十数名の供侍を連れて、通り道の一ノ宮貫前神社の参詣を終え、領内の妙義神社へ参詣にやって来る。

 時代は秀吉の小田原攻めの少し前である。武田信玄の二十四将の時代を経て、今は北条氏直に仕えている。この時、妙義神社へ参詣を終えて帰路についていた菅根正治夫妻とお菊は、領主のお通りと聞き平伏していた。信真はこの時ちらりと見ただけであったが、お菊の輝くような美貌は心情に響くものがあった。

信真は家老を通してお菊の素性を問いただした上で、一両日中に殿中へ罷り越すよう申し渡した。

第二幕は城内酒宴の場である。お菊は既に侍女として、城内に奉公し一年が過ぎていた。はや、一目ぼれしていた信真の寵愛を受ける身となっていた。

菅根正治は甲州巨摩群藤井の庄の出身であり、信真が信玄に仕えていた頃からの旧臣となっている。

信真はお菊に黄金一封を与え、正治を重い役に取り立てて用いる旨を伝えた。この後、お菊のお酌で酒宴に移っていく。この時お菊は十九歳。信真は世継ぎの信直が五歳で早世し世継ぎの子がなかった。侍女たちは別間に下がってからお菊に嫉妬し、あたりちらす。

 やがて信真は、またお菊を呼び寄せ奥方も下がらせる。

第三幕は小田原出陣の場である。国峰城から赤城山、妙義山、榛名山の秀峰が望める。信真の妻は箕輪城の長野業政の娘である。お菊は子供のない時には、観音様を振興すれば子供が出来ると聞いています。

宝積寺の住職からも、大本山総持寺の螢山禅師の母が観音様を信仰し、一日に観音経を三十三編も読み、南無観世音菩薩と三万三千参百参十三編唱えて、長い間、信仰を続けたところ螢山禅師が生まれたという。宝積寺の観音様は霊験新たかな、観音様で小柏源助定重公の守り本尊と聞いています。

この観音様に殿様の武運長久を祈り、奥方様にお子様が出来ますよう祈っています。と出陣前の信真に話した。この後も二人きりで酒を酌み交わすが、信真が奥方に子供が出来なくても菊に出来ればよいと言うと、お菊は実は妊娠して既に五ヶ月であると打ち明けた。きょう言おうか明日言おうかと思案していたが、明日は出陣との事、思い切って申し上げますと言う。

信真はあっぱれあっぱれ、世継ぎに致すとして、正宗の短刀とお墨付きをお菊に与えた。

第四幕はお菊折檻の場である。信真は小田原へ出陣し留守である、奥方八千代の君は侍女の初代を呼び寄せ、菊女に与えた短刀と墨付きを奪い返すよう指示する。初代は機会を捕らえて、お菊の留守にその居間へ忍び込み、手文庫より短刀とお墨付きを盗み出す事に成功した。

嘆き悲しむお菊を、お殿様より拝領の品を盗み出されるとは油断千万、御殿奉公が勤まらぬぞと奥方は責める。今朝ご飯の中に、縫い針が二本入れてあったのもお前のやった事だろうと更に責め続ける。

拝領の品を無くしたとは嘘で、隠し男子がありその男に渡しておき、自分を殺して国峰城を乗っ取る積りであろうとした。

殿様の子とは偽りで、その隠し男の子供であろうと無実の罪を着せるのであった。必死に弁解するお菊の話は聞かないで、集まってきた他の侍女と共に散々に殴ったうえ、山田軍兵衛に命令して蛇責め百足責めにする事とした。

この時、柴田外記が現れて、自分は菊の守護を命じられている者であり、この処刑は承知出来ぬと反対した。奥方は殿の留守を預るは自分であるとして、山田と共に柴田を叱咤し、奥方は閉門を申し付けた。山田は更に、腹の子はあの柴田の子であろうとお菊を責め続ける。

第五幕は宝積寺門前の場である。時は天正十四年九月十九日である。東に赤城山、西に妙義山が望め、七堂伽藍が完備している曹同宗の古刹宝積寺門前である。国峰城からは約二十丁の所、駕篭に載せられたお菊が来る。宝積寺の後にある熊倉山を一里ほど登ると、池がありそのほとりに篭岩と呼ばれる石窟がある。

この中に石櫃をこしらえ、蛇や百足を入れてお菊を責め殺そうとする。宝積寺は十万石の格式を持ち、末寺五十三寺、孫寺を含めると百寺ほどになる。開基は国峰城主小幡実高である。

お菊は一縷の望みを持って、住職への面会を山田に懇願する。山田は許可しなかったが、他の侍たちの意見を入れて住職に会わせる事にした。

女人禁制の山なれば、第十世魯嶽禅師が山門まで出て、直々に山田に会い助命を取り計らう事となった。魯嶽はお菊に向い、当山は小幡家の開基なれば、なにかある時は一肌脱がねばならぬ、そなたに無残な刑罰を行う事はお家の為にもならぬ早速、国峯城へ行き奥方に助命の儀をお頼み申す。と言う。

尚、山田他同行の侍たちに向って、これから城に上がって奥方へ七つの膝を八重にも折って、お頼みすれば宝積寺と深い縁の小幡家のこと、きっと聞いて下さるに違いないしばしお待ちくだされと言う。

この後、寺側と侍衆の間で押し問答が続くが、暫くの間この場所で住職の帰りを待つ事になった。

第六幕は熊倉山蛇責めの場である。熊倉山の頂上に周囲七、八丁の池がある。青く澄んでいる水が満々と湛えられて、そのほとりに岩石が峨ゝと聳えている。日が暮れるまでは山門の前で住職の帰りを待っていたが、山田が痺れを切らして池の所まで移動してきたのであった。

この時、急を聞きつけたお菊の母たまが、狂気のごとく髪を振り乱してこの場所へ駆けつけて来た。無実の罪で蛇責めにあい殺されるとは、あんまり無慈悲です。後生ですから助けてください。叶わぬのなら私を身代わりに蛇責めにしてくださいと、山田を伏し拝み懇願する。

お菊に会わせて貰ったたまは、いまはの際に会えたのはせめてもの慰め、菊死んでもこの怨みは忘れるな、丁度ここに親類から貰った煎りゴマがある。これを池のほとりに蒔くから花を咲かせて見せなさい。と言い、お菊は蛇や百足にこの身が食い荒らされようと恨みに思うのは、無実の罪に陥れた奥方や侍女、この後はゴマに花を咲かせ小幡家と宝積寺に祟りをなします。と答える。

居合わせた寺僧を初めとして、同行してきた侍の中にも処刑を躊躇し反対する者もあった。殿の留守中に、その寵愛する侍女を処刑しては、後の処分が恐ろしいと言う者もあった。

たまは夫の正治と日頃仲が悪く、しかも侍女初世の父親でもある山田に最後の恨み言を言う。菊がおってはお前さんたちの邪魔になるので、謀を廻らし菊を無実の罪にでっち上げた張本人であろう、言い訳はあるかと詰め寄る。

住職もいまだ帰らず、山田は矢庭にお菊親子を石櫃の中に押し込み、外から鉄の錠を掛けてしまった。その時、一人の侍が先ほどの煎りゴマに花が咲いているのに気がついた。ここに、熊倉山に鉄砲を担ぎ猪狩りをしていた小柏源助定重公が、お菊親子の悲鳴を聞きつけて駆けつけて来た。

一旦下がった柴田外記も、この時になって再び駆けつけてきた。定重公は、吾こそは、武田信玄二十四将の一人、小幡上総介信真公とは親友にして、平重盛の末孫、小柏源助定重なるぞ、汝らは何者ぞ、鏖(みなごろし)にしてくれん。

とのたまう。

山田他侍衆は敵わないとみて、逃げ惑うがたちまち定重公と柴田に皆殺しにされてしまった。定重公が鉄砲のこじりで、石の櫃を打ち破り既に虫の息のお菊親子を助け出す。小柏公は腰の印籠より薬を取り出し、手当てをする。

石の櫃よりニョロニョロと這い出す蛇と百足を、ハッタと睨みつけ汝等虫類の分際にして、万物の霊長たる人間を食い殺すとは何事ぞ、汝らを皆悉く皆殺しにしてくれん。と大音声で、鉄砲を振り上げれば蛇は鎌首を下げ、百足はうなだれ逃げ去ってしまった。お菊親子はかわるがわるお礼を申し述べる。

お菊は最早この世の見納め、私の亡き後は小柏様のお家繁盛を守護いたします。無事息災にお暮らしなされて下さいませ。この後、私を信ずる者あれば何事によらず、願いを聞き届けんと言い残し、息を引き取った。

定重公を中心にして柴田、寺僧は遺骸をかたずけ、お菊親子の遺体は宝積寺へ運んだ。

 

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2007年1月22日 (月)

 国峰城落城

 国峰城落城

 「上毛伝説雑記」巻の十一に「上野志料集成」が収載されて、「小幡傳來記」が載っている。少し読み易く修正し次に大略(抄)を紹介する。

 小幡家譜の事

 尾張守重定は實高の嫡男。後に新龍斎日永と号す。上総介信貞は重定の嫡男、長野氏の妹婿。風山宗家居士と号す。弾正忠信氏は信州神原で討死。播磨守昌高は長篠にて討死。又八郎昌定は遠州三方が原にて討死。

 小田原攻の事國峯城合戦の事 

天正十八年関白秀吉公、小田原の北条氏政を滅ぼさんと思し召され、三十万騎を引率し、氏政と対陣す。また御加勢には、徳川家康公、織田信雄公、都合五十万騎と聞く。

小田原城中に相詰める人々には、武州忍(藩)の城主成田下総守長康、岩槻の城主太田三楽、新田金山の城主由良信濃守国繁、足利の城主長尾顕長、佐野の城主宗綱、松井田の大道寺駿河守、鉢形の城主北条安房守氏邦、これは小田原へ子息を遣わし、

その身は北国の押さえとして、

鉢形に在城し桜沢八幡前に砦を築き、藤田正龍寺の後ろの大山の上に、楼閣をつくり大鐘を釣り北国勢が攻めて来て、藤岡八幡山に見えたなら、この大鐘を鳴らし相知らすべしとの約束なり。

今に至りそこは撞鐘堂と名付けられた。国峯の城主小幡上総守、これも同じく小田原城に相詰める。城代に子息左衛門佐信秀を置いて、宮崎城には小幡左衛門・同彦三郎が参百余騎にて相守る。

その他前橋、倉賀野、松山、川越、沼田、古河、関宿、平井、八幡山、館林、宇都宮も催促されて小田原城に相詰める。

文明、応仁以来の大合戦である。北条氏も早雲より五代続いて、八カ国の管領となっているので一族も増え、何十万人とも数知れぬ籠城となり、五年、十年では落城するはずはないと見えた。

これにより、関白秀吉公は長陣の支度をして、七十間に渡って陣小屋を作らせ、京都、大阪、奈良、堺より町人どもを呼び寄せ町を作り、店を出させ何でも不足のないように、種々の品物の商売をさせた。

金銀銅鉄の細工職人まで悉く、呼び寄せたのであたかも京都、大阪のようになり、急に賑やかになった。このとき、北国よりも秀吉公へ加勢として、加賀の国守菅原の朝臣利家、越後の太守上杉景勝、両大将が北陸道七カ国の勢を率いて笛吹き峠(碓氷峠)を、攻め破り坂本を焼き払い、松井田を十重二十重に取り囲み、昼夜息をもつかせず、攻めたればこらえられず落城す。

それより先には宮崎城をなで斬りにし、国峰城へ押し寄せ鯨の咆哮の如く、鉄砲を撃ち矢を射掛け喚き叫んで攻め戦う。この城は追手北向きで山はなく、南は秋畑山、

秩父まで連なる高山、西は岩染・五賀・高瀬まで、屏風を立てた如くの険山なり。城山は遥かに秀で続く峰なし。

寄せ手大軍にて取り囲み、数日戦うといえども、基より名城にて要害なり。殊に浅鹿民部という智謀あり、武勇を兼ね備えた士である。

計略を廻らし、戦わずして勝利を得、大敵を滅ぼしければ、流石の大軍も呆れ果てて控えたり。さりながら、この城は山上に水がないので、東の方の谷の水を汲んでいる。ここに加賀大納言利家の家臣、山崎勘斎という者がこれを見つけ、大勢の番人を付けたので、これにより城中渇きに苦しむ。

数日のことなれば、梅林を指すに術なし。時に浅鹿は思案し、馬を数多く高い所へ引き出して、白米を流しかけ、水がたくさんあるように見せかけた。寄せ手これを見て、城中に水不足はないから、馬どもを洗っている、無駄骨折りて益なしと水番人を引き上げた。

しかし寄せ手多勢なれば、入れ替え入れ替え、息をもつかせず攻めたので、今は門を一つ押し破り、櫓も塀も引き倒し、えいやと声を上げて攻め上る。城中からも矢玉を透間もなく射かけ、ここで死ぬ積りで防いだ。

ここにおいて、寄せ手の軍兵、二町ばかり引き退く。浅鹿民部は五十騎ばかりを従えて、逃げる敵を追いかけ此処の谷、あそこの落とし穴に追い込み、大勢打取り引き返し、太刀の血を拭い本丸に上がり、左衛門佐殿に軍の次第を申し上げ、涙をはらはらと流し、君の御武運もこれまでにて御座候。

随分城中の者共、防ぎ戦い候といえども、敵大勢の事にて候へば大水の堰を切ったる如くにして、防ぐべき術なし。君には早々後ろの山より、ひとまづ何処方へもお落ち下さい。某は城中に踏み留まり、おっつけ日暮れたなら城に火をつけ、殿は御自害のように見せかけ御跡を慕い参るべし。

はや得々と諌めれば信秀是非もなく、暮れ方に共をも連れずにただ一人、城中を忍び出て南の方、秋畑山は大山のことなれば、敵の入る懸念はなく、樵の通路ありて、草深く九十九折のような所を、ようよう辿り鷲翎山の峯に上りて、国峯を見れば民部は、はや城に火をつけたと見え、炎天に登り日中と異ならず。

屋形、櫓焼け崩れる音に、敵の勝どきの声夥しく聞こえける。信秀は民部が来ないが、峰を伝い鹿島という所に下り給えば、夜は東雲になりにけり。

信秀思し召す様は、おっつけ夜も明ければ、日野谷の者共、我が身の態を見るならば、必定咎め捉え置き敵陣へ注進すべし。

もしそのような事になれば、逃れ出て来た甲斐もなく、莫大の恥辱也。如何せんと思し召し案じて、煩い給いしに傍らを御覧ずれば大なる森あり。この中へ立ち寄らせ給い、見れば大社ありて鹿島明神と額あり。

これ究竟の隠れ家と思し召し、戸を押し開き立ち入らせ給う。それ鹿島明神は往古よりも軍神と、申し伝え候へば、信秀行く末安穏に守らせ給へと祈念して、勿体なくも神殿の内に隠れ居させ給へば心細い事なり。

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2007年1月 3日 (水)

鎌倉時代の小柏氏 南北朝時代 鼠喰城

南北朝時代の小柏氏 鼠喰城

 上杉氏は藤原家の出であり、天皇家とも縁続きの日本史史上の名族中の名族である。足利氏とも濃い縁戚であるが、ある意味では足利氏よりも上位にランクされる血統・家柄であった。南北朝時代には足利尊氏によって、上杉憲房が上野守護に任じられた。

憲房の子が憲顕でありいわゆる山内(鎌倉)上杉氏の祖となった。山内上杉は扇谷上杉、侘間上杉、犬懸上杉とは元々兄弟であるが、後に相戦う事になる。

憲房が京都で戦死した後、憲顕は新田義貞が国司を勤めていた上野国に入り高崎南部の八幡の庄を与えられた。

この頃は南北朝の争乱が顕著であり、双方の勝敗もめまぐるしく入れ替わった。憲顕は越後の守護も兼務となり、上野支配は安定した。しかし尊氏は弟直義と対立し、直義方についた憲顕は武蔵野の合戦で敗北して越後に逃れた。

10年後、待望論が湧き起こり憲顕は再び上野に戻り関東管領に就任した。

小柏實親の子重親は平太夫とあり、宮内少輔、従五位下とある。鎌倉管領足利左馬頭基氏に属し、基氏の執政を勤めていた副将軍上杉民部大輔憲顕は鎌倉山内に住んだ。これに従い、小柏重親も近くに居を定め勤番していたが延文五年(1360年)に没した。

重親の子重家は小柏庄司を名乗り、上杉に仕え幾つもの手柄を立て頭角を現した。

重家の項には、歴代日野庄小柏村に住んだとあるので、本拠は小柏村に置いたまま鎌倉に勤番していたようだ。

小柏重家は第八代の関東管領上杉安房守憲方(右京亮)に従い、鎌倉に勤番していて数々の武功を挙げた。貞治6年十一月(1367年)には小柏村に宝塔を建立している。応永年中に没して同所の嶽ノ本に葬られ、その墳墓は今もあると添え書きにある。嶽ノ本とは小柏屋敷跡の、西南の隅にある墓地のことであろう。

この墓地には小柏氏歴代の石碑・供養塔などの石造物群があり、今も静かに木漏れ日のあたる木立の中に眠り続けている。

小柏屋敷に最後に住んでいた「逸」の墓碑もここにある。

群馬懸多野郡誌によれば、この宝塔は九輪の塔であるとしている。その碑文は

 謹募衆縁 造立貞治第六丁未霜月日謹記  

もう一塔の碑文は

 逆衆□□□應永二十巳年二月日

藤岡市史ではこれを小柏家墓地内、宝篋印塔としている。

重家は小柏館の下を流れる鮎川を渡った所、西御荷鉾山に鼠喰城を築造している。山崎一氏著の「上野国古城塁跡の研究」などを見ると、尾根筋を利用した山城であったと思われるが、高低差を持ちかなりの規模を有しているようだ。

標高700mから950mに亘って四つの土塁・砦・本丸などに分れている。    

 「多野郡誌」に次のようにある。

 鼠喰城址 大字上日野村字御荷鉾山内にあり東西弐拾五間(45mか)南北四十

五間(81mか)ばかり、二段にして平坦なり貞治六年未年小柏荘司重家ここに築き住いすと上野鑑に見えたり。

鼠喰城(ねずはみじょう)はなんとも奇妙な名前・命名ではある。芋や食物でもない城がなぜ鼠喰みなのか。卑下・謙遜したとしても、築城した本人の名づけたものではなさそうである。

 御荷鉾山の北面、標高九百mの所にあり、城(じょう)と呼ばれて南北六百mほどある。南端は山頂に程近い。貞治六年(1367)小柏庄司重家が築いたものという。(群馬県古城塁址の研究下巻参照 多野藤岡地方誌・各説編)

小柏重家の跡を継いだ重徳は六郎を名乗り、鎌倉将軍足利基氏の第11代関東管領上杉安房守憲定に仕えた。この時代、小柏正系図では当初南朝の元号を使い後に北朝の年号を使用している。

上杉氏の守護国は上野、武蔵、伊豆、上総、下野の五カ国になり関東管領として支配を確立していた。山内上杉は憲顕のあと五人が関東管領の職を勤めた。憲定の子、憲基の時に、上杉氏憲(禅秀)の乱が起こり、憲基は一時越後に逃れたが、寺尾、小幡、小柏(高家)、白倉氏を従え犬懸上杉(禅秀党)を打ち破った。

上杉憲基は従兄弟の憲実を養子として、憲実は第14代の関東管領となった。

一説には鼠喰城に敵勢が押し寄せた時に、敵軍の野営陣地に鼠が大挙して現われ弓の弦や刀の柄の糸を齧って切ってしまったという。この為、さしもの大軍も戦闘能力を低下させてしまい散々に打ち負かされたという。(ふるさと伝説)

鎌倉時代の小柏氏

 小柏維基は成人するまで、産衣のままで暮らしたと記載されている。(於襁褓之中為成人)おそらくは掻巻に帯一本締めただけの格好で通したという事であろうか。鎌倉殿を恐れて諸所を流浪し、上野国小柏村に至り遁世していた。

ここで小松の称号を小柏に転じたという。(小柏正系図)松の木が柏の木になっただけの改姓で、ありそうなことではある、柳にすれば小柳、杉にすれば小杉となり栗なら小栗である。

半分は元の本名を残しており、世を忍ぶ仮の姿であればよく用いられそうな変名スタイルといえる。井戸氏には同系統に熊井戸氏、古井戸氏、大井戸氏などがあり、小柴から分かれた姓に、文字を分解したと言われる小此木氏がある。

関連は不明だが小幡氏が居城としていた国峰城の近く、南側に小松という地名がある。系図には維基が小柏の始祖となり、子孫が連綿と相続しているとある。

維基の子維里は通称小柏太郎と名乗って小柏村に住んだ。維里の子時基は世襲制でもあったのか、やはり小柏太郎とされている。

1221年に後鳥羽上皇が、鎌倉幕府倒幕の軍を起こし承久の乱が勃発した。この後、六波羅探題が設置され朝廷は監視を受けるようになった。小柏時基の子維仲は市太郎を名乗り、北条陸奥守時村に従って鎌倉に住み、後1278年時村が六波羅探題に任じられ、京都六波羅入りした時に同行している。

維仲の子重胤は右衛門太郎と名乗り、六波羅探題となった北条左馬介基時につき従い京都に住んだ。

基時はこの後1315年に鎌倉将軍執権となった。小柏重胤の子時實は市次郎を名乗った他に事績の記録はない。時實の子實親は與市と名乗り、鎌倉で奉仕していたが、守邦親王の治世に執権、北条相模守高時(宗と号したと云う)の時、元弘三年(1333)に新田義貞に攻められ、鎌倉が陥落した時に討死している。弟の實季(小柏兵庫助)もこの時一緒に討死した。義貞が上野国から鎌倉へ侵入した時点で北条高時は自害して果てた。

同じ頃、高山越後守時重も同じく北条氏に属していて、武州関戸に新田義貞軍を迎え撃ち、粉骨砕身して働いたが同所で討死した。

高山(藤岡市)の高山氏は、南上州一の名族と言われた大氏族であり、小柏氏よりも古くから記録が現れ、「吾妻鏡」にも名前が記されている。その子孫は連綿と続き現在に至るも各方面で活躍している

小柏氏は「ふるさと人ものがたり」に、維仲の時から北条氏に仕え、弘安元年(1278)時村の六波羅探題就任に従い、数年間京都大番役を勤めた、重胤も20年後に同じ役を果たしたとの記述がある。

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