2007年4月26日 (木)

小柏徳氏の天引移住 Ⅰ

 

 

小柏徳氏の天引移住 Ⅰ

先の仮説が成り立たないとすると、次に考えられるのは文字通り三兄弟の子孫となる徳氏が移り住んだものか。

小柏徳氏は定重の弟、定政の孫であり、重氏の四男である。系譜によると真田伊賀守に仕えていたが、沼田城が落ちる前に辞職して小柏村に住んだとある。幼名丑之助、号を宗莫としたとされている。

兄である二男は山田家を継いでおり、三男の次兄は長兄の後継となっている。弟である五男は飯塚家を継いで、その下の弟・六男は医師となってこれも小柏村に住んだ事になっている。

いわば部屋住みであり兄の居候ともいえる。父の後を継いだ長兄に子がなくすぐ上の兄が長兄の後を継いだので、兄が二人となり更に弟の六男も居たので兄弟4人が一つ屋根の下に住んだ事になる。

となると当主の兄二人は別として、また医師の弟は収入もあったであろうから、一番居心地の悪いのは四男の徳氏という事になる。当時の小柏家の権勢からいって経済的に困る事はなかった筈であるが、兄弟が4人も居て無役となれば結婚なども、しずらいものがあったと思われる。

そうなれば考えるのは当然、分家・移住である。徳氏の兄弟は女子も含めて11人である。他に父が養女にしてから嫁がせた女子が二人おり、これも含めれば13人の大所帯となる。

この兄弟はみな近隣に移り住み、小柏家の影響力を周囲に拡大していたであろう事から徳氏も当然、移住がし易かったものと推測できる。近隣にいれば手助けをしてくれる縁戚がいっぱい居るので心強い事となる。

徳氏の父の重氏は大阪冬の陣に出陣しているが、重氏の後継者、徳氏の兄である重高の時代になると徳川の天下となり戦乱はなくなった。

この江戸時代初期には新田開発が奨励されて、各地において山や林の開墾が行なわれている。徳氏の妹と見られる「竹野」も妹ヶ谷を開拓し耕地を拡大している。羽沢村の市川五郎兵衛が、この時期に広大な新田を開発した事跡は殊に知られているところである。

しかして、この重氏の四男、重高の弟徳氏が天引に移り住んだ事が考えられるのである。この仮説であれば小幡町の堀口家のいう天引の小柏氏とは関係ないとの言にも合致する。同じく天引の小柏姓の旧家で言う堀口氏とは関係ないようだとの言にも合致する事となる。

口碑・伝承では主として定重の三兄弟の子孫といわれているが、定重は若くして戦死した為か弟の定政と混同されている例が見受けられる。ここも混同されて伝わっていたとすれば、定重の名前は定政に置きかえられる事になる。

定政の三兄弟は重氏・貞景・貞實であり、徳氏は嫡男重氏の四男でありまさに口碑・伝承に合致することから、これも傍証の一角を形成する事になる。

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2007年4月17日 (火)

鈩沢と小柏学校

 鈩沢と小柏学校

 下日野に「鈩沢」の地名がある。鈩遺跡があることから付いた地名であろう。平安期から鎌倉期にかけて銑鉄を精錬した遺跡である。周辺は古くから「かなくそ」が散乱していて「金山」の地名もあったという。

古代の大鍛冶用「たたら」であり、全国的にも稀有の物であるという。この遺跡の東方、金井にも上野国分寺瓦を製造した金山瓦窯跡があり、鮎川流域には製鉄や製瓦に関連する集団が居住していたと考えられる。(「群馬県の地名))

この集団は誰で、何所に消えたのか?近くには土師神社もあることから土師部に属する一族であろうか。

お菊伝説の項で述べた、小柏様のお通りじゃ、の別版に「蛇もムカデもど~けどけ鍛冶屋の婿どんのお通りじゃ」とする童歌も残っている。この事から小柏氏と製鉄一族との関連性に注目する必要があるかもしれない。

製鉄で財を成し更に鮎川の上流に、良い鉄を求めて入って行ったものか。或いは小柏氏の一族のうちの誰かが製鉄に従事していたのか。配下の者が製鉄をやっていたのか、製鉄氏族の子孫が小柏氏となったのか。

今後の研究課題であろうか。

小柏小学校は明治十八年に多胡第二小学校の第二分校となり、後に日野第五尋常小学校となり、明治40年には校舎を新築している。

日野西小学校の歴代校長の中に小柏達三(明治40年)の名前が見える。

また日野第五尋常小学校の歴代校長の中に、小柏達三(明治21年)、小柏辰五郎(昭和13年)の名前が見える。

日野中央小学校PTAの歴代会長の中に、小柏磯吉、小柏美佐雄、日野西小学校PTAの歴代会長の中に小柏行平の名前がある。

小柏小学校は戦後の昭和24年4月に廃校となり、地域の教育をになったその長い歴史に幕を閉じた。

地元の古老に聞いた話でも、戦後まで小柏館の隣に小学校があったとしていた。

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2007年3月 9日 (金)

 切支丹宗門改め Ⅰ

切支丹宗門改め Ⅰ

徳川幕府により禁教とされていたキリスト教。これを取締るため時に宗門改めが行われた。これは上日野村においても例外ではなかった。

寛政十二年四月(1800)の上日野村禅宗門改帳を見ると、「上野国多胡甘楽両郡上日野村禅宗門御改帳」と題され、キリシタン宗門の儀は毎年絶え間なく仰せ仕る処にて、村中百姓、男女、子供、召仕えの者、門屋、借屋、抱え者、出家、社人、村に住む者全てを調査するよう指示が出ている。

更に他所から出入りした者に至るまで調べて報告するように、禁教の信者が居れば速やかに注進した者に褒美を出すとある。怪しい宗門の者が居ても報告しなかった時は、五人組、名主、組頭に至るまで罪に落とすとしている。

油断無く吟味して禁教の者が居れば、その家族にまで印をつけ報告せよと固く申し付けている。このため、村全員の名前と宗派、旦那寺を記載・押印して報告している。

上日野村

名主 六郎右衛門  印 (小柏重簡であろう)

組頭 軍蔵     印

 〃 市之介    印

 〃 房右衛門   印

 〃 弥五右衛門  印

 〃 熊太郎    印

禅宗

            旦那寺

六郎右衛門  歳四十八  宝積寺

女房     歳三十二   〃  松平右京太夫様家中大河友左衛門妹

男子幸三郎  歳三     〃

女子あき   歳六     〃

弟謙治郎   歳三十七   〃  (小柏重方であろう)

謙治女房   歳三十七   〃  吉川栄左衛門様御支配所南牧砥沢村半兵衛娘

 〆十八人内 男八人 女十人

伝左衛門   歳六十七  養命寺  六郎右衛門家抱

男子金之介  歳四十    〃

金之介女房  歳三十八   〃   同家抱介七孫

庄之介    歳五十四   〃   六郎右衛門家抱

平右衛門   歳六十七  龍源寺  禅宗新左衛門家抱 (奈良山小柏家)

女房     歳六十    〃   当村柳兵衛家抱六兵衛娘

男子久米之介 歳三十三   〃   

同峯吉    歳二十二   〃

久米之介女房 歳三十四   〃   当村柳兵衛家抱定七娘

 〆五人内 男三人 女二人

  中略 

 惣人数 千二十五人 男五百四十五人 女四百七十一人 出家八人 道心一人

(藤岡市史資料編・近世)

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2007年3月 3日 (土)

市川家の古文書

 市川家の古文書

「上野国郡村誌」によると、羽沢村、市川真英所蔵三通、砥沢村、市川真太郎所蔵八通の古文書(近世文書)が存するとして、次のように記載している。

    日向つふらこ之内十三貫文之処進置者也、仍而如件

                 天文十六年未二月廿三日 虎満 判

  市川右近助殿

    如前々知行津布羅子不可有別条者也

                 天文廿二年辛亥五月二日 貞清 判

  市川右近助殿

右二通係砥沢村市川真太郎所蔵、市川右近嘗属小幡氏、居砥沢村、食村中三拾貫文中所載日向津布羅子盖砥沢村地名、今村中有日向砥沢日影砥沢等之処

 武田氏文書

○今度内山辺移討手之処通路馳走之由本望候、於于自今以後者猶可被致忠信事、可為祝着候、謹言追而雖軽微候木綿遣候也

                   六月五日  晴信 判

  市川右近助殿

 右一書市川真太郎所蔵

 条目

一 番手之者主本城在陣之事

一 市川衆閣自余之山小屋新地在城之事

一 赤岩之橋場番不可有疎略事

                以上

  五月六日 南牧

 右真太郎真英並蔵之、第二条山小屋盖山上置戌之処、新地未詳、何所新城、

疑是三代記所謂信玄新置一城居小幡信定者乎、第三条赤岩橋場番今砥沢村有赤岩橋

虎満は上杉氏、貞清は村上氏と見られるものの不確かであるとしている。つふらこ・津布羅子とは未詳である。

コンニャクに関するものででもあろうか、或いは絹布のことを指すか。市川真太郎の先祖・右近助が小幡氏に属していた時に受け取った書状である。この真太郎は小柏八郎治の弟で、市川家に養子に入った真太郎であろう。

「郡村誌」は明治8年頃に編纂命令が出ており、数年かけて編纂した物と思われるが年代的にも一致している。砥沢村で市川真太郎という人物が、近い年代に二人居たとは考え難い。

三番目の古文書に押印してある晴信の判は、言わずもがなの武田信玄である。信玄は羽沢村の市川家(右馬助宛)にも殆ど同文の書状を送っている。これにより信玄が南牧の市川衆に眼目を置いていた様子が知れるのである。

砥沢村は信濃から甲斐へ行く街道の要衛にあたり、信玄がこの地を重視していた事が良く分る。

南牧は信越国境にあたり、田口峠を越えて信濃佐久へと繫がっている。西上野国への進入口として、真っ先に抑えておかなければならない戦略上の拠点であったのだ。信玄は赤岩橋の守りを固めて、油断するなと細かい指示まで出している。信玄は南牧に砦(城説あり)を築いて、国峰城を追われた小幡信真を入れて守らせてもいる。

小柏高政は信玄から佐久郡田ノ口を俸地として賜っており、従兄弟の高治は同地の代官を勤めている。これ等の事から小柏氏は上日野小柏の本貫地と田ノ口との間を何度か往復したと思われる。

したがって砥沢村・羽沢村は通り道となり、同地を差配していた市川氏との関係が生じたとみる事も出来る。共に小幡氏に属していたので旧知の間柄であり、戦場に於ても共に行動した事もあったかも知れない。

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2007年2月25日 (日)

竹野の入植期 Ⅱ

   竹野の入植期 Ⅱ

竹野の子孫の人の話では、妹ヶ谷にある野々宮神社と諏訪神社には、小柏氏の家紋、丸に釘抜きの紋があるとの事である。

この紋は小柏定政が武田信玄より領地として、信州佐久の田ノ口を賜った時から使われるようになった家紋である。それ以前は平家と同じ揚羽蝶の紋を使っていたので、この事も年代が矛盾していない事の一つの証左となる。

また上日野の野々宮神社の横を大谷川に沿って登って行き、妹ヶ谷峠(720m)を越えて妹ヶ谷側に降りていく道沿いを流れる渓流は野々宮沢である。上日野から来た竹野が野々宮神社にあやかってそう呼んだ可能性がかいま見えてくる。

先述の竹野の子孫の人の話の中に、妹ヶ谷小柏家の墓地と上日野の小柏氏の墓地とは、石塔や祠などが良く似た造りになっているとの指摘があった。更に上日野小柏(村)と妹ヶ谷の地形・景色がそっくりであるとしている。

共に街道をきっちり抑える要所を占めており、狼煙で山から山へと合図を送って緊急の連絡をとっていたのではないかと推測している。

これまでに見てきた幾つかの傍証から、妹ヶ谷に小柏氏のうちでも有力な子弟が移り住んできた事が髣髴(ほうふつ)と浮かび上がってくる。

妹ヶ谷小柏家の墓地にある、小幡家の女中の墓と伝えられている二つの墓は、お菊・お春のものである可能性は低い。その推定する理由は明瞭である。三波川小柏氏とお菊は直接の関わりを持っていなかったのだ。また年代的にもかなりの開きがある。

お菊をここに葬るとなると熊倉山から、その遺体を降ろして二本木峠を越えて小柏(村)に出て、更に山に登り妹ヶ峠を越えて来なければならない。困難を極める作業となる。

供養塔を建立するのなら納得できる面もあるが、大叔父(竹野の)が救出したかもしれないという、そのくらいの縁の人の墓を作っていたら畑は全て墓になってしまう。戦国時代から江戸初期には周囲の人が死ぬのは、まったくもって日常茶飯事の事だったのである。

人が生れて死ぬ事、その事こそが日々の暮らしだった。外科手術の技術が、格段に進歩を遂げた現代とは生命価値観も違う上、童子・童女のまま亡くなる人も大変に多かった時代である。

妙義町の中里にあるお菊の墓も、宝積寺や熊倉山からは間に富岡市を挟むなどかなり距離があるが、同地にはお菊の実家があったとされているので矛盾は生じない。

小幡家の女中の墓であるとの伝承に真実味が見られるとすると、江戸小幡氏・安中野殿小幡家との関連性が注目される事になるかもしれない。

小幡氏(信真)は小田原籠城から解放されると、信州真田家を頼って上州を退去しているのである。

 小幡信秀・直之父子は幕府から1,100石を給されており厚遇されていたといえる。その「野殿」の地名は今も安中駅の南に残っている。

或いは小幡氏の分家がある法久小幡氏との関連か。

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2007年2月18日 (日)

潮音と重高の不動寺 Ⅱ

潮音と重高の不動寺 Ⅱ

 潮音は臨済宗の高僧であり、黄檗宗黒滝山派の開祖となり、不動寺は多くの末寺を造り隆盛を極めた。「謎の根元聖典先代旧事本紀大成経」(後藤隆)によると、潮音は延宝三年(1675)に「聖徳太子の五憲法」という本を出版したという。

 同年は上日野小柏村に滞在していた年である。とすれば潮音は重高が建立した草庵で執筆したものか。

この本を出版した版元は江戸の戸嶋惣兵衛であり、「神代皇代太成経」七十二巻本の版元と同じという。この大成経(先代旧事本紀)は多くの人が潮音の著作と考えているが、後藤隆によれば、潮音が出版に関わっていた事は事実であるとしている。後藤隆はこの七十二巻本が十巻本、三十一巻本の原典となったという。

(通説では平安時代に十巻本が成立し、江戸時代に至って三十一巻本、七十二巻本の順で成立したとされている。)

「先代旧事本紀」は学会からは無視され、幕府によって発禁処分となったりしたが、好事家や研究者の間で論争を巻き起こした書物である。

数種ある先代旧事本紀異本の中で七十二巻本を信奉する人たちは、これこそ聖徳太子が著した「先代旧事本紀」の原典であるとする。確かに「古事記」や日本書紀」には書かれていない事柄なども、詳しく書かれていて真実味が伝わってくる本である。心情的には真実が書かれていると思いたいところである。

 七十二巻本が潮音の著作になると見られるのは、同書に「聖徳太子の五憲法」の内容と全く同じ記述がある事によるという。

 伊勢神宮の訴えを受け幕府は戸嶋惣兵衛を追放、神道家長野釆女、潮音、伊雑宮神官を流罪とした。竹野の子孫という人の話では、長野采女は箕輪城主の長野業政の子孫で、潮音に先代旧事本紀を見せたという。

高名である潮音が来ているとの噂は、近在に広まっていたのではあるまいか。そして長野采女も訪れて来て一緒に「先代旧事本紀」の出版に関わったとみられる。

長野采女は神道家であるが、当時は寺社と神社は混在しており比叡山も高野山も神道を否定せず、むしろ肯定していたのである。

近代まで養命寺の山門前に不動堂があった。養命寺に向かって参道の右側に古いお堂があった。(別掲写真)潮音が開山した黒滝山の不動寺にも同じ名前の「不動堂」があり、時代にはずれがあるものの、その関連が注目されるところである。

     養命寺の不動堂  左奥が養命寺  (藤林伸治資料)

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2007年1月26日 (金)

小幡氏 宝積寺合戦

小幡一家の菩提所宝積寺の事 

小幡権頭平朝臣実高は、もと勢州の人也。甲州信虎へ十九歳の時出勤せられ、諸所において手柄を致しその後、上州へ来たりて国峯へ住まいし、また小幡に久しく住まいす。故に在名を称し今に小幡という。

実高後に、入道して円城と号す。宝徳二年、庚午三月宝積寺を建立し、即庵宗覺和尚を請じて開山とす。即庵は小田原より来たりて、轟村鷲翎山の奥天寿庵に住す。一つの牛を飼われけり、この糧なければその牛の角に、一つの袋をかけて山を出さるれば、その牛、轟村に下り家ごとに廻る。

村里の男女これを見て、角より袋をおろし米を入れ、またもとの如くに懸ければまた他の家に行く。かくのごとくして、袋に満つれば牛、庵に帰る。諸人これを聞きて呼び寄せ、即庵牛という。

即庵和尚は最乗寺了庵和尚より三世の孫、春屋和尚の嗣子なり。宝積寺は元律寺なり。そのときの石碑今にあり。延慶と年号を記し梵文あり。開基小幡上総介というは誤り也。

宝徳庚午は、人皇百三代後花園院の年号也。将軍は足利尊氏八代の孫源義政公なり。上総介は、人皇百七代正親町院の御世にて、永禄・天正時代の人なり。既に上総介は、天正十八年小田原陣に氏政へ加勢す。是をもって見れば、円城入道中興の開基たること明らかなり。即庵和尚の伝記にも開基実高とあり、実高法名華翁栄仲居士と号す。

 宝積寺合戦の事釣鐘淵の事 

永禄六年の事とかや。

宇田城主小幡図書と宮崎の小幡彦三郎と異論の事ありて、合戦に及ぶ。図書、謀に乗りて終いに打ち負け、夜中に妻子諸共に宝積寺へ落ち来たり、魯岳和尚をお頼みありければ、魯岳一世の大事と思われ、如何せんと思案いたされ、流石、檀縁の事といい殊に又尸毘王の鳩の袂に入りたるを、助け給いし事を思い出され、見捨てがたく早々寺中へ入れ申し、前後の門を固めさせ図書殿に対面あり。

 夜中に不慮のご入来お頼みの趣、何とも大難に存ずれども、檀縁を慕いお頼み候へば異議に及び難し。

お心安く御合戦なさるべし。当寺の儀は山高くして、西一方口なれば、要害は河内の金剛山にも劣りは致さじと、おっつけ彦三郎寄り来たり申すべし。お支度あるべしと、魯岳和尚も方丈に入り、衣の袖引き結びて肩にかけ、上帯締め裾を取りて差し挟み、練り絹にて鉢巻し、寺に伝えし小長刀を左手の脇にかいこみ、図書殿出で給へ言いながら、山門に走りのぼり、

四方を下知してありければ、五六十人の大衆も我劣らじと、進み出て褊袗の紬を結びて肩にかけ、裳をば手巾をもって括りあげ、もとより寺の事といい、殊に俄かの合戦なれば太刀も槍もあらばこそ、ただ山にある物は、樫の木沢山なりければ、我も我もと樫の木を手頃に拵へ、敵乱れ入らば無二無三に打ち殺さんと控えたり。

 図書殿の装束は、白糸の鎧敷目に拵えたるを、草摺長に着下して、同じ毛の甲の緒を締め、大立物の脛当てに三尺八寸の太刀を帯し、重藤の弓横たえ、魯岳と同じく山門に上がり、矢束解いて押しくつろげ寄せ手の来たるを待つ。

 宝積寺は東面にて、南は鷲翎山の大山西へ連なり、北は山なけれど大木数多く茂りあい、矢玉もなかなか通り難き要害なり。

総門の前は鷲翎山の奥より漲り出る谷川深くして底見えず。水が岩石に当たりて激する事雷の轟くが如し。大門上がり八町は谷を右にして、霧の中を行き岩石所々に横たわり、中々進み難き峽路なり。図書に従う侍二十四人、僧俗あわせて七十余人、今夜限りの討死と思い定めて待ち居たり。

 案に違わず彦三郎、透き間もなく襲い来たり門外に馬を立て、参百余の勢を前門、後門に手配し、馬上に伸び上りて大音あげ、いかに図書、何とて居城を落ち去って、山林に入りけるぞや。ただし、妻子諸共に尼入道になりて、降参せん為の存念か。しからずば早々出でて勝負をせよ。

 さなくば踏み込み狼藉せんと呼ばわりけり。図書山門にてこの言葉を聞き、弓杖ついて申す様、只今の雑言は彦三郎にてありけるか。

その不運にして汝が謀略に乗りて打ち負け、是までひとまず落ち来る。更に尼入道して降参の心なし。

汝もし来たらば快く一戦し、汝が首を取るか、我運命尽きて腹切るか、是非の勝負を決し、その広言を止めんとて、寺衆、大衆諸共に相待つなり。珍しからず候へども、合戦の習いならば一矢仕らん。

受けてみよ彦三郎と、二人張りに十二束打ちつがへ、切って放せば門の上を鳴り渡り、彦三郎が鎧の袖にばっしと立つ。彦三郎驚いて馬の手綱引き返し、遥か遠くに控えたり。

 侍供に言いつけるは寺中に、さのみ人大勢あるべからず。門扉を押し破り乱れ入れと、しきりに励まし、ののしれば畏まり候と、我も我もと斬ってかかる。図書は山門よりさしつめ引き詰め矢種限りに射る。

侍供は門を開きて斬って出づれば、大衆も続いて打ち出で、入り乱れて戦いけり。寺中の僧俗は命を惜しまず、斬り伏せ討ち伏せ、火を出して戦いけれども、寄せては大勢こなたは小勢、ことに大衆は太刀・長刀も持たざれば皆悉く討死す。

彦三郎喜び勇みて、門の内へ馬を乗り込み図書はいずくにあるぞ。

侍供ただ生け捕れという所へ、図書・魯岳此処にありと、回廊の陰より飛んで出て、十文字巴の字に斬って廻れば、彦三郎この勢に恐れをなし、門外さして引き返す。また寄せての者供、一息ついて取って返し中庭まで乱れ入る。

ここにその丈、六尺ばかりなる法師一人、樫の丸太一尺四五寸の径と見える、一丈余なるを、軽々と引き揚げ、大勢の中へ打って入り、東西南北、四維八荒、乾坤宇宙も翻すべき勢すれば、この棒下にて死する者、何十人ともその数しれず。寄せ手是に恐れて、この坊主はよも人間にはあらじ。

如何様この山に住む天狗なるべし。まずこの陣引けというを幸いに、我先にと下村さして引き退く。その後の門へは、丹生五郎という者大将にて向いけるが、門塀を押し破り庫裏の方、廊下際まで乱れ入り、ここあそこに火を懸けさせければ、魔風忽ち吹き来たって諸堂一時に灰燼となる。

図書、力及ばず妻子をまず刺殺し、自身も頑(とみ)て腹切って炎の中へ飛び込みけり。魯岳和尚も合唱し結跏趺坐して焼け死にけり。大力の法師は、本堂の後に大磐石のありけるに、飛び上がりて大膝組み、腹掻き切って死にけり。

この石をその時より、天狗腹切石と申すなり。釣鐘は総門の上に釣置き、鐘楼門といいけるが、山門の下ゆえ急に火が移って焼け崩れ、鐘は谷へ倒れ落ちると見えたが、また撥ね返り終いに谷へ倒れ入る。

その所、即ち淵となり、今に至って「釣鐘が淵」と言いてあるなり。鐘は竜頭ばかり見ゆるときも有り、また見えざる時もあり。

嗚呼、一挙に焦土となりて後、僧堂燈消え、秋の虫なく音を添え、実に哀れかな、伽藍、土地変じて武士の戦場となり、数多の屍、仏教を汚す、魯岳は宝積寺十代なり。  石室和尚寛永七年に諸堂建立の時、大門を轟村の方へ廻らし、寺もこの向きに建てられたり。この時、織田兵部大輔、越前国よりこちらへ来たりて領す。

小幡石室に帰依し檀越となる者なり。

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2007年1月13日 (土)

御荷鉾山 北斜面 鼠喰城 探検始末記

 天気は悪くなさそう..意を決して御荷鉾山の鼠喰城の探検に行く事にした。御荷鉾山の北斜面は懐が深そうで威圧感がある。麓を覆う針葉樹林は奥が深く暗く何故か怖さを感じる。でもどんな城なのか一度は見ないと..懸案事項となっていた事であり落葉して見通しのきく冬場に、とは前から思っていた。

 御荷鉾山は関東の秀峰ではあるが、何故か情報が殆どない。登山ブームでも人気がないのか、登山地図・ガイドブックが発行されていない。ハイキングコースを紹介する書籍もない。何故だか分らない。東京から日帰りとか一泊での低山コースとしての紹介・ガイドがあってもよさそうなものである。

 仕方なく、国土地理院の二万五千分の一地形図2枚、昭文社の三万分の一・六万分の一の地図に、縮尺不明の藤岡地域城舘跡図から鼠喰城の位置と思しき地点に印をつける。鼠喰城の情報も乏しく標高は分っているが、詳しい位置は分っていない。平面図はあるが位置情報は城館図だけ、この地図も五万分の一くらいの大まかなものだ。

 この3枚の地図でルートと時間を検討する。

南の万場側から登れば西御荷鉾山の頂上まで40分くらいと聞くが、頂上から北斜面に降りるルートがない。(不明)また車のデポ場所・取りに戻れない事からどうしても北斜面からの登山になる。

 登山道・林道らしきルートは2本ある。奥ノ反を通る左ルートは西御荷鉾山の八合目くらいまで伸びている。右からのルートは鼠喰城があると思われる地点のすぐ西側を通って、オドケ山方向へ伸びてそこで終わっている。

 どちらのルートを取るか、好ましいのは右ルートを行き、鼠喰城に最も近ずいたと思われる地点から、東側の斜面をよじ登って城を探す事だ。このルートが使えない場合は、左ルートを行き、八合目辺りから西へ等高線に沿って藪漕ぎをしながら城を探す、少し距離があるので戻りルートの目印として木に結ぶ白テープを持参する。

 あとは現地情報によって臨機応変に..

 標高が1286mもあり冬でもあり、始めての山なので装備はやや大げさな物になった。ザック・帽子・地図3枚・防寒兼藪漕ぎ用の手袋・食料・水・磁石・白テープ・鋏・ライト・ボールペンと紙・狼煙?用ライター・カメラ。ホイッスルも欲しかったが処分してしまったらしく見つからない。

 11:40奥ノ反到着 この砂利道を愛車 白馬の「ふんだら君」号を駈って克服する所から、御荷鉾山の登山は始まる。車の腹をするので出来るだけ片側へ寄せてそろりそろり、じゃりんじゃりんと進む。車で抜けられる事は現地エージェント?により確認済みじゃ。 

 

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  鳥居の前に着き車をデポ。不動明王の鳥居に合唱し写真を撮って靴を履き替え出発。左側のゴルフ場でクラブを振るよか衆?を尻目に物好きなオッサンは一人静かに山中に入って行く。

 右にも行く道があり、そちらは石切り場でダンプが通るが、鉄のゲートがあり閉まっている筈だから行かないようにとも言われた。

 人がいける道はそこしかないと言う貴重な現地情報により、安心して左ルートを取る。しかし….

     暫く行くとこんな杉林になる。40分も行くと汗ばんできた。

    汗はかきたくない ザックを降ろしジャケットを脱ぐ。

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  現地情報では相当、道が悪い感触を得ていたが名だたる高峰を踏破してきたこの足じゃ、軍門に降りたまえ..このくらいならノープロブレム、みたいな事をつぶやきながら行くと、道は次第に細く葦のような枯れ草か、藪がひどくなってきた。

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ここれはもう早くも「藪漕ぎ」に近い状態に気に入りのズボンを履いてきた事を悔やむがもう遅いだっぺ。汗が噴出してきている。セーターも脱いだ。

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 こんな道が続くのかい、う~ん。  遥か下方に里が見えた。

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  立ちふさがる藪、ルートもはっきりしないので何度かそれてしまう。更に登って行くと、倒木や涸沢などでルートが寸断されている所がそれぞれ2箇所くらいあった。

引き返したほうが良いかもと何度か思ったが、思い直しつつ進み、12:40分頃左側に小さな清水が沁みだし氷になっている所で昼食。

北斜面の日暮れは早い、遅くても3:00には下山を開始しないと城は見えないし気がせくので、糖分補給の甘い菓子パンと、いなり寿司3個を食べただけで出発。休んでいると寒くなる。

 帰りにルートを外さないように、目印に小枝を折りながら登る。

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 少し元気になり気合を入れて、ぱっぱっと登って行くと息切れがしてきて、心臓がばくばくいってきた。少し異常なカンジ。ここれは不味い。息を整えねば。やっぱり登山は一定のリズムで、うまずたゆまず行かねばの~。

 直径30センチもある太い倒木が関所のように、ルートらしき上に立ちふさがっている所を過ぎると今度は涸沢。幅3m~4mほど、深さ2mほどもある。ルートもはっきりしない。うえ~ん。神様~

 以前地元の人に「行かないほうがいいよ..」と言われた事を思い出す。   

Photo_12

 上の涸沢をトラバースって程でもないけど渡って行くとルートらしき物が見当たらない。とにかく上の方向だろう。長年のカンで登って行くと大岩にぶつかり完全にルートは無くなっている。

立ちふさがる大岩はオーバーハングになっていてとても登れない。岩の下を右方向にルート・登れそうな所を探すが、急斜面の雑木林になっていて小さな尾根を形成しているがこちらも登れない。

 岩の左側は沢がまっすぐ稜線方向に伸びている、上のほうには少し水が流れ、凍っている。幅は2.5m程でやや大きな石がごろごろしている沢の直登を試みる。足をおいた石がずるずると落ちていってしまう、どの石も同じだ。キケン。

 沢を渡り左から巻いていくルートを開拓?ウン?やっぱりこちらも急斜面で鹿でなければ無理。稜線はもうすぐ其処にあるように思える。どうしょっ。しばし迷ったがここで大英断、撤退。

 とに角少し降ってルートを再確認。ルートをはずしたと思われる地点まで降ったがやっぱり他に行くルートは見つからない。やむなく今日は下山。14:10分。

 小一時間も降った頃か左側になにやら人工的な岩のような物を発見。左側は稜線になっている模様。現地情報では鼠喰城は絶壁と聞いている。上のほうを窺い見上げると木立の中になにやら土塁のような物が見える。

 鼠喰城か?稜線城に切り立った岩のような石垣のような物が垣間見える。鼠喰城の位置としてはこの方向である。出来るだけ近くまで行って写真を何枚か撮ったが、最初の一枚がやや見える程度で後の物は真っ黒になってしまう。

 これは近くに行って見ねば...

  

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 この土塁らしき物は何番目かの鼠喰城の土塁であろうと思われた。(平面図を見ると四段の構成になっているように見える)この土塁の真下は文字通り切り立っている、左側面も同様でとても登れない。

 左側面の下、手前にはコンクリートの雨の流水路がある。この水路に沿って登り帰すと水路は上流に向ってY字路になっている。このYの字の左上に斜めに延びている部分を渡り、更に右上に伸びている水路を渡り登り始めた。

 この急斜面を木に掴まりながら登る。稜線まで行けば上方向から土塁へ降りていく形となる。半分ほど登った所で挫けそうになった。更に少し登った。心臓がばくばく言いだした。暫く休んでも治まらない。

 この頃どうも脳圧・脳流?が少しへたってきたような….でもあと少し15m程も登れば土塁の様子が分る。行くべきかやめるべきかここで悩みに悩んだ。登れたとしてもこの急斜面を降るのにもかなりのエネルギーが必要と思える。

 時間もぎりぎり、15:00。この頃の低山での遭難事故の二ユースが脳裏に浮かぶ。迷惑をかけても….ここで大英断Ⅱ。撤退。撤退にも勇気がいるのですなんてね。いつの日か..捲土重来を期して...

 15:30分 不動明王の鳥居前に到着。

 まだ明るい、不動明王様にお参りして帰ろう。参道を登り始めるがいきなり急勾配の連続。稜線上であり、ナイフリッジ状になっている。右側は谷川、左も急斜面になっている。幅はおよそm~2.5mほど、これはお年寄りは無理と心得られよ。

 かなり登るとルート上にかなり大きな火打石(70センチ程)が露出していた。三分の二程も地面に埋もれている様子。

 さらにさらに登ったが社・祠らしき物は影も形もない。もう少し、もう少しあの角までと登ってみたが、状況は好転しない。心臓もバクバクここで今日の大英断Ⅲを下した。撤退。今日は情けね~?撤退王の汚名を着たものだったな。

    

  このシカならちゃっちゃっと行けるのだろな。(フンッ)

Photo_13

 お世話になった現地代理店?の方に下山報告。すると何たる事や!不動明王さまが鼠喰城なんだってサ。城に不動明王さまの社があり、西御荷鉾山の頂上にも不動明王さまが鎮座しているとの事。だば最初からルートを間違えてたって事だなや。(笑うとこはココ)ふんぎゃあ~。

 鳥居の下に「不動明王参道」の看板があったので、200~300m登れば不動明王の社があるとは思ったが、鼠喰城の登り口とは頭から考えなかった。

  (鳥居・石碑の写真は小柏高政の項に掲載してあります。)

   

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2006年12月28日 (木)

小柏氏800年の軌跡 小柏氏の始祖

小柏氏800年の軌跡

小柏氏の始祖

 上州は古くは上毛野国・上野国と呼ばれ、武蔵国とならび大国に列せられ、上毛野氏が国造として任じられ東国一帯と共に支配していた。上毛野氏は古い氏族で崇神天皇の皇子の豊城入彦命を祖としている。

 また上州には有名な多胡碑があり、多胡郡の新設に伴い711年に設置された物とされる。この多胡碑から南西に直線距離でおよそ11キロの所に、西上州の秀峰・御荷鉾山がある。東御鉾山・西御鉾山の北麓には、鮎川の清流が西から東に向かって流れている。

 鮎川は決して深い谷ではなく何所にでも見られる普通の小川であるが、上日野の西部から上流は渓谷の趣き・景観をなしている。この鮎川の一帯、下日野・上日野は古くは日野谷と呼ばれた。 

 上州日野谷に君臨していた武士団・

小柏氏は伊勢平氏の系譜を継いでいる。その系図には桓武天皇より、連綿とした系譜が記されている。平清盛の子重盛の嫡子、維盛の子維基が小柏氏の始祖である。維盛の嫡子六代丸は出家している。また清盛は天皇のご落胤との説もあり、妊娠した女を父の忠盛に娶らせ清盛が生まれたという。

別の説には、これは清盛サイドが意図的に作った話という。小柏氏正系図によれば同氏の祖「平維基」は六代丸が生まれた翌年に出生している。

小柏氏系図は、代々の継承者の名前が載っているだけではなく、主だった人には事跡が添え書きされている。

この添え書きには別記ありと書かれていて、系図の他に詳細な記録があったことを示している。

この系図は太い巻物となっており、タイトルは汚損して読み難くなっているが、かろうじて「平姓上野国小柏氏正系図」と読む事ができる。

系図に名前の記載はないが、妹の夜叉御前は維基の次に女子と記載されている。一般に系図には女子の名前は記載されない、○○の女(むすめ)とか○○の妻、○○の妹と記載されている。夜叉御前は維基が生まれた翌年の出生ということになる。

系図によると維基は幼名平太郎といい、上野国小柏(現在の藤岡市上日野町小柏)に移り住み、後に土地の名、小柏氏に改称したという。

藤岡市が刊行した「ふるさと人ものがたり」の小柏氏の項には、

「身分を隠した伊勢平氏の直系とあり、上日野小柏の高台に「小柏様」と呼ばれる屋敷があり、集落を眼下に一望できた。

半ば伝説化したこの一家の活躍の跡を尋ねる。小柏氏は伊勢平氏の末裔で、始祖は父維盛が武蔵国司在任中に生まれた平維基であり、壇ノ浦合戦後は源氏から逃れ日野の奥に隠れ住んだ。

そして身分を秘して、小松姓を小柏姓に変え、建久7年(1196)には鹿島神宮を創建したという。」

という記事があり更に説明が続いていくが以下は略す。

「藤岡市史」では「小柏」は豪族小柏氏が居館を置いたところから命名されたとしている。その屋敷跡は現存する。

平重盛一族は京都付近の小松谷に住み、小松姓を名乗っていたが、源平合戦に敗れたあと、その子孫の小松維盛が日野谷に落ちのび、隠れ住みついた時、「小松」を「小柏」と改姓したといわれている。(通史編・近世)

父の中将維盛が、武蔵の国司の時に東国の諸士に甚だ崇敬されていて、この頃に妾があり、ある時懐妊し維基が生まれたという。

「公卿補任」等によれば、維盛が武蔵野守に任じられた記録は、見受けられないようであるが、或いは目代であったか又は一時的な任官であり、辞令のないままに赴任したのか定かではない。

上日野小柏(村)から鮎川をさかのぼった所に御前岩がある。ここに六代丸と弟の維基の足跡が残っている。

「群馬懸多野郡誌」によれば、小柏を隔てること十数町、人家のなくなる所に鮎川の源流がそうそうと音を立てて、断崖の岸を洗う所がある。ここを名づけて御前岩という。高さ二十丈で絶壁の頂は天高く、中空に聳えており、岩壁の腹には躑躅(つつじ)や楓が彩っている。

遥かに御荷鉾山の秀峰に対峙・向き合うようであり、足元を見れば水石の粼ゝ(りんりん)としているのを弄ぶかのようである。と形容している。更にこの岩は平家維盛の子息六代御前が、弟の維基と共に小柏村に蟄居していた折に、ここに碑を建てた旧跡という。

そのとき建てた碑は、嘉永年間の山崩れの時に何処かへ流されてしまい、今は崖の中腹に石の階段のみが残っている。と記されている。

        一町は109mか。十五町として約1.6キロか。

「多野藤岡地方誌・各説編」は小柏から1キロ余の所の断崖の景勝である。として平維盛の長子六代が弟、維基と共に小柏村に隠れ住み、その時ここに碑を建てた旧跡であると伝えている。その碑は嘉永年間(1850頃)の山崩れの時に流失したといい、岩の中腹に石段だけが残っている。六代を六代御前と記している。

とある。

藤岡市の旧美九里村は、古くから開けた村落でありさまざまな伝説が今に残っている。美九里の龍田寺の屋根裏から見つかったという、「神明縁起之覚え」にも文覚上人が信州善光寺への参詣の際に立ち寄った時の状況が記されている。

資料の字は薄くなっており、詳細の意味は判然としないが、本郷・神明村の境に明神の社があり、頼朝公の時に建つたとされる社という。

地頭高山遠江守の時にこの周辺に困りごと(冰嵐)が発生し難渋していた。名僧と呼び声高い、文覚上人が中里弾正の家に宿を取っていた時に、高山殿が祈祷を依頼したという。

上人は弾正をお供に参宮し内宮、外宮、土主明神、瓶子明神、飯玉明神など十二社を建立したようである。

そして地頭が社領として十二社に百石を寄進した。同社は地頭が替わっても諸役免除となり、その証文が神明の宝物となっていたが、火災により焼失してしまったという。このため、右の通り先祖代々の申し伝える事を書き記し置くものなり。この時、天正十二年。

かろうじて判じられる部分は以上である。同文書は高山家系図と一緒にあった物で、同家所蔵の物であろう。

「多野藤岡地方史総説編」によれば、美九里村(藤岡市本郷)の葵八幡の近くに、「文覚上人の垢離(こり)の水」がある。直径が約91センチ,深さが約1.9メートルの井戸である。

旱魃の時に文覚上人がここで水垢離をとって、雨乞いをしたところ雨が降ったといわれている。上人が袈裟をかけた楓の木もあった、という。文覚上人は六代の助命嘆願をして、一時は六代の命を救った高僧である。元は北面の武士であったという。出家してからの荒行はつとに有名である。

藤岡の本郷から道を西に取れば、東平井・平井城を経て下日野から上日野となる。この地に文覚上人の足跡があるという事は、六代丸の伝承がある事と併せて考える必要があるかもしれない。

日野の地名は相当古くからあったものらしく、「群馬懸多野郡誌」によれば和訓栞、和漢三才圖會に「日野は上野の邑名なり」とあり、上野名跡考には「日野は多胡(郡)の南部なり。属邑十二、或いは火野なるべし。

上古防人と烽(とおひ・とふひ)とを置きて蝦夷に備えられしといへり」とある。

また日野大宮社天文十七年の棟札に「穎野」とあるが、火野は仮説であり、穎野は音を当てたものではないかとしている。

なお、同社後代の棟札は「日野」と記してあり、他の古書、旧記には皆「日野」とあるとのこと。よって関東平野の西部に始めて山脈の起こる所であり、御荷鉾山の峻峰より朝日を迎え、夕日を送るところから日野と呼ばれたのではあるまいかと推測している。

平井以西が日野谷(ひのやつ)であり、鮎川に沿って東西に十里あると言われ、西南部には西御荷鉾山(1300m)東御荷鉾山の秀峰がそびえている。所々に集落が出来るにつれ、、日野郷と呼ばれた事もあった。

和名抄に見える多胡郡俘囚郷が上日野に当るとされる。天正年間に至り、上日野、下日野、金井となり、寛永年間に入り、これを三村として名主を置いた。そしてこの形は明治二十二年町村施行まで続いたが、三村合併して日野村と改称した。

また古くは日野は鼠食郷(ねづはみ)、井池庄のなかとして記載されたものもあるが詳細は不明なりとしている。

井池は多胡にあり鼠食は日野にある。(同郡誌)鼠食の名は今は鼠食城(跡)として残っている他には見当たらないようである。あまり良い名前ではないため、他の名称に変わったものか。

「群馬県姓氏家系大辞典」(角川書店)に、次のような記事がある。

「小柏・おがしわ(藤岡市)日野谷から南の三波川谷にかけて、小柏姓があり、上日野字小柏が発祥地とされる。

平清盛の子小松内大臣重盛の子に維盛があり、重盛(ママ)が武蔵国司の時に、妾腹に生まれた維基は、のち鎌倉幕府を恐れて上野国小柏に隠れ、小松姓を小柏に変えて始祖になったという。(小柏氏系図)

子孫は鎌倉幕府執権北条氏に仕え、幕府滅亡後は山内上杉氏に属し、平井城に出仕したという。

高政の時、国峰城主小幡重貞と姻戚関係を結び、武田氏方として、子息定重と共に長篠合戦で戦死。なお、定重は菊女伝説に登場する。後は弟定政が継ぎ、代々日野谷を支配した。

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