2007年2月20日 (火)

妹ヶ谷の開拓者 竹野(小柏)

 妹ヶ谷の開拓者 竹野(小柏)

 妹ヶ谷の地名由来

 群馬県姓氏家系大辞典(角川書店)の、鬼石町の項に次のように出ている。「三波川字妹ヶ谷の小柏氏は、藤岡市上日野の小柏氏の妹、竹野が分家したと伝え、妹が新たに開拓した谷なので、妹ヶ谷の地名が起こったという。」

「竹野」は八郎左衛門の妹と伝えられている。「多野藤岡地方誌・各説編」には日野村小柏の小柏八郎左衛門の妹、竹野が開拓したので「妹ヶ谷」と名付けたという。

とある。八郎左衛門は江戸時代以降に時々世襲された名前である。一番可能性の高い八郎左衛門は、黒滝山不動寺の開基となった一燈居士、重高である。その逞しかった妹とは重氏の五女(重高の妹)ではあるまいか。

小柏氏正系図にある五女が嫁いだ「村上」とは何処なのか、いまだ判明していないが、同系図には遠隔地であれば、武州とか松井田の庄とか藤岡の住などと頭につけて記載してあるが、村上の住としてあるだけで頭につける町名の記載はない。

この事から上日野の近くであって誰もが知っていた地名・村名であったのだろう。してみると「飯塚家」に嫁いだとあり、近隣で飯塚家といえば、かねてより縁戚となっている三波川の飯塚家とするのが必然の結果となろう。

現在の藤岡市鬼石町である。妹ヶ谷は三波川の少し上流の地であるので、その近くに分家した家であった可能性も考えられる。

伝統に基き、系図にはその名前がなく、女子とのみ記されているのが口惜しいといえる。小柏家の女子は大力があったと、何人かの逸話が残されており、後世に伝説を残すほどであった事から、この五女も自ら鋸・鍬を取って開拓にいそしんだものと推測はされる。

 

 飯塚家文書1(県立文書館収蔵目録)の三波川の概要によれば、同村は三波川に沿って東西に長く、18の耕地が点在する山間部の村落である。面積は広いものの地形は丘陵地或いは山地で起伏に富み、急峻であるため水田はなく、僅かな畑地は傾斜地を利用しているとある。

 明治13年の戸数は248戸、人口は1099人である。その他、社13戸、寺1戸となっている。

 「鬼石町誌」には徳川初年の割付石高芋萱村33石6斗とあり、譲原村などでは1728年に「満水愁作水損災害」と記されていて、相当の被害が出たようである。また天明年間の1783年には浅間山の大噴火があり、妹ヶ谷一帯にも40センチほどの降灰があった模様である。

 この当時の時代背景を考える上において注目するべき記事ではある。年貢は各戸の生産高の半分とあり、現代の税金と比べてもかなりきついものであった事が分る。

 三波川における1733年の人口は1,511人とある。

明治8年頃の編集と見られる「上野国郡村誌」によれば、三波川の字地に、下妹ヶ谷、竹谷戸、上妹ヶ谷の名ありとしている。戸数は248、社13、寺1、計262戸、人口1,990人。(先の記述と出典は同じ物のようだ)

民業は猟業23戸、製茶8戸、薪炭180戸と出ている。また諏訪社は四社あり、村の中央に2、村の西に2あり祭神は建御名方命、祭日は7月25日。鹿島社は村の西にあり祭神は武甕槌命、祭日は9月19日。と記載がある。

 妹ヶ谷は古くは芋萱と書き、芋ヶ谷と書いた事もある。現在は妹ヶ谷になっている。

この事から芋・萱が採れた場所という事が推定できる。また萱は江戸時代などには、大事な資源であった事から、萱が採取できる萱場は耕地同様で重要な意味を持っていた。

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