2007年4月14日 (土)

小柏氏800年の軌跡 二回目の文化財調査 Ⅱ

 「小柏氏800年の軌跡」もいよいよ最終章….最後に家系図と年表を書いて終わりたいが、ココログではワードを貼り付けると、罫線がぶっとんでしまうのです。

 ワードはフオローしてないっちゅう事ですわ。

公開されている小柏正系図には誤植もあるので何とか書きたいものです….。前から色々な方法を探しているが未だに….

 ややっこしいHTMLタグっちゅうヤツに、頭を突っ込んで行かねばならないのかなあう~ん!

どうしょっ

タチツボすみれ

Photo_119

    「........」 「スリーダイヤ ?」

Photo_120

 二回目の文化財調査 Ⅱ

 第Ⅴ章 確認された遺構と遺物の章では、西側の石組み遺構付近で中世末頃の内耳土鍋・羽口が出土した。同嶽ノ本・嶽ノ鼻にある堀切には埋蔵金の伝承があったとしている。この為下部は破壊されていたという。

 誰かが宝探しをしたものらしい。また近世において小柏屋敷に火災があったらしく、焼土層があったという。この焦土層を切って江戸末期から明治期の石垣が東西に走っていた。この焼土層からは焼けた肥前陶磁器・桟瓦が出土した。南東側の畑には小柏屋敷の居住者伝承があった。

 西側隣接地には寛政六年銘の緑泥片岩製庚申供養塔が所在する。出土した軒丸瓦には小柏氏の家紋である「丸ノ内釘貫紋」があしらわれていた。版築部分には中世の志野焼皿・中国渡来銭が混入していた。

 小柏氏在居時、科人断罪伝承があった「インゴウバタケ(インドウバタケ)の南側では出土物はなかった。東側には近世の廃寺伝承が残っている。

 まとめとして、(A区)東側は小柏墳墓と近く、中世~近世の要素を多分に含むが性格は不明である。(今回調査の対象地域が狭いため)中央部は近世小柏屋敷南端部に含まれ、入り口状遺構・暗渠遺構が検出された。

 西側は焼土層が厚く堆積している。小柏屋敷火災時の物であろう焼土瓦礫が投棄されていた。南側は石垣を中心とした複合遺蹟と考えられる。対象地域が300㎡と狭いためであろう、小柏舘(屋敷)跡の広がりを示す遺構は本調査では確認できなかったとしている。

 また南側は素堀をした跡があり、後に再掘削を行い石垣を築いたと見られるとしている。前回の調査及び本調査により、中世小柏舘期、小柏氏信濃移住期、中世~近世小柏屋敷期の3時期に大別される事が判明したと報告をまとめている。巻末には現場の写真及び空撮写真、出土物の写真を掲載している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月23日 (火)

小幡信秀向陽寺に隠棲

 

 小幡信秀向陽寺にて遁世

大澤不動の由來信秀向陽寺に入り給ふ事 

さるほどに、信秀は既にその日も暮れければ、鹿島の神殿を立出でさせ給い、暗夜に紛れ、細道を谷川の流れの音を頼りにして、方角も判らぬ山中をあなた、こなたと踏み迷い、谷より峰また峰伝いに、そこはかとなく行くほどに、ようやく三里の所を十里ばかりにも歩き給うぞは憐れなる。

 向こうを見給へば、ほの暗き中に堂と思しき物見えたり。近くに立ち寄り見させ給へば、不動明王のお堂なり。信秀幸いと喜び給い、日野にては鹿島明神の社に通夜し、いままた計らずもこの堂に来たり、明王を拝し奉る事、不思議の因縁と末頼もしく思し召し、拝殿に跪き出世の事を御祈誓なされた。

まだ夜も明けざれば、暫く御堂の柱に寄りかかり眠らせ給う。そのうちに日はほどなく三笠に落ちたり。

その所へ雨(天)引村の向陽寺の傳州和尚、この不動へ参詣なされ、順礼読経の事終わりて、傍らを見給へば十八、九なる容貌清やかなる士一人、御堂の柱に寄りかかり前後も知らず眠り居たり。

傳州この有様を見給うに、羽二重の黒き小袖に、軍配団扇の中に七五三笹の紋をつけ、大広口の裾を高くさしはさみ、黄金つくりの総巻の太刀を帯し、糸の草鞋召されたり、傳州不審に思し召し立ち休らい、伴僧の行者を頻りに呼ばせ給う、

その声に信秀うち驚き目を覚まし、顔を押し拭い両膝押立てもの申さんとし、少し遠慮の態に見えければ、傳州のほうより申されけるは、愚僧の儀はこの隣里、天引村向陽寺の住持にて候が、毎月二十八日この明王へ参詣仕り候。

今日おりしもまた二十八日故、参詣をいたし候なり。貴公には如何なる人にて、此処に渡らせ候ぞや。いぶかしと申されければ信秀聞召し、さては向陽寺にておはするか、しからば事情を話しましょう。

某(それがし)の事は定めし聞き及びでしょうが、国峰の城主小幡上総介の愚息にて候。北国勢と戦い、寄せ手多勢故、終いに打ちまけ落城に及びし、是非もなく此処へ落ち延びて参りたる。

お目にかかるこそ幸いの儀に候へば、暫く貴寺に隠し置き給われと、慇懃に述べ給う。傳州聞きて驚き入り、近くよりて手を束ね、さてさて如何なる人ぞと思いしが、御物語を承りては、聊か疎かにすべき儀ではなく候。

これと申すも偏に不動明王の、お引き合わせと覚え候。よくよくこの不動明王は春日の作にて、霊験いま以ってあらたかに候。

由来を申せば、昔此処の城主、羊太夫という人は神変奇異の名将にて、奈良の都まで百五六十里の行程を、日々参内怠らず。また家僕に八束小脛といい、権化なる者ありて主人に従い往来す。

この者の脛は八束ある故、八束小脛と申すなり。その頃羊太夫、奈良にてこの不動を求め来たり、堂を建立し安置し治世安民を祈らせ給うと、古老この事を語り伝える。それ春日の作と申す事は、ある説に藤原政純の刻みたるを申すなりと。

この政純は、春日明神より柄に鹿を彫りたる小刀を、お社参のとき申し受け、奇妙に細工を刻み浮かべ給うとなり。

即ち春日の化身といへり。さるによりてこの作は別して霊験に候なり。よくよく御祈念なさるべし。ご出世疑い候わず。まづ愚寺へお立ち入り候へと、伴い寺へ帰りたる。この傳州忠的和尚は、俗姓を尋ねれば、甲斐信玄公のご一族にて先年信玄公と、上杉憲政公と笛吹き峠にて合戦の節も、向陽寺より打って出て甲州勢に加わり、幾多の手柄を致されたる人なれば、甲斐甲斐しくも情けを懸け時節を待たせ給いけり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月29日 (金)

鹿島神社建立 日野お天狗

 鹿島神社建立

小柏維基は上日野村鹿島に鹿島神社を建立している。

鹿島神社は別名を「日野お天狗」といい、またお天狗様とも上の天狗とも呼ばれている。同社の祭祀は氏子や村民によって、連綿と続けられ今に至っている。夫婦和合の信仰もあるらしく、境内の端にそれと分る石碑が幾つかあり、男女抱擁の石碑、「陰石」と呼ばれる物もある。

「多野藤岡地方誌・各節編」及び「群馬懸多野郡誌」によれば、同社は延享元年(1744年)に火災(祝融の災)により消失し、村民により再建されている。この際に(延享二年)奉納された棟札によれば、願人酒井與惣左衛門とあり、この人が発起人代表であったと見られる。

棟札に「当社は小松内大臣平重盛の末裔、小松平太郎維基が上野国小柏村に蟄居し、建久7年9月(1197年)に本姓を小柏と改称した際に創建した」とある。更に「所蔵していた甲冑・武具を奉納したところなり」との記載がある。「翌二年八月村民相計り、これを再建す」と続いている。

鹿島神社は旧村社であり、(明治九年に上日野村社となった)諏訪社、八坂社、天神社、熊野社が合祀された。

慶応三年には神祗伯王家、駿河守藤原朝臣より正一位鹿島大神宮神璽及び副翰を下賜された。祭神は「武甕槌命」であり、宝物には鏡二面(径四寸・三寸三分)、古刀一振り(相州住友光作)、古槍一筋(天国藤原吉次作、穂先一尺二寸)、扁額二面(鹿與紅葉乃賦、寛延二年東都空門子覚胤撰と源義恭筆)春には太太神楽、秋には山車と獅子舞が行われているという。

「甘楽町史」にもほぼ同様の記事がある。祭神は武甕槌命であり、小松内大臣平重盛苗裔小松平太郎維基が、本姓を転じて小柏と改称の際を持って、創立し所蔵の甲冑戒具を納めたる所なり。としている。

「上野雑記」にある小幡伝説によると、天正18年(1590年)の小幡国峰城落城の折、城主上総介信貞の嫡男信秀が供も連れず一人で峰伝いに逃れてきて、疲労困憊の果てに鹿島神社を見つけ、これ幸いと本殿のうちに隠れ一夜を過ごしたという。

城を攻める寄せ手は大勢であり、果敢に戦ったが防ぎようがなくなったと家臣の浅香民部により、落ちて行くよう進言されたものという。

しばし時間を稼ぎ、信秀が自害したように見せかけ、城には火を放つて、後を追いかけて行くので、安全な秋畑の山伝いに落ち延びるようにとの言を入れての事だった。

同社で一夜を明かした信秀は、翌朝参拝に訪れた天引村向陽寺の和尚と顔を会わせる事となり、仔細を話し、ひとまず向陽寺において保護される事になった。

この向陽寺の和尚はその昔、武田の家臣であり、豪の者であったそうな。この時、信秀はまだ十代の若者であった。後に出仕の機会を得ている。 

鹿島神宮   

   Jpg

 

                 

鹿島神宮の石碑

 Photo                    Photo_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)