2007年9月16日 (日)

三波川の共同墓地と不動尊

  三波川妹ヶ谷の墓地はかなりの広さである。想像していたものよりもずっと広い。細い道に面しているところには庚申等や石仏・神様の石碑などが並んでいる。平坦で日当りの良い土地であり、その南側は里山に連なっている。

 畑や宅地に利用できる良い立地といえる。墓碑は古い物が沢山あり、歴史の宝庫のように思える。何時の日か学術調査が入る事が期待される。

 この中の小柏氏の墓地には、小幡家の女中の物と伝えられる墓碑があると聞いている。撮影しながら墓碑を端から丹念に見ていくが、その数は多くて際限がないために諦めて全体像の把握にとどめた。

 古い墓碑に刻まれた文字の多くは、判読不能の上に倒れている物、草や土に埋もれているものが多い事も理由の一つ….

 墓碑の形や大きさも様々で、その風化の状況もまたさまざまである。その佇む姿は歴史の証人・時代の移り変わりの展示館のようにも見えてくる。

 帰りかけた時だった。東側・左隣にあるストーンサークルのような、墓地のようなものが目に留まり気になって車を降りた。

 林の中に位置する楕円形の墓地がそこにあった。墓碑の多くは半ば土に埋もれて、今は顧みられていないようなその墓地には、何故か気になるものがあった。

 三波川の平滑?不動尊もきれいにお守りされている。その右側には小さなせせらぎが静かに流れている。

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2007年9月15日 (土)

時代の変遷による墓碑の形状

 

  五輪塔

 石造りの五輪塔は平安時代から造られるようになり、広く親しまれている。時代によって塔の高さが変わったり、やや形状が変わってきている。その五層の塔は上から「空」「風」「火」・「水」・「地」を顕わすとされる。

この五要素は人体を顕わす事にも繫がるという。

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無縫塔

      卵形をしているので俗に卵塔と呼ばれる。野球のバットを縦方向に縮小したような形である。鎌倉時代に中国から禅僧によって伝えられ、僧侶の墓碑として広く用いられた。

 多くは卵塔の下に蓮座を敷いている。江戸時代には大名も好んで用いるようになった。

  上日野小柏氏 1795  

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天引小柏氏 1791・1804

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  角石燈篭型

 上日野小柏重高墓碑 1688

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        天引小柏氏 1781

   

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角石型墓石

 江戸時代になり、現在の墓石に近い位牌形の物が多く作られるようになった。方形の板碑で、武士はこの上部に笠を置いた物を好んだ。一般では屋根付がよく用いられた。

  上日野小柏氏 1757 

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 天引小柏氏 1780

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                                   合掌

 ここでは代表的な物を挙げたが、両者の年代は近接していて形状も似ている。

                                        

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2007年4月21日 (土)

天引の小柏氏

  天引の小柏氏

 群馬県姓氏家系大辞典(角川書店)に次のように出ている。「天引に小柏姓がある。桓武平氏で、平維盛の子維基が甘楽郡小柏村(藤岡市)に隠れ住み、後裔は日野谷の支配者となり、のち小幡氏とともに武田氏に属したという。

源六定重は菊女伝説で知られ、天正三年三河長篠の戦いで戦死。天引にはその三兄弟の後裔が移り住んだとの伝承がある。」

 甘楽町天引にはお菊を助けた定重の三兄弟の子孫(或いは三兄弟)が移り住んだという口碑・伝承が今も残っている。

 天引という地名は広い地域にわたっているが、小柏姓の家が集中している所は字名「久保」である。

 明治8年頃に編集された「上野国郡村誌・9」を見ると、天引村字地久保あり、東西一町三十八間、南北一町四十五間、戸数200戸、社戸5、寺3戸、計208戸、人口825人とある。

 民業は商19戸、工9戸としている。村社は諏訪社で祭神は建御名方命、祭日は9月15日。他に熊野社が村の西南にあり、祭神は伊邪那岐尊・速玉男命・事解男命で祭日は9月15日。向陽寺は天文年中に僧、道巌の開基。これは信玄(武田)の叔父という。と記載している。

 諏訪社は信州の諏訪大社を本社としている。諏訪社を置いている点は上日野も三波川も同じである。また熊野社はその祭神名からして古いものを感じさせる。

 諏訪大社は初め狩猟の神様を祀っていたという、後に武人の神様、武神となり、北海道から九州まで約五千社以上の末社が数えられる。

 これら諏訪大社を勧進した各地には「諏訪」の地名が残っている所が多い。本社は諏訪市の上社と諏訪町の下社の二社である。

建御名方命を祭神としているのは、天照大御神が派遣した武御雷之男神に、出雲を終われ信濃まで逃げたとする「古事記」に由来するのだろう。

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2007年4月19日 (木)

小柏氏本拠地から転進

 小柏氏本拠地から転進

平成18年の電話帳を見ると小柏姓は日野・藤岡地区で27軒の名前がある。これをごく近隣の上日野・下日野だけに絞ると僅か9軒になってしまう。少し寂しい数字ではある。勿論、昨今の社会情勢から電話帳に記載していない人もあるだろう。

平成12~13年頃の物と思われるが、家の歴史社によれば、群馬県の電話帳には藤岡鬼石町を中心にして128軒の小柏姓があるとしている。全て上日野の小柏家を源流としているという。

平成18年4月現在の電話帳では三波川・鬼石町地区に22軒、甘楽・天引地区に21軒、藤岡・日野地区と合計しても70軒しか見えない。埼玉県や東京都・神奈川県に移った人も多いとみられる。

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上日野 小柏氏家系図 高山長五郎筆

 800年に亘って血を流し、涙を流し築きあげて守ってきた山と屋敷地、歴史に名を刻んできたその所領ともいうべき上日野。先祖代々の霊が眠る墓地もそのままに、この地を去る事になった小柏氏の末裔の気持ちはどんなものであったろうか。    

小幡氏にあっては二百五十年後に中興の祖とでも言うべき、小幡龍蟄が出て歴代祖先の事蹟史、系図を作り、位牌を作り各地の墓碑と墓地を整備し、ねんごろに供養を行なった。

近年では全国の小幡一族が参集し400年大供養を行なっている。

小柏氏は栄枯盛衰の時も過ぎて歴代の勇者は今、木漏れ日の差し込む木立の中に静かに眠っている。何時の日か小幡氏のように中興の祖が現れ、また祭祀の行なわれる日が訪れるのであろうか。

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2007年2月27日 (火)

三波川の柔術指南と血判状

 三波川の小柏新左衛門は地主でもあり、飯塚家文書(1)には土地境書き証文を受け取った記録が載っている。安政6年(1859)に山を質物にとった時の文書である。同様に弘化3年、嘉永2年(1846)にも畑の質物を受け取ったとの記録がある。

 この他、安政3年に金を貸した記録があり、更に文久1年(1861)に不動尊の積金として村民に十両を貸している。この記録は妹ヶ谷不動尊の修理(復興)積立金らしい。してみると新左衛門は不動尊の祭祀を司っていたか、或いは修理に際しての施主であった可能性が考えられる。

 また文久2年の文書として、竹谷戸耕地新左衛門との記載があるので、住いが竹谷戸であった事が知れる。

 

三波川の柔術指南と血判状

 飯塚家文書の中に血判状と思しき近世文書がある。後半部分は千切れて失われてしまっているが、千切れた部分の字は「血判状」と解釈できる。

「剣槍柔術指南、上野国緑野郡三波川住 小柏新左衛門 源計昌」とある。道場で柔術の稽古・教授をして、尚且つ剣術と槍をも教えたのだろう。今でいう総合格闘技がこの時代にもあったのである。

当時人気のあった「気楽流柔術」は柔術・剣術・棒術・鎖鎌術・鉄扇術・縄術・組打術・山谷歩行術・忍術・接骨術・指圧術を教え、上日野にも沢山の道場があった。(「火の谷)藤林伸治)

気楽流柔術の創始者は藤岡美土里村の飯塚臥龍斎である。臥龍斎は戸田流柔剣術の第11世となったが、後に気楽流の流名を名乗って各地に出向き指導した。時に江戸時代の後半・文化の頃である。

いうまでもなく小柏氏は平姓であるが、この新左衛門は源姓を名乗っている。三波川小柏氏の子孫の人の話では飯塚家から三波川小柏家へ来た養子が居たとの事である。

三波川の飯塚家は源姓を名乗っていたとの事なので、この柔術指南の新左衛門も飯塚氏の出身であろう。剣槍柔術とは山岡鉄舟が明治17年に創立した「剣槍柔術永続社」と同祖・同流のものではなかろうか。推測ながら「剣槍柔術」と四文字までが同じ流派が幾つもあるとは思えない。

しかしながら年代的に合致する傍証を今は示せない。だが、血判状だとしたらそうそう何回も血判を取り交わす事はないと考えるのが自然である。とするとこの血判を取り交わした時期は、もしかしたら明治初期の群馬事件・秩父事件と関わりのあるものかとの推測が成り立つ。

同事件とこの血判状が関係しているとすれば、年代的には無理のないものとなってくる。そして後半の、名前を連ねて血判を押したであろう部分を、千切ってしまった理由も無理なく理解する事が出来るのである。

当時は秩父事件は反乱であり暴徒・犯人と当局から決め付けられ、また新聞報道などもその論旨に同調したのである。しかし今日では秩父事件は見直されるようになり、特に同事件の百周年を契機として評価も変わってきているようだ。民権運動のはしりであった、民衆の自由・権利を勝ち取るための行動とも評されるようになったのである。

秩父事件に関わりのあった各地においても、各種の記念事業・講演会などが催されている。上州困民党と秩父困民党を結びつけたのは、小柏常次郎といわれている。

「秩父事件」井上幸治によると、常次郎は明治17年8月までは三波川に居たとしている。

妻ダイとの仲人であった横田林太郎の家で養蚕を手伝っていたとしている。しかし仲人は小柏菊次郎と横田林太郎で、常次郎は箕輪にかなりの面積の耕地を所有して、上農クラスであったとの説があり、若干の疑義があると思われる。

私には常次郎が謙遜の意味でそのように供述したもののように思える。常次郎の妻ダイは同志に頼まれて、三波川に鉄砲を借り出す為に行っている。

「秩父事件のおんなたち」は、秩父事件に加担した各村では村ごとに連判状を作ったとしている。

また三波川では山林博打も盛んに行なわれていたようだ。丁半長屋などもあり他に気晴らしになる娯楽もなかった事から、農民も金が入るとよく博打を打った。剣術・柔術の道場もある事から、結構鉄火の気質・風土もあったように見受けられる。

ところで先の柔術指南の小柏新左衛門という名前は、上日野の奈良山小柏氏と同じものである。奈良山小柏家では新左衛門は世襲の名前であり、代々その当主が名乗っていた。

小柏新左衛門という名前は同じではあるが、同家と三波川小柏氏との関わりは薄いようだ。

 

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 三波川の小柏新左衛門は地主でもあり、飯塚家文書(1)には土地境書き証文を受け取った記録が載っている。安政6年(1859)に山を質物にとった時の文書である。同様に弘化3年、嘉永2年(1846)にも畑の質物を受け取ったとの記録がある。

 この他、安政3年に金を貸した記録があり、更に文久1年(1861)に不動尊の積金として村民に十両を貸している。この記録は妹ヶ谷不動尊の修理(復興)積立金らしい。してみると新左衛門は不動尊の祭祀を司っていたか、或いは修理に際しての施主であった可能性が考えられる。

 また文久2年の文書として、竹谷戸耕地新左衛門との記載があるので、住いが竹谷戸であった事が知れる。

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2007年2月 2日 (金)

長篠の合戦

  長篠の合戦

 長篠の合戦、事に設楽原の決戦では多くの西上州の武士が討死している。特に安中城主安中忠成の軍勢は、殆ど全滅し帰還する者なしと伝わっている。鉄砲隊の正面から突撃した小幡勢には比較的生存者が多かったともいう。

 長篠の合戦で討死した西上野国の将士には、定重の父で勇猛を轟かせた小柏高政、小幡信貞、大戸丹後守幸宗・信茂兄弟、松本縫之助定吉・右衛門重友がある。「信長公記」は三番手の小幡の一党は赤色の具足を揃えて、入れ替わって攻め掛かって来た。

 関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなしたから、小幡一党もまた騎馬で突撃する戦術で、攻め太鼓を打って突進してきた。

味方は鉄砲を揃え、盾に身を隠して待ちうけ撃たせたので、小幡隊も過半数が撃ち倒されて兵力少数になって退却した。としている。

 だが、歴史考証家の名和弓雄氏によれば、騎馬軍団での突撃はなかったという。その著書「長篠・設楽原合戦の真実」の中において、合戦当時は梅雨時であり、水田は満水の状態であり、低湿地帯の設楽原は進撃する部隊により踏み荒らされて、泥濘の海原となっており、馬は足を取られて走れるものではないとしている。

 同書は[長篠日記]「三州長篠軍記」「当代記」「武徳編年集成」[三州長篠合戦記]「信長公記」など多くの古文書を検証している他、実際に合戦の現場に当時の馬防柵や空堀を設置して、鉄砲の連射までを再現し実地検証している。

 同書に拠れば武田勝頼は小幡大膳介に命じて、八剣山(竹広弾正山)の敵陣地を偵察させたという。

小幡大膳介は天王山をくだり偵察に行ったが闇夜であり、暗くて様子が判らないため傍らの、人気のない大きな家に放火させその灯りによって敵陣の様子を見ようとした。

 この時、監視に当っていた徳川軍の内藤金一郎家長らが、火事に気づきその火光で大膳介らは発見され銃撃を受けた。

大膳介は危ない所だったが逃げ帰り、警戒が厳重で偵察は不可能と報告した。勝頼は怒って再び偵察を命じた為、大膳介はやむなく再度敵陣に接近したが、銃撃され二弾を受けて傷つき、従者に助けられて明け方近くに漸く本陣に戻った。

大膳介は勝頼に攻撃の中止と、敵から討って出るのを待ち受けて戦うよう諫言した。――としている。

 諸文献を探索しても、この記事が載っている原典の古文書はまだ見つかっていないが、この記事が事実であれば定重も敵の銃弾に倒れたのかもしれない。

この小幡大膳介は小柏氏が同道して、共に戦っているところから上州小幡氏と見られるが、小幡氏の系譜の中にそれらしい名前は見られない事から、甲州小幡氏という線も排除しきれない。

ただ甲州小幡氏の系譜にも大膳介の名前は見つからない、改名したものか、傍系だった故に記載されていないのか、今は詳らかにする事ができない。長篠で討死したのは上総介信真の弟(重貞の三男)昌高である。

 「信長公記」によれば武田軍の攻撃は第一波が山県正景の部隊、第二波の突撃が武田逍遥軒信廉の部隊、第三波が小幡一党(西上野の赤備え隊)第四波が武田典厩信繁の部隊、第五波が馬場美濃守信房の部隊であったという。

 これ等の諸部隊がそれぞれ何波かに分けて突撃したものと見られる。織田徳川連合軍側は、その陣地を空堀や馬防柵、身隠しと銃眼など三段構えに作り、これが二重、三重、四重に構築してあったという。

 待ち構える鉄砲の数は三千挺弱とされている。長雨が上がった翌朝のことであり、

朝靄が立ち込め、靄が晴れても風はなく鉄砲の硝煙で視界は全くなかったという。馬を乗り入れれば馬の腹まで泥田の中に埋もれてしまう泥濘の海である。

赤具足を着けた小幡隊は徒歩にて這うように進み、長槍と大刀で銃弾の雨の中を突撃して行ったという。

名和弓雄氏は設楽原合戦の際の武田軍の人数は18,600人、突撃して銃撃され戦死した人数は12,000人と推測している。この時武田勝頼は三十歳であった。

 「信長公記」は信長の家臣太田牛一が書いた物であり、自身の日記を元にして書いたとの説もある。

「三州長篠合戦記」は設楽原の近くの乗本村の名主、阿部四郎兵衛忠政が書いた物で、阿部四郎は織田徳川連合軍に協力し、野戦築城に従い奇襲攻撃の案内もしたという。

長篠城攻撃と設楽原合戦を、織田軍の陣営の中にあってつぶさに見聞していたという。「徳川実記」を見ると勝頼は血気の勇者とあり、短気で合戦好きな若者という印象を受ける。同書によれば、武田勢は二万余騎、徳川・織田連合軍は七万二千とあり、五月雨が強く降っていたとある。

備えの前に堀を穿ち塁を築き、柵を二重三重にかまへ鉄砲数千丁を撃たす、血気の勝頼夜中より勢を繰り出す、山縣昌景、小幡上総貞政、小山田兵衛信茂、典厩信豊、馬場美濃信房、眞山、土屋、穴山、一條など名ある輩入れ代わり入れ代わり柵を破らんと烈戦する。

とある。しかし鉄砲の威力により人塚が出来るほどに敵を打ち倒したという。ここに信玄の時より、名を知られた武田方の信玄の弟兵庫頭信實、山縣、内藤、土屋、眞田、望月、小山田、小幡などが死にもの狂いで戦い討死した。

武田方の戦死者一万三千余騎、連合軍側は六十ほどだったとしている。

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2007年1月20日 (土)

 豪族 高山氏

 

        

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豪族 高山氏

西上野きっての名族、高山氏は古くから記録に現れ「吾妻鏡」「源平盛衰記」にも名前が見られる。上杉家の筆頭家老であったとの説もあり、戦国時代には既に高名の存在となっていたと思われる。

桓武平氏の系統の秩父重綱の三男重遠が秩父郡高山村(飯能市)で高山氏を名乗り祖となったとされる。重遠は後に緑野郡山高郷(金井、高山)に移り、その一帯は高山の庄・御厨と呼ばれた。

重遠の子重久は木曾義仲軍に加わり信濃横田河原での平氏との合戦(1181)に参陣しその後、源頼朝に属し奥州藤原攻め(1189)にも参加している。重久の子重治は和田義盛と執権北条泰時が対立した和田合戦において討死した。

南北朝時代には高山時重が新田義貞を武州関戸において迎えうち、この時に討死している。時重の子重栄・遠江守は義貞に従い義貞没落後は足利尊氏方に転じた、その武功は「太平記」にも記されている。

高山重栄の孫の重康・重直兄弟は足利義満軍に加わって、山名氏の乱の時に共に討死した。重康の子頼重は上野国の旧領を回復し上杉氏に属し同氏との絆を深めた。重秀・重友父子は結城合戦(1440)の時に反幕府軍と戦った。

 顕定(山内上杉)に属していた重友の子、高山盛重は、扇谷上杉氏との武州菅谷原(嵐山町)で行なわれた合戦(1486)で討死した。憲重・重員兄弟も顕定と共に越後六日町長森原の戦いで、敵長尾為景との合戦において討死した。

 平井城落城後は行重・定重兄弟は武田信玄に属した。武田氏滅亡後は織田信長や北条氏に属していたが、江戸時代に入りその子孫は帰農したものとみられるという。

 江戸中期に重寛は金井の稲荷神社の別当に千体地蔵を寄進した。(ふるさと人ものがたり藤岡)

 高山憲重・重員兄弟の討死については、「長森原古戦場史上杉顕定公」にやや詳しい記述がある。同紙によれば憲重は日野金井東城主で遠江守、弟の重員は甚二郎で平井城主、上杉顕定公の側近(重臣)として永正六年(1509)上州兵八千名と共に越後に進撃した。越後国の三分の二を制するも翌年六月、長森原(南魚沼郡下原新田)の戦いに於いて顕定公と共に討死を遂げる。

 顕定公の墓は立派な多宝塔で管領塚に祀られ、討死した家臣の憲重や重員ほか三百余名の墓は管領塚近くの寺西珠院門前に祀られている。後、憲重の養嗣子重純は顕定公の四女を嫁に迎えたという。

 尚、同史の別項によると長森原で対陣した人数は、顕定軍八百余騎、為景軍五百余騎であり、最初は顕定軍が優勢であったが、横合いから高梨勢七百余騎が突撃して来た為、顕定軍の敗走が始まったと言う。(鎌倉九代後記、鎌倉管領九代記、関東管領記の引用)

 幕末の頃に生まれ、明治時代に養蚕事業に多大の貢献をしたのが高山長五郎である。長五郎は養蚕事業の改良・研究に取り組み、日野村の父の隠居所で飼育した蚕が豊作だった事にヒントを得て、天候に左右されない養蚕の方法を造り出した。

 後に「養蚕改良高山社」を設立し養蚕を指導した。また新道開設に私財を投じたり貯蓄の奨励など農村振興にも貢献した。(ふるさと人ものがたり)

 現在、高山氏の主な子孫・旧家は三家(金井・東平井・高山)あり、その何れもが系図・古文書・領地を所有しており何れが嫡流か本家か判然としないという。

系図上では金井東家が嫡流で満重が拠った山城跡を所有していて、栗須・神田の神明宮の祭祀を営んでいた。

 高山にある南家は高山氏が在城した金山西城近くに邸があり、古文書を最も多く所有している。高山重遠が始めて住んだ清水山城や高山氏の菩提寺の興禅院も高山にある。

 平井家は満重が建立したという満重山高源寺が近くにあり、満重の子定重は法号を

 高源寺殿という他、高山氏の住んだ城跡も同寺の所有地になっていた。(多野藤岡地方誌・各節編)

 高山氏と小柏氏の関わりは明らかになっていない。高山氏は頼朝に属し、後上杉に属し更に武田信玄に属し、その後織田、北条にも属した。この流れは小柏氏の航跡と殆ど一致している。この為、同じ合戦に参加したり行動を共にしたりする事もあったと思われる。

 小柏氏系図には所々に主な事跡が記載されているが、高山氏に言及した箇所はない。また高山吉重文書の高山氏の二つの系図を精査しても、小柏氏に言及している部分は見られない。高山家は小柏家の主家筋に当ると言った人がいるが、それは当っていないようだ。

小柏氏が、高山氏の指示で行動した形跡が全く見られないのである。また日野七騎の小柴氏・小此木氏と小柏氏は縁戚関係を結んでいるが、高山氏とは縁戚関係になかった。高山氏は小幡氏とは縁戚関係を結んでいる。

この点は小柏氏も同様である。近代に至り八郎治の妹才の長女が、高山村の高山武十郎の後添えとなっておりこの時点で縁戚関係が生じている。

更に才の二女さとは金井村の高山菊次郎に嫁いでいる。

小柴氏と小此木氏は同祖で平氏の落人とも、源氏だったが平氏と婚姻を結んで一門と同格の待遇を得ていた、ともいわれる。源平の大乱により御荷鉾山山麓に隠れ住んだという。「小此木」は鎌倉の追及を受けて「小柴」の柴の字を分解したという。小此木氏は長篠の合戦に出陣して戦死したと云われている。(藤岡市史通史編)

 はっきりしている事は後代の高山長五郎(近世の世襲名か)が、昭和10年に小柏家にて小柏系図を筆写した事、上日野小柏家墓地の前に立っている小柏家の家系図・同由来の板碑に高山長五郎が文章を書いている事だけである。

 

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2007年1月15日 (月)

妙義神社の鰐口

 下町の高級な店で(ウソだろっミエ張りなさんなや..)飲んでいた時の事でござった。[正月は?]なんて話から「初詣はふんだらかんじゃら○○××..」なんてぇ事になり、飾り物を燃やしてた、ふんじゃふんじゃ..と続きましたとサ。

 ふんで左隣にいたミスターXが(覆面はしていませんでしたがつい流れで..ビシッバシッ)「どんどん焼は○△○△云々~」と言い出しましたのでござった。そんでついおらは先日、ふーちゃんの頁で見た「どんどん焼で道祖神を縛って引き回す処があるらしいな」ちってしまったとです。

 ほいだら「X」のヤツに「そんな罰当たりな、んぎゃ、んぎゃ」と言われてしまったとョ。このやり取りをした二人は上毛人だすて。マア、民俗行事として行うものだし伝統と子細があって手順が決まっているので、どうこう言えるものではありません。

 おらも一度は行った記憶があります。

 バス通りの道から脇道に数メートル入った所でやってましたデ。門松・飾り・注連縄の類を燃やした筈だすわ。ほんでソバ粉色の団子を持ち寄って焼いて食ったと思う。やっぱ日にちは15日でござる正に今日だすナ。

それ以前にソバ色団子を作る日が決まっているんデ保存食の意味があるのか皆、その日に作りなさる。デ、山から枝の多い1.6m程の木を切ってきて、家の中の柱に縛り、その枝に団子を刺していくんデ..団子が鈴なりの木になる訳だして..この団子は数日で固くなりそのままで食べようとすると歯が折れるくらいデェ..

  堀り炬燵の端っこの方の灰に埋めて少し柔らかになった時に、フーフー言って灰を飛ばしながら食べるもんでしたナ。

よく噛んでいくと味わいがあったモンだした。ほんで門松の処分をしながら、その固い団子を灰にくべたり枝に刺したまま、火にかざし焼いて食ったものでござった。

 遠い記憶では集っていたのは、やはり殆どが子供だったような今でもやる?

とうの昔に失われてしまったのでは..?ちなみに七夕飾りも同じようにして川に流していましたデ。

 今日の新聞にも載ってました。丹沢山麓の農村地帯が舞台らしい道祖神の前でどんど焼をするとの事。今も子供たちの楽しみだとされている。どんどん燃えるからどんど焼(おらほうではどんどん焼き)、団子焼という高説を承りました。やはり15日ですと、昔は「道祖神」「サラバカト」「セーノカミ」と言ったらしいで..その辺りでは(晴れた日には里笛吹いて)手順は上毛と似てますデ

 菅原神社・妙義神社の鰐口

宝積寺史に収載されている「幡氏旧領弁録」は、小幡氏の直系の子孫で当時、信州の松代藩士(中老職といわれる)小幡龍蟄である。

龍蟄が先祖の遺蹟を訪ね、細かく調査した記録を著述したものである。丹念に調査・取材・収集され、客観的に細かく分析されている。

安政六年(1859年)の著述である。(翌万延元年に巻の弐を著している)鷲翎山宝積寺史にも、その幡氏旧領弁録が詳しく収載されている。この弁録によれば、再考として鰐口の分析考を記載している。

江戸時代の文章なので、一部の意味は正確に把握し難い面もあるが、下仁田村近戸明神と、隣村の菅原村天神の鰐口は、重定君の寄進した物であろうとしている。系譜や諸書に記録されている新龍斎は誤りで、重定は始め新龍斎と称したが甲斐公(信玄)より信の字を拝借して信龍斎に改めた。

詳細は不明ながらも証拠もあれば「信」の字のほうが正しいとしている。重定の没年は未年であるが、鰐口の銘文によって考えれば、天正五年には存命であったが、天正十八年の小田原の役には在陣していたとは記録がない、故に天正十一年1583年)である、この事疑うべからず。万延元年 龍蟄識 とある。

同史収載の旧領弁録は、この記事のあと数項を挟み、また鰐口寄進の記事になっている。 

補遺 前巻に記した下仁田村近戸明神へ、永禄九年重定君が鰐口を寄進したの

は事実である。いまも同社の旧記にはその記録があるとはいえ、その後、同社

は火災に会い、鰐口を焼失して今跡形もないのは残念である。

(追記再考)上総介信真君は永禄の初め頃、尾張守信真と称したと由緒書きに

見えるので、近戸明神の鰐口は永禄九年なので信真君が寄進した物である。

 と書いている。この近戸明神の物については、重定が寄進したというのを信真が寄進したと訂正したもののようである。

信真は天正二十年1592年)に没している。旧領弁録は続けて菅原天神の鰐口の記載に移っている。

   前巻に記す菅原村天神鰐口は、天正五年重定君がご寄進したのは事実である。

  だが寛政八年(1796)同社の火災により、鰐口も三個ほどに砕けてしまったので鋳掛けなおして重宝とす。かつ古い物なので焼失した後は、その図を板に彫って希望する人には刷って与える。略図次の如し。

      

鰐口略図   

   

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次に鰐口の図が記載されていて、次のように彫られた文字も記載している。

  鰐口表径一尺四寸三分程 右の鰐口の銘が前に細い字で書いてあり、読みづら

  いので左に記す。正面(に)字数三 天神宮 右(側に)字数三十弐 大日本国上野州高田庄菅原郷天神宮御神前鰐口寄進部類眷属一味和合所 同内(側に)字数十九 源勝頼魂情追月倍増喜悦累月出来皆令満足 左外(側に)字数参十壱 右意趣者小幡信龍斎全堅信真高政信直并一類安全子孫繁盛武運長久所 同内(側に) 字数二十 怨敵滅却住所安泰七難即滅小幡一門息災延命

この鰐口は概ね円盤であり、古の銅鏡を思わせる。円のてっぺんの所に縦書きで大神宮とありそこから時計回りに、真下の部分まで「大日本」から始まる文字があり、「和合所」で終わっている。

大神宮の所から左へ反時計回りで、「右意趣」の文字が始まり、真下まで「長久所」で終わり真下の余白となる。 

その内側の同心円部分に、右上から右下にかけて「源勝頼」から始まる文字があり、左上から左下にかけて「怨敵滅」で始まる文字となる。同心円の真ん中には紋章があるが、小幡家が幾つか使っている家紋には、どれも合致しないので、何の紋章かは今のところ不明である。

 旧領弁録では先に彫られた文字を、説明した後に次のように解説に移っている。

  鰐口の裏は焼失の際微塵に砕け、散乱したため不便だが次の文字が、有ったというのでこれもまた板にした。 妙法華経如来人力品第二十一諸仏救也者住於大神通為悦衆生故神力現無量天正元年 「金石私志」には天正五年とあるが、ここに天正元年とあるので思うに、これは焼失のあと板にした物だから、「金石私志」にいう天正五年のほうが事実であろう。

  鰐口名の全堅は重定君の御号なるべし、高政・信直の両氏はまだ不明であるが、ここに来て宝積寺から事績の研究の参考になればとして、次のように覚性浄林の牌名(位牌か)の中から書き抜いて送って来てくれた。それによれば重定君には姪があって小柏氏に嫁いたようだ。

これは、はっきりとは判らないが、本当の事であろう。よって先に記された銘の高政は、すなわち御姪婿の小柏高政であろうが、なお研究の余地を残す。小柏氏は小松重盛公末孫の由也。今現在も日野村に小柏を名乗る郷士があり、この家が菊女伝説に記す源介は次の定政であろう。

 覚性浄林居士  小柏左馬介高政 

 光岩智明大姉  同人妻 小幡尾張の守重貞姪女

昌室浄久居士  小柏左馬介定政 初め源介と号す

  右者小柏八郎左衛門      牌名之内

 としている。ここの八郎左衛門は定政の孫の小柏重高であろう。

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2006年12月26日 (火)

御前岩の六代丸

 

  御前岩の六代丸

新緑を揺らせて爽やかな風が吹いてきて、六代丸の頬をなぶっていく。足下に見える鮎川の清流の、せせらぎが心地よく響いてきて、うたた寝を誘うようだ。時折、鶯の鳴き声が聞こえてくる。

鶯はこちらで音を立てていても、よほど傍に近寄らない限り、鳴くのをやめない。六代丸の後ろで響いていた槌音がやんだ。

近在の石工親子が、今仕上げたばかりの石碑を首を左右に傾けては、ためつすがめつ角度を変えて出来栄えを確認していた。上日野や三波川は石を産出する為、この辺りには腕の良い石工が何人も居るのである。

断崖になっているこの岩壁にはところどころに、躑躅(つつじ)の花が咲いていて、六代丸のお気に入りの場所だった。

ここの岩壁の僅かな岩棚に腰掛けて、鮎川の瀬の音を聞きながら、あっという間に過ぎていった華やかだった日々、やがて訪れるであろう自分の最後の時に思いを廻らせていた。

 六代丸は、傍らで鮎川の河原を眺めていた弟の維基を振り返った。維基は、ほんの少しの岩の出っ張りに生えた、躑躅の木の根元に跨って、背中を岩壁に持たせかけていた。維基はひょっとしたら誰か来るのでは、そんな気がして河原とその上に続く叢と、雑木林をぼんやりと眺めていたのである。

ここからは見えないが、雑木林の上には曲がりくねった小道があり、左へ行けば名無村から峠を越えて秋畑村、右に行けば下日野村を通って金井村となる。小柏村からも小半刻ほどの距離がある、この渓谷に人などが来る筈がなかった。六代丸は今仕上がったばかりの、父の追悼碑の前に立ち僧衣の袂で、碑に僅かに残った石砂を払って、維基を促した。

用意してきた酒と線香を供え、惟基と並んで額ずき法華経を誦し始めた。六代丸は半刻ほど身じろぎもせず、先に逝った平家の一族の霊を弔った。今生きているのは妹の夜叉御前を別にして、自分たち兄弟の二人きりだった。

この断崖・絶壁は後に御前岩と呼ばれるに至った。幼名六代丸は平正盛から数えて六代目にあたる事から命名された。正盛、忠盛、清盛、重盛、維盛、六代丸の順である。出家してからは妙覚と名乗り、三位中将維盛の子だった事から三位の禅師とも呼ばれた。

 禰寝氏の系譜によれば、六代丸の名は「高清」になっている。高清の子とする清重が建部氏となり、後に禰寝氏を名乗り、大隈国の禰寝院南俣に入り、源頼家により地頭に補任されたという。

清重の名は清盛の清、重盛の重をとって清重としたという。 禰寝氏の系図を見ると、その子たちの名前の頭には清をつけ二文字にしている。大隈半島で勢力を拡大し、後には島津家に仕え長く繁栄した氏族である。

 実在が確認されている人物「高清」は頼朝に許されたが、反逆を恐れた頼家により斬られたとされ、この点は確かに六代丸に類似している。

 

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2006年12月25日 (月)

平家落人伝説

 おっショッキングなタイトル付けましたナ。おネエさんのおしゃれって行く所まで行きましたネ。エエ世の中になったのか?凄い世の中になったのか。日本の衰退期が始まったのか?えっ、そこいら辺りを(どこ?)フニャアッあ、歩いていましたってサ。

 そん時、ケツのタトゥーが目に入ったんやて。ほらローライズのジーンズからよくはみ出してるヤツやで。ウエストのくびれの下辺りから始まって尻桃ふっくらの方までタトゥーが延びて行ってましたで

 鯉かなんかの図柄でおましたわ。わては心の中でウームッて唸ってましたで(多分)

シールじゃなさそうやったナ。ほんでな、そのおネエさんはお母さんやったんで、大五郎が乗るような乳母車おしてましたでて事はお父さんも居てはって

このお母はんどんな気持ちで入れはったんやろナ余計な事だっけど。夫(男)にとって尻のタトゥーってどんなもんやろかい?

子供が大きくなった時、子供はもっと凄いの入れたりして..夫の方は腹にタトゥーを入れていてその図柄は鯉の尻尾のほうやで。

二人が重なると表から見ても裏からみてもタトゥーがある訳やナ。

もしかしたら二人のウエストの周りが金屏風を繋いだように、ワンセットで続き柄になってるかもしれんなコリャ。

 二人並んで一つの図柄が成立するやつヤナこれは。うん決まりだな!!ふんじゃ..

 平家落人伝説(2)

和歌山県在田郡に上湯川村がある。ここに旧家の小松家が今もあり、維盛の子孫と伝えられている。維盛が日高郡龍神村の奥杉谷山中に、隠れ住んだ後その子孫が上湯川村に来て、近隣一帯を支配し仕える村民も多かったという。「紀伊続風土記」に次のようにある。

 旧家  地士 小松弥助

 伝え云う小松内大臣重盛紀公の嫡男三位中将維盛卿の後なり、維盛卿熊野にて入水と偽り、日高郡龍神村の奥杉谷山中に蟄居し、後子孫当地に移りこの地一円を支配し、村民も其の召抱えの者の末多しとそ代々小松弥助といふ元和五年よりりん米を賜り地士となる。今杉谷山に小松屋敷の跡並びに小宮三社其よ古跡ありとそ

 同じく紀州の熊野本宮の近くの、熊野街道に沿っている湯峰川渓谷の湯峰に伝わっている伝説がある。熊野沖で入水すると見せかけて、生き延び山を伝わって来て熊野本宮に詣で、近くの湯の峰に遁世していたとする。

ここは話のみで物証は何もなく墓があるわけでもない。また寺に位牌や棟札があるという事もなく、子孫が何処其処に居るとも伝わっていない。このようにひっそり語られているのには、近くにある熊野本宮が源氏方に近かった事と関係があるといわれている。

少しでも噂話などが外部に漏れると、鎌倉殿にお伺いを立て維盛一党を、誅せねばならない事態になってくる事を恐れたのである。

奈良県吉野郡野迫川村にも維盛伝説が残っている。ここでは維盛は壇ノ浦合戦の前に、援軍を頼むために屋島から熊野に入った事になっている。そして山中を転々として生涯を終えたと伝えられている。

野迫川村には維盛塚があり、ここを中心として、歴史資料館などの平維盛歴史の里を大々的に整備している。

     維盛塚                       野迫川村HP

   


                          維盛塚

 維盛歴史の里

 悲運の六大丸

六代丸は父維盛の容姿を受け継いで成長したため、一見美しい娘にも見えたといわれている。平家滅亡後は、遁世生活を送るため母に女装させられた事もあった。そのため、後に六代御前と呼び習わされるようになったとされている。

六代丸は京都の草深い山里に、母と妹と一緒に隠れ住んでいた時に、賞金の為に密告する人が居て、囚われの身となった。

あわや鎌倉に送られようとする時に、これを聞きつけた文覚上人が、鎌倉に伺いを立てるからそれまで待つよう申し入れた。頼朝は文覚上人の手紙を受け取り、上人が自分の弟子にして出家させるからと、あまりにも熱心に助命を願っていたので、小松内府のこともあり当面、上人に預ける事を了承した。

維盛の父重盛が、池の禅尼の使いとして、頼朝に助命嘆願をしてくれた事は忘れていなかったのである。六代は上人の下で、暫くひっそりと暮らしていたが、数年もたつと鎌倉の空気がやや剣呑になってきた。このことを感じた上人により出家する事を余儀なくされた。

 栄枯盛衰、世の習いといわれるが、この時代の波は急速に動いていた。頼朝の恩人として権勢をみせた上人も、やがて罪を得て流人の汚名を蒙ることになる。高野山をかわぎりに熊野山にこもり、名のある山・寺を訪ねて修行を重ねていた六代は、これを聞き、上人が逗留していた大覚寺近くの宿所に戻ってきた。

知人などから情報収集しながら、思案している時に北条四郎が踏み込んで来て囚われの身となってしまった。

鎌倉に送られた六代はややあって、頼朝に面会し鎌倉の小さな寺に軟禁状態に置かれたのであった。頼朝はこの面会の時の印象を、心憎からず思ったとの事である。六代は元服前の公家の美少年であり、しかも今は僧でありながら凛とした気品は全身から漂っていた。

生まれながらに、その身に備わった気高さが、その居住まいに自然に現れていた。

六代は兵を起こして、鎌倉に叛くなどは微塵も思っていなかったので、頼朝の思いはむしろ当然であり、自身が清盛の前に連れて来られ面会した時の事を思い出し、哀れにも思えたのではなかったか。

軟禁状態もほぼ解かれて、ある程度自分の意思で歩き回れるようになっていた翌年、六代は許可を貰って上野国の名刹を訪れた。

 寺男を二人同道することが許可の条件であった。六代は生きる当てもなく一日一日を生きてそして死んでいた。その心は朝生まれて夜には死んだのである。頼朝の気分しだいで、何時首を切られるか分らない状態で、生きていくのには心の拠り所が必要だった。

平家の嫡流として、公家の華やかな生活しか知らなかった六代である。子供の頃に置かれていた環境・習慣から、全く別の質素な生活をおくるのには、相当な心の葛藤を、抑える強烈な理性が要求されていた。

関東の名刹浄法寺(緑野寺)を訪ね、住職に生きる当てのない自分は心の置き所を何処に求めればよいのか、教えを請いたかった。都で別れたきりの、弟の維基にも一目会って別れを告げておきたかった。

 上野国鬼石にある浄法寺は、伝教大師(最澄)が信仰を広めるために、末寺を立てたうちの一つで創建は815年頃といわれている。

本寺が延暦寺で、本尊は阿弥陀如来であり、東国の天台宗の拠点になっており、武家にも広く信仰されていた。

維基は六代の異母弟であり、年も一つしか違わなかったが、六代と違って逞しく、野性的なところがあり、野武士のような風格を発散させる男で、弟なのに何故か頼もしいところがあった。

維基の母は武勇で鳴らす秩父平氏の娘であり、その血を引いている維基は着る物にはとんと無頓着で、言われなければいつも同じ袷を着ていた。維盛とは別居していたため、一人で山へ分け入って、鳥やウサギを捕まえたり、川に潜って魚を取っているような子供であった。

維盛の叔父知盛が永暦元年(1160)に武蔵守に任じられ、武蔵国に滞在した折に、人手が足りなくなり秩父党に申し付けて娘を出仕させた。仁安二年(1167)知盛は武蔵守の任期を終え都へ戻った。

この時、知盛室の請いにより都に同道してきた娘を、維盛が見初めて貰い受け、帰京した翌年嘉応元年(1169)維基の誕生となったのであった。源氏勢が上京し都が戦乱に、巻き込まれそうな情勢になった折に、維基は母と共に武蔵国へ帰っていたのである。

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2006年12月21日 (木)

平家最後の戦い

  

平家最後の戦い

 平忠房は維盛の末弟であり、

「丹後侍従」と呼ばれていた。生年は不詳であるが同じ藤原家成の娘を母に持つとされる弟・宗実の出生が1168年である事から、是より先1166年の出生と仮定すると、1184年の壇ノ浦の戦いの頃は18才くらいと推定される。屋島の合戦で敗れた後、ひそかに陣営を抜けて紀伊国へ入った。

当地の豪族・湯浅宗重を頼ったが、協力者を募って態勢を立て直す積りだったと言われている。

湯浅氏は有田の強力な武士集団で、南北朝時代まで300年にわたって活躍し湯浅党と呼ばれていた。

頼朝の残党狩りは厳しいものであったが、各地に潜伏していた平家の残党、悪七兵衛ら猛者が500余名も忠房の元に集結した。これだけ集まれば鎌倉に情報が届かない訳がない。源頼朝が阿波成長に命じ、成長は千騎余りの軍勢をもって攻めたが湯浅氏は岩室城に籠り、激しい戦いが3ケ月も続いた。

忠房の一党は宗重と共に防戦し退くことはなかった。だがこれに業を煮やした頼朝の、「重盛殿には旧恩あり、そのお子は助命する」との言質を得て、忠房は周りの反対を押し切り降参人となった。

この頼朝の言葉を伝えたのは文覚上人であったという。その後、鎌倉へ出向後、京都へ送還される途中で、頼朝の命により後藤基清によって斬られたが、妻に藤原脩範の娘を妻にしていた事から、その子孫がなかったとは言い切れないものがある。

白糸浜長者・岩井左衛門の娘(白拍子花松)との間に、女の子が居たとも伝えられている。また一説には忠房の潜伏を湯浅宗重が鎌倉へ密告したとしているものもある。

「紀伊続風土記」の青木村の条につぎのようにある。

小松殿の御子丹後侍従忠房八島の軍より落ち、紀伊国住人湯浅権守宗重を頼んで

湯浅の城にそ籠られける。是を聞て平家に志し思ける越中次郎兵衛、上総五郎兵衛悪七兵衛、飛騨四郎兵衛以下の兵共附奉りしかは、伊勢伊賀両国の住人等我もわれもと馳集究竟の者とも、数百騎盾籠山聞しかは熊野別当鎌倉殿より仰を蒙りて、両三月の間に八箇度寄て責戦城の内兵命を不惜防きけれは、毎度に味方追散る熊野法師数を盡

し討れにけり。

 

 熊野別当鎌倉殿へ飛脚を立、当国湯浅の合戦の事両三月の間に八箇度寄て責戦ふされども城兵命を不惜防く間毎度に味方散れ敵をしへたつるに及はす。近国二三箇国を

も給て責落すへき由、申たりけれは鎌倉殿其條国の費へ人の煩なるへし。盾籠所の兇徒は定めし海山の盗人にそ有ん、山賊海賊きひしう守護して城の口を堅め守へしと、そのたまひける其定にしたりけれは、けにも後には一人も無りけると云々。或記曰永和四戌午年南方宮方蜂起し、湯浅権守搆城国民を追捕し国中の野伏山族強盗の溢者共馳集り、其勢二三千計国中に打出と云。

 依之将軍家義満より是を退治せんと、同年十二月山名修理太夫義理舎弟、陸奥守氏清佐々木冶部太夫高詮本郷左近将堅詮泰一万七千余兵そそ向ひけると云々。去程に山名以下の諸将湯浅の城に押寄たるに、要害最嶮にして進退自由ならさりけれは先向ひ城を取り、二三日の程敵の位を見て未戦と云々。寄手城を守徒に見物すへきに非す、大手搦手手分を定め一万騎山名義理同氏清軍勢一度に進責上る。

 残り七千の勢は城中援兵の押とす、山名の軍勢攻上ると云とも土地嶮難にしてたやすく進むへき様なかりけるに、城兵厳しく矢炮を以て防きたれは寄手是に辟易し乍ち敗し引退く。

依之十二月二十六日の夜、山名義理舎弟氏清と計り夜討を以て勝利を得んと七百余人丑の刻計り、忍やかに打立ける城内には兼て忍の者を以て今宵の夜討を計り知りて敵の寄来る道路に伏兵を設け、不意に起て散々に戦けれは又寄手敗軍して討るゝ者敵不知は詮方なく、そ見江にける義理氏清又計議を回らし此上は水手を断切渇しさせは自ら落城なすへしと、案内者を以て水手の通路を尋軍士六百余人を以て昼夜番をなし、十二月二十七日より翌正月十六日迄城を囲み水手を取斬りたり。

今は城兵水に渇し防戦の術盡て同月十八日の夜半に、城兵潜に城を落河州へ落行ける寄手は是を知らす。十九日迄守り居しか人有とも不見けれは、若落行たるや責て見よと山名氏清か朗徒二千終に城を乗取り陣ゝに火を放し霞と共に焼立けり。

                          (句読点は付加)

微にいり細に亘って記述されている。本文中に古記録があったとの記述があり、史実に近いものであろうか。多くはこの伝説を史実であったと捉えている。忠房は祀り上げられただけであったと思われるが、平家最後の戦いともいえる岩室城攻防戦で平氏一門の武将は失いかけていた武家としての意地を見せ気を吐いたのであった。忠房の最後については平家物語別本「延慶本」「四部合戦状本」には次のように記されている。

 「屋島ノ軍ヨリイヅチノ落給ケン行方ヲ不知。」

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