小柏氏800年の軌跡 二回目の文化財調査 Ⅱ
「小柏氏800年の軌跡」もいよいよ最終章….最後に家系図と年表を書いて終わりたいが、ココログではワードを貼り付けると、罫線がぶっとんでしまうのです。
ワードはフオローしてないっちゅう事ですわ。
公開されている小柏正系図には誤植もあるので何とか書きたいものです….。前から色々な方法を探しているが未だに….。
ややっこしいHTMLタグっちゅうヤツに、頭を突っ込んで行かねばならないのかなあ…う~ん!
どうしょっ…?
タチツボすみれ 「........」 「スリーダイヤ ?」 二回目の文化財調査 Ⅱ 第Ⅴ章 確認された遺構と遺物の章では、西側の石組み遺構付近で中世末頃の内耳土鍋・羽口が出土した。同嶽ノ本・嶽ノ鼻にある堀切には埋蔵金の伝承があったとしている。この為下部は破壊されていたという。 誰かが宝探しをしたものらしい。また近世において小柏屋敷に火災があったらしく、焼土層があったという。この焦土層を切って江戸末期から明治期の石垣が東西に走っていた。この焼土層からは焼けた肥前陶磁器・桟瓦が出土した。南東側の畑には小柏屋敷の居住者伝承があった。 西側隣接地には寛政六年銘の緑泥片岩製庚申供養塔が所在する。出土した軒丸瓦には小柏氏の家紋である「丸ノ内釘貫紋」があしらわれていた。版築部分には中世の志野焼皿・中国渡来銭が混入していた。 小柏氏在居時、科人断罪伝承があった「インゴウバタケ(インドウバタケ)の南側では出土物はなかった。東側には近世の廃寺伝承が残っている。 まとめとして、(A区)東側は小柏墳墓と近く、中世~近世の要素を多分に含むが性格は不明である。(今回調査の対象地域が狭いため)中央部は近世小柏屋敷南端部に含まれ、入り口状遺構・暗渠遺構が検出された。 西側は焼土層が厚く堆積している。小柏屋敷火災時の物であろう焼土瓦礫が投棄されていた。南側は石垣を中心とした複合遺蹟と考えられる。対象地域が300㎡と狭いためであろう、小柏舘(屋敷)跡の広がりを示す遺構は本調査では確認できなかったとしている。 また南側は素堀をした跡があり、後に再掘削を行い石垣を築いたと見られるとしている。前回の調査及び本調査により、中世小柏舘期、小柏氏信濃移住期、中世~近世小柏屋敷期の3時期に大別される事が判明したと報告をまとめている。巻末には現場の写真及び空撮写真、出土物の写真を掲載している。
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