小柏氏800年の軌跡
小柏氏の始祖
上州は古くは上毛野国・上野国と呼ばれ、武蔵国とならび大国に列せられ、上毛野氏が国造として任じられ東国一帯と共に支配していた。上毛野氏は古い氏族で崇神天皇の皇子の豊城入彦命を祖としている。
また上州には有名な多胡碑があり、多胡郡の新設に伴い711年に設置された物とされる。この多胡碑から南西に直線距離でおよそ11キロの所に、西上州の秀峰・御荷鉾山がある。東御鉾山・西御鉾山の北麓には、鮎川の清流が西から東に向かって流れている。
鮎川は決して深い谷ではなく何所にでも見られる普通の小川であるが、上日野の西部から上流は渓谷の趣き・景観をなしている。この鮎川の一帯、下日野・上日野は古くは日野谷と呼ばれた。
上州日野谷に君臨していた武士団・
小柏氏は伊勢平氏の系譜を継いでいる。その系図には桓武天皇より、連綿とした系譜が記されている。平清盛の子重盛の嫡子、維盛の子維基が小柏氏の始祖である。維盛の嫡子六代丸は出家している。また清盛は天皇のご落胤との説もあり、妊娠した女を父の忠盛に娶らせ清盛が生まれたという。
別の説には、これは清盛サイドが意図的に作った話という。小柏氏正系図によれば同氏の祖「平維基」は六代丸が生まれた翌年に出生している。
小柏氏系図は、代々の継承者の名前が載っているだけではなく、主だった人には事跡が添え書きされている。
この添え書きには別記ありと書かれていて、系図の他に詳細な記録があったことを示している。
この系図は太い巻物となっており、タイトルは汚損して読み難くなっているが、かろうじて「平姓上野国小柏氏正系図」と読む事ができる。
系図に名前の記載はないが、妹の夜叉御前は維基の次に女子と記載されている。一般に系図には女子の名前は記載されない、○○の女(むすめ)とか○○の妻、○○の妹と記載されている。夜叉御前は維基が生まれた翌年の出生ということになる。
系図によると維基は幼名平太郎といい、上野国小柏(現在の藤岡市上日野町小柏)に移り住み、後に土地の名、小柏氏に改称したという。
藤岡市が刊行した「ふるさと人ものがたり」の小柏氏の項には、
「身分を隠した伊勢平氏の直系とあり、上日野小柏の高台に「小柏様」と呼ばれる屋敷があり、集落を眼下に一望できた。
半ば伝説化したこの一家の活躍の跡を尋ねる。小柏氏は伊勢平氏の末裔で、始祖は父維盛が武蔵国司在任中に生まれた平維基であり、壇ノ浦合戦後は源氏から逃れ日野の奥に隠れ住んだ。
そして身分を秘して、小松姓を小柏姓に変え、建久7年(1196)には鹿島神宮を創建したという。」
という記事があり更に説明が続いていくが以下は略す。
「藤岡市史」では「小柏」は豪族小柏氏が居館を置いたところから命名されたとしている。その屋敷跡は現存する。
平重盛一族は京都付近の小松谷に住み、小松姓を名乗っていたが、源平合戦に敗れたあと、その子孫の小松維盛が日野谷に落ちのび、隠れ住みついた時、「小松」を「小柏」と改姓したといわれている。(通史編・近世)
父の中将維盛が、武蔵の国司の時に東国の諸士に甚だ崇敬されていて、この頃に妾があり、ある時懐妊し維基が生まれたという。
「公卿補任」等によれば、維盛が武蔵野守に任じられた記録は、見受けられないようであるが、或いは目代であったか又は一時的な任官であり、辞令のないままに赴任したのか定かではない。
上日野小柏(村)から鮎川をさかのぼった所に御前岩がある。ここに六代丸と弟の維基の足跡が残っている。
「群馬懸多野郡誌」によれば、小柏を隔てること十数町、人家のなくなる所に鮎川の源流がそうそうと音を立てて、断崖の岸を洗う所がある。ここを名づけて御前岩という。高さ二十丈で絶壁の頂は天高く、中空に聳えており、岩壁の腹には躑躅(つつじ)や楓が彩っている。
遥かに御荷鉾山の秀峰に対峙・向き合うようであり、足元を見れば水石の粼ゝ(りんりん)としているのを弄ぶかのようである。と形容している。更にこの岩は平家維盛の子息六代御前が、弟の維基と共に小柏村に蟄居していた折に、ここに碑を建てた旧跡という。
そのとき建てた碑は、嘉永年間の山崩れの時に何処かへ流されてしまい、今は崖の中腹に石の階段のみが残っている。と記されている。
* 一町は109mか。十五町として約1.6キロか。
「多野藤岡地方誌・各説編」は小柏から1キロ余の所の断崖の景勝である。として平維盛の長子六代が弟、維基と共に小柏村に隠れ住み、その時ここに碑を建てた旧跡であると伝えている。その碑は嘉永年間(1850頃)の山崩れの時に流失したといい、岩の中腹に石段だけが残っている。六代を六代御前と記している。
とある。
藤岡市の旧美九里村は、古くから開けた村落でありさまざまな伝説が今に残っている。美九里の龍田寺の屋根裏から見つかったという、「神明縁起之覚え」にも文覚上人が信州善光寺への参詣の際に立ち寄った時の状況が記されている。
資料の字は薄くなっており、詳細の意味は判然としないが、本郷・神明村の境に明神の社があり、頼朝公の時に建つたとされる社という。
地頭高山遠江守の時にこの周辺に困りごと(冰嵐)が発生し難渋していた。名僧と呼び声高い、文覚上人が中里弾正の家に宿を取っていた時に、高山殿が祈祷を依頼したという。
上人は弾正をお供に参宮し内宮、外宮、土主明神、瓶子明神、飯玉明神など十二社を建立したようである。
そして地頭が社領として十二社に百石を寄進した。同社は地頭が替わっても諸役免除となり、その証文が神明の宝物となっていたが、火災により焼失してしまったという。このため、右の通り先祖代々の申し伝える事を書き記し置くものなり。この時、天正十二年。
かろうじて判じられる部分は以上である。同文書は高山家系図と一緒にあった物で、同家所蔵の物であろう。
「多野藤岡地方史総説編」によれば、美九里村(藤岡市本郷)の葵八幡の近くに、「文覚上人の垢離(こり)の水」がある。直径が約91センチ,深さが約1.9メートルの井戸である。
旱魃の時に文覚上人がここで水垢離をとって、雨乞いをしたところ雨が降ったといわれている。上人が袈裟をかけた楓の木もあった、という。文覚上人は六代の助命嘆願をして、一時は六代の命を救った高僧である。元は北面の武士であったという。出家してからの荒行はつとに有名である。
藤岡の本郷から道を西に取れば、東平井・平井城を経て下日野から上日野となる。この地に文覚上人の足跡があるという事は、六代丸の伝承がある事と併せて考える必要があるかもしれない。
日野の地名は相当古くからあったものらしく、「群馬懸多野郡誌」によれば和訓栞、和漢三才圖會に「日野は上野の邑名なり」とあり、上野名跡考には「日野は多胡(郡)の南部なり。属邑十二、或いは火野なるべし。
上古防人と烽(とおひ・とふひ)とを置きて蝦夷に備えられしといへり」とある。
また日野大宮社天文十七年の棟札に「穎野」とあるが、火野は仮説であり、穎野は音を当てたものではないかとしている。
なお、同社後代の棟札は「日野」と記してあり、他の古書、旧記には皆「日野」とあるとのこと。よって関東平野の西部に始めて山脈の起こる所であり、御荷鉾山の峻峰より朝日を迎え、夕日を送るところから日野と呼ばれたのではあるまいかと推測している。
平井以西が日野谷(ひのやつ)であり、鮎川に沿って東西に十里あると言われ、西南部には西御荷鉾山(1300m)東御荷鉾山の秀峰がそびえている。所々に集落が出来るにつれ、、日野郷と呼ばれた事もあった。
和名抄に見える多胡郡俘囚郷が上日野に当るとされる。天正年間に至り、上日野、下日野、金井となり、寛永年間に入り、これを三村として名主を置いた。そしてこの形は明治二十二年町村施行まで続いたが、三村合併して日野村と改称した。
また古くは日野は鼠食郷(ねづはみ)、井池庄のなかとして記載されたものもあるが詳細は不明なりとしている。
井池は多胡にあり鼠食は日野にある。(同郡誌)鼠食の名は今は鼠食城(跡)として残っている他には見当たらないようである。あまり良い名前ではないため、他の名称に変わったものか。
「群馬県姓氏家系大辞典」(角川書店)に、次のような記事がある。
「小柏・おがしわ(藤岡市)日野谷から南の三波川谷にかけて、小柏姓があり、上日野字小柏が発祥地とされる。
平清盛の子小松内大臣重盛の子に維盛があり、重盛(ママ)が武蔵国司の時に、妾腹に生まれた維基は、のち鎌倉幕府を恐れて上野国小柏に隠れ、小松姓を小柏に変えて始祖になったという。(小柏氏系図)
子孫は鎌倉幕府執権北条氏に仕え、幕府滅亡後は山内上杉氏に属し、平井城に出仕したという。
高政の時、国峰城主小幡重貞と姻戚関係を結び、武田氏方として、子息定重と共に長篠合戦で戦死。なお、定重は菊女伝説に登場する。後は弟定政が継ぎ、代々日野谷を支配した。
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