下町の高級な店で(ウソだろっミエ張りなさんなや..)飲んでいた時の事でござった。[正月は?]なんて話から「初詣はふんだらかんじゃら○○××..」なんてぇ事になり、飾り物を燃やしてた、ふんじゃふんじゃ..と続きましたとサ。
ふんで左隣にいたミスターXが(覆面はしていませんでしたがつい流れで..ビシッバシッ)「どんどん焼は○△○△云々~」と言い出しましたのでござった。そんでついおらは先日、ふーちゃんの頁で見た「どんどん焼で道祖神を縛って引き回す処があるらしいな」ちってしまったとです。
ほいだら「X」のヤツに「そんな罰当たりな、んぎゃ、んぎゃ」と言われてしまったとョ。このやり取りをした二人は上毛人だすて。マア、民俗行事として行うものだし伝統と子細があって手順が決まっているので、どうこう言えるものではありません。
おらも一度は行った記憶があります。
バス通りの道から脇道に数メートル入った所でやってましたデ。門松・飾り・注連縄の類を燃やした筈だすわ。ほんでソバ粉色の団子を持ち寄って焼いて食った…と思う。やっぱ日にちは15日でござる正に今日だすナ。
それ以前にソバ色団子を作る日が決まっているんデ…保存食の意味があるのか皆、その日に作りなさる。デ、山から枝の多い1.6m程の木を切ってきて、家の中の柱に縛り、その枝に団子を刺していくんデ..団子が鈴なりの木になる訳だして..この団子は数日で固くなりそのままで食べようとすると歯が折れるくらいデェ..
堀り炬燵の端っこの方の灰に埋めて少し柔らかになった時に、フーフー言って灰を飛ばしながら食べるもんでしたナ。
よく噛んでいくと味わいがあったモンだした。ほんで門松の処分をしながら、その固い団子を灰にくべたり枝に刺したまま、火にかざし焼いて食ったものでござった。
遠い記憶では集っていたのは、やはり殆どが子供だったような…今でもやる?
とうの昔に失われてしまったのでは..?ちなみに七夕飾りも同じようにして川に流していましたデ。
今日の新聞にも載ってました。丹沢山麓の農村地帯が舞台らしい…道祖神の前でどんど焼をするとの事。今も子供たちの楽しみだとされている。どんどん燃えるからどんど焼(おらほうではどんどん焼き)、団子焼という…高説を承りました。やはり15日ですと、昔は「道祖神」「サラバカト」「セーノカミ」と言ったらしいで..その辺りでは…(晴れた日には里笛吹いて)手順は上毛と似てますデ…。
菅原神社・妙義神社の鰐口
宝積寺史に収載されている「幡氏旧領弁録」は、小幡氏の直系の子孫で当時、信州の松代藩士(中老職といわれる)小幡龍蟄である。
龍蟄が先祖の遺蹟を訪ね、細かく調査した記録を著述したものである。丹念に調査・取材・収集され、客観的に細かく分析されている。
安政六年(1859年)の著述である。(翌万延元年に巻の弐を著している)鷲翎山宝積寺史にも、その幡氏旧領弁録が詳しく収載されている。この弁録によれば、再考として鰐口の分析考を記載している。
江戸時代の文章なので、一部の意味は正確に把握し難い面もあるが、下仁田村近戸明神と、隣村の菅原村天神の鰐口は、重定君の寄進した物であろうとしている。系譜や諸書に記録されている新龍斎は誤りで、重定は始め新龍斎と称したが甲斐公(信玄)より信の字を拝借して信龍斎に改めた。
詳細は不明ながらも証拠もあれば「信」の字のほうが正しいとしている。重定の没年は未年であるが、鰐口の銘文によって考えれば、天正五年には存命であったが、天正十八年の小田原の役には在陣していたとは記録がない、故に天正十一年(1583年)である、この事疑うべからず。万延元年 龍蟄識 とある。
同史収載の旧領弁録は、この記事のあと数項を挟み、また鰐口寄進の記事になっている。
補遺 前巻に記した下仁田村近戸明神へ、永禄九年重定君が鰐口を寄進したの
は事実である。いまも同社の旧記にはその記録があるとはいえ、その後、同社
は火災に会い、鰐口を焼失して今跡形もないのは残念である。
(追記再考)上総介信真君は永禄の初め頃、尾張守信真と称したと由緒書きに
見えるので、近戸明神の鰐口は永禄九年なので信真君が寄進した物である。
と書いている。この近戸明神の物については、重定が寄進したというのを信真が寄進したと訂正したもののようである。
信真は天正二十年(1592年)に没している。旧領弁録は続けて菅原天神の鰐口の記載に移っている。
前巻に記す菅原村天神鰐口は、天正五年重定君がご寄進したのは事実である。
だが寛政八年(1796)同社の火災により、鰐口も三個ほどに砕けてしまったので鋳掛けなおして重宝とす。かつ古い物なので焼失した後は、その図を板に彫って希望する人には刷って与える。略図次の如し。
鰐口略図
次に鰐口の図が記載されていて、次のように彫られた文字も記載している。
鰐口表径一尺四寸三分程 右の鰐口の銘が前に細い字で書いてあり、読みづら
いので左に記す。正面(に)字数三 天神宮 右(側に)字数三十弐 大日本国上野州高田庄菅原郷天神宮御神前鰐口寄進部類眷属一味和合所 同内(側に)字数十九 源勝頼魂情追月倍増喜悦累月出来皆令満足 左外(側に)字数参十壱 右意趣者小幡信龍斎全堅信真高政信直并一類安全子孫繁盛武運長久所 同内(側に) 字数二十 怨敵滅却住所安泰七難即滅小幡一門息災延命
この鰐口は概ね円盤であり、古の銅鏡を思わせる。円のてっぺんの所に縦書きで大神宮とありそこから時計回りに、真下の部分まで「大日本」から始まる文字があり、「和合所」で終わっている。
大神宮の所から左へ反時計回りで、「右意趣」の文字が始まり、真下まで「長久所」で終わり真下の余白となる。
その内側の同心円部分に、右上から右下にかけて「源勝頼」から始まる文字があり、左上から左下にかけて「怨敵滅」で始まる文字となる。同心円の真ん中には紋章があるが、小幡家が幾つか使っている家紋には、どれも合致しないので、何の紋章かは今のところ不明である。
旧領弁録では先に彫られた文字を、説明した後に次のように解説に移っている。
鰐口の裏は焼失の際微塵に砕け、散乱したため不便だが次の文字が、有ったというのでこれもまた板にした。 妙法華経如来人力品第二十一諸仏救也者住於大神通為悦衆生故神力現無量天正元年 「金石私志」には天正五年とあるが、ここに天正元年とあるので思うに、これは焼失のあと板にした物だから、「金石私志」にいう天正五年のほうが事実であろう。
鰐口名の全堅は重定君の御号なるべし、高政・信直の両氏はまだ不明であるが、ここに来て宝積寺から事績の研究の参考になればとして、次のように覚性浄林の牌名(位牌か)の中から書き抜いて送って来てくれた。それによれば重定君には姪があって小柏氏に嫁いたようだ。
これは、はっきりとは判らないが、本当の事であろう。よって先に記された銘の高政は、すなわち御姪婿の小柏高政であろうが、なお研究の余地を残す。小柏氏は小松重盛公末孫の由也。今現在も日野村に小柏を名乗る郷士があり、この家が菊女伝説に記す源介は次の定政であろう。
覚性浄林居士 小柏左馬介高政
光岩智明大姉 同人妻 小幡尾張の守重貞姪女
昌室浄久居士 小柏左馬介定政 初め源介と号す
右者小柏八郎左衛門 牌名之内
としている。ここの八郎左衛門は定政の孫の小柏重高であろう。
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