平家の子孫Ⅱ
清盛の娘たち
清盛の長女
藤原信隆に嫁ぎ、信仰心が厚かったと言われている。隆清という子をなして隆清は後に参議になった。都落ちには同行せず、和歌や絵画などの貴族の生活を全うしたようだ。
清盛の二女・徳子(三女説あり)
17歳の時に11歳の高倉天皇に嫁した。24歳になった時親王を生み、親王は清盛に擁立されて後の安徳天皇となった。徳子は安徳天皇と共に平家の都落ちに同行し壇ノ浦で入水した。
ところが源氏の平氏によって髪の毛を熊手に掛けられ引き上げられたという。後に都に送られ出家して建令門院徳子と呼ばれた。時を同じくして二位の尼も壇ノ浦で入水した。安徳天皇を胸に抱いて、三種の神器と共に海に沈み剣は失われた。鏡と勾玉は見つかったとされる。
清盛の三女(二女説あり)
左中将の藤原通憲の子成海範の許婚となったが、成憲が流人となった為、婚約は解消され後に左大臣藤原兼雅に嫁いだ。数人の子宝に恵まれた。都落ちには同行しなかった。子の忠経は右大臣となり、家経は中納言となったが詳しい事は詳らかになっていない。絵の上手。
清盛の四女・盛子
近衛基実に嫁いだ。器楽の演奏に長けていた。基実は24歳で急逝したため子はなしていないようだ。
清盛の五女(母は時子)
藤原隆房に嫁ぎ、隆衡を生んだ。都落ちには同行していない。指折りの琵琶の名手だったという。
清盛の六女・完子
関白藤原基通に嫁いだ。男子をなしたが都落ちに同行し平氏敗戦の後、都に戻ってきた。
清盛の七女・廊の御方
母は常盤御前で有名な義経の妹である。都落ちに同行して、平氏敗戦の後、都へ護送されて帰ってきた。仕えていた主で義兄でもある藤原兼雅の娘を産んだという。「書」に堪能だった。
御子姫
清盛の八女、母は厳島神社の巫女(内侍)だったと言われ、この為か「みこ姫」となったとされる。後白河法皇に18歳で嫁いだが19歳で短い生涯を終わった。入内後僅か1年で没しているため子孫は残していない模様である。
この他の娘たちの多くは若くして亡くなっている。
平の姓を名乗る氏族は非常に多く、源姓と並び二大姓ともいわれる。有名なのは桓武平氏であるが、この他に任明平氏、文徳平氏、光孝平氏がある。古い氏族であり、後世に多くの有名子孫を残し栄えたのが桓武平氏である。平の名前の由来は平安京の平(たいら)から取られたとする。また平の地名は若狭に平庄がある他、武蔵常陸 上野 磐城 陸前 肥前 薩摩などが主なところである。こうした土地に住む平氏ゆかりの者たちは平姓あるいは多比良姓を名乗っている。
藤岡市上日野の小柏氏が本拠とした小柏村の近辺にも平の地名は幾つか散見される。小柏村の隣には上平があり、同じ上日野岡本の近くには芝平、下日野には塩平があり、日野小学校の近くには大平がある。
一山越えた吉井町には多比良(たいら)があり、多比良氏が勢力を張っていた。この他、関連は不明ながら、平井、向平、平石、栗木平、小平、琴平(神社)が見出される。この地方の平の地名は坂東平氏との関わりが類推される。多比良氏、小幡氏、高山氏も坂東平氏の流れを汲んでいる。古い地名は多くの場合、その土地の有力豪族・武士団と結びついている。
白倉には白倉氏があり、高山には高山氏、小幡に小幡氏、神保に神保氏、富岡に富岡氏、一宮に一之宮氏、高田に高田氏、長根に長根氏、庭谷に庭谷氏、奥平に奥平氏、安中に安中氏、秩父に秩父氏、新田に新田氏、足利に足利氏、千葉に千葉氏、三浦に三浦氏数えていけば切りがなくなってしまう。
「多野郡藤岡地方史総説編」に南毛伝説として以下の話が掲載されている。
平井村(藤岡市)に後家畑と呼ばれる所があった。城の内に平良文が築いた城があった。子孫の城主が家臣の妻に懸想し、夫を無実の罪で打ち首にした。その怨霊が祟り城は滅びた。その後、首切り場の畑を耕作する者は必ず妻をなくした。畑の中の首切り台にした大石を、ある人が運んで庭石にしたら、まもなく妻がお産で死亡した。石はやがて寺の持ち物になった。
「平良文は小幡氏の系譜にその名前が見られる事から、小幡氏の先祖であるとみられる」とする者があるが今は見つからない。平良文の生没年は886~953(952)年とされている。
平安期の武将であり、三浦氏・千葉氏・秩父氏などの坂東平氏の祖と言われている。中でも秩父氏との関連が強いとみられる。平将門の伯父にあたり武蔵・下総に勢力を有していた。
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