2006年12月19日 (火)

平家の子孫Ⅱ

 

 

清盛の娘たち

清盛の長女

藤原信隆に嫁ぎ、信仰心が厚かったと言われている。隆清という子をなして隆清は後に参議になった。都落ちには同行せず、和歌や絵画などの貴族の生活を全うしたようだ。

清盛の二女・徳子(三女説あり)

17歳の時に11歳の高倉天皇に嫁した。24歳になった時親王を生み、親王は清盛に擁立されて後の安徳天皇となった。徳子は安徳天皇と共に平家の都落ちに同行し壇ノ浦で入水した。

ところが源氏の平氏によって髪の毛を熊手に掛けられ引き上げられたという。後に都に送られ出家して建令門院徳子と呼ばれた。時を同じくして二位の尼も壇ノ浦で入水した。安徳天皇を胸に抱いて、三種の神器と共に海に沈み剣は失われた。鏡と勾玉は見つかったとされる。

清盛の三女(二女説あり)

左中将の藤原通憲の子成海範の許婚となったが、成憲が流人となった為、婚約は解消され後に左大臣藤原兼雅に嫁いだ。数人の子宝に恵まれた。都落ちには同行しなかった。子の忠経は右大臣となり、家経は中納言となったが詳しい事は詳らかになっていない。絵の上手。

清盛の四女・盛子

近衛基実に嫁いだ。器楽の演奏に長けていた。基実は24歳で急逝したため子はなしていないようだ。

清盛の五女(母は時子)

藤原隆房に嫁ぎ、隆衡を生んだ。都落ちには同行していない。指折りの琵琶の名手だったという。

清盛の六女・完子

関白藤原基通に嫁いだ。男子をなしたが都落ちに同行し平氏敗戦の後、都に戻ってきた。

清盛の七女・廊の御方

母は常盤御前で有名な義経の妹である。都落ちに同行して、平氏敗戦の後、都へ護送されて帰ってきた。仕えていた主で義兄でもある藤原兼雅の娘を産んだという。「書」に堪能だった。

御子姫

清盛の八女、母は厳島神社の巫女(内侍)だったと言われ、この為か「みこ姫」となったとされる。後白河法皇に18歳で嫁いだが19歳で短い生涯を終わった。入内後僅か1年で没しているため子孫は残していない模様である。

この他の娘たちの多くは若くして亡くなっている。

平の姓を名乗る氏族は非常に多く、源姓と並び二大姓ともいわれる。有名なのは桓武平氏であるが、この他に任明平氏、文徳平氏、光孝平氏がある。古い氏族であり、後世に多くの有名子孫を残し栄えたのが桓武平氏である。平の名前の由来は平安京の平(たいら)から取られたとする。また平の地名は若狭に平庄がある他、武蔵常陸 上野 磐城 陸前 肥前 薩摩などが主なところである。こうした土地に住む平氏ゆかりの者たちは平姓あるいは多比良姓を名乗っている。

藤岡市上日野の小柏氏が本拠とした小柏村の近辺にも平の地名は幾つか散見される。小柏村の隣には上平があり、同じ上日野岡本の近くには芝平、下日野には塩平があり、日野小学校の近くには大平がある。

一山越えた吉井町には多比良(たいら)があり、多比良氏が勢力を張っていた。この他、関連は不明ながら、平井、向平、平石、栗木平、小平、琴平(神社)が見出される。この地方の平の地名は坂東平氏との関わりが類推される。多比良氏、小幡氏、高山氏も坂東平氏の流れを汲んでいる。古い地名は多くの場合、その土地の有力豪族・武士団と結びついている。

白倉には白倉氏があり、高山には高山氏、小幡に小幡氏、神保に神保氏、富岡に富岡氏、一宮に一之宮氏、高田に高田氏、長根に長根氏、庭谷に庭谷氏、奥平に奥平氏、安中に安中氏、秩父に秩父氏、新田に新田氏、足利に足利氏、千葉に千葉氏、三浦に三浦氏数えていけば切りがなくなってしまう。

「多野郡藤岡地方史総説編」に南毛伝説として以下の話が掲載されている。

 平井村(藤岡市)に後家畑と呼ばれる所があった。城の内に平良文が築いた城があった。子孫の城主が家臣の妻に懸想し、夫を無実の罪で打ち首にした。その怨霊が祟り城は滅びた。その後、首切り場の畑を耕作する者は必ず妻をなくした。畑の中の首切り台にした大石を、ある人が運んで庭石にしたら、まもなく妻がお産で死亡した。石はやがて寺の持ち物になった。

「平良文は小幡氏の系譜にその名前が見られる事から、小幡氏の先祖であるとみられる」とする者があるが今は見つからない。平良文の生没年は886~953(952)年とされている。

平安期の武将であり、三浦氏・千葉氏・秩父氏などの坂東平氏の祖と言われている。中でも秩父氏との関連が強いとみられる。平将門の伯父にあたり武蔵・下総に勢力を有していた。

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2006年12月18日 (月)

平氏の末裔

平家の凋落

  平氏の末裔

一般に平氏は滅亡し子孫は絶えたと言われる、本当に平氏の子孫は絶えたのか?ここでは主に伊勢平氏・平清盛系を検証してみる。古文献などになかなか現れない平氏一族の行く末・末路を探ってみよう。まず清盛の弟たちの子(甥)であるが、経正、経俊、敦盛、通盛、教経、業盛、為盛など多くの者が一の谷の合戦などで討死している。

清盛    家盛     経盛    教盛     頼盛      忠度

   経正 経俊 敦盛  通盛 教経 業盛 忠快 光盛 保盛 為盛 忠行

重盛 基盛 宗盛 知盛 重衡 知度 清房 清定 清邦 

女子 徳子 盛子 女子 女子 女子 女子 女子

     行盛  清宗  能宗   知章  知忠

維盛           資盛  清経  有盛  師盛  忠房  宗実  

六代丸 夜叉御前 盛綱                 勢観   

源氏との合戦で討死が伝えられていない、その他の平氏の末裔の行方を追ってみる。

清盛の甥たち 

忠快

平教盛の子忠快は出家して青蓮院の慈円の弟子になり、後に能福寺住職になり阿闍梨にまでなったという。その後なぜか、平家の都落ちの際には還俗したのか同行している。そして壇ノ浦の合戦に加わり、囚われの身となり伊豆に流された。

1189年に許され、また慈円の元に戻って僧としての生活を始め、父の所領であった三条白河小河が忠快の手元に戻された。その後、源実朝・北条政子の主催する仏事に協力し1227年に没した。

僧から武士に戻り合戦し、また僧に戻るという一見不可解の人生を送った。一時武士に戻ったが、僧であったため子孫は残していないと思われる。

平保盛

平頼盛の長男。右兵衛・越前守・尾張守・左兵衛佐。従四位下・中宮亮・正四位。1183年7月、平氏の都落ちに同行せず。正三位に列せられた後出家した。親鸞に教えを受け、福井県武生市の城福寺の開基となったとされる。河内守に補せられ小谷城を築城し、小谷氏の祖となったとの説もある。子には頼清(庶子説有)保教ありとする。

平光盛

平頼盛の三男であり清盛の甥になる。母は仁和寺法印寛雅の娘。正五位下に補せられた後、寿永2年(1183)讃岐介となる。平家の都落ちの際には同行していない。左近衛少将・従四位下・備前守・正四位下・非参議・従三位等に列せられ、後に大納言となった。その後、正三位となり源実朝の任右大臣の勅使になり。更に従二位に列せられ、寛喜元年(1229)7月に没した。

子には教性、娘二人源通忠室、松殿基嗣室がある。詳しい記録は少ないが、平家一族が皆、没落した後もしぶとく生き残り、公家として出世を重ねていった光盛は後世にその子孫を残している。

清盛の弟、平忠度の子忠行については伝えられている文献が見当たらない。足跡を残すまもなく早世したものか。

清盛の子供たち

重盛 病死 基盛 戦死 宗盛 刑死 知盛 入水 重衡 刑死 知度 戦死 清房 戦死 清定(養子) 戦死 清邦(養子、戦死か)不明。

清盛の孫たち

維盛 入水 資盛 戦死 清経 自害 有盛 戦死 師盛 戦死 忠房 刑死

行盛 戦死 清宗 刑死 能宗 刑死 知章 戦死 知忠 自害

平宗実(むねざね)

宗実は波乱の時代の波に翻弄された悲運の公家である。重盛の子にして維盛の末弟。生まれてまもなく2才(3才説あり)の時に左大臣藤原経宗の養子になった。土佐守には任ぜられていたものの、藤原氏として文字通り公家の生活を送った。

平氏が滅亡した年には18才になっていた。宗実に特に罪と言えるものはなかったが、経宗は周囲の者が鎌倉に密告し罪を問われ、一族に災いの類が及ぶのを恐れ宗実を追い出すようにして縁を切った。

 この後、宗実は聖俊乗房を訪ねて弟子にしてほしいと申し出て、髻を切り鎌倉へ連絡してもらっても構わないとまで言いきった。その際に鎌倉から何らかの沙汰があれば、それに従うとまで覚悟を披瀝したので、俊乗房も断りきれず出家することを認めたのであった。

其の後、俊乗房は念のため鎌倉へ報告したところ、一度鎌倉へ出頭するようにとのことで、宗実は鎌倉へと送られる事になった。すっかり公家になってしまっていた宗実は、武家のように強い心を持っていなかった為に、道中では食が細くなり遂には飲食を断ってしまった。

これまでの鎌倉の処置を思うにつけても、命が助かるとは思えなかった。そして足柄山を越えて、相模の国に入った所で遂に息を引き取った。

織田親真(ちかざね)

平資盛の子といわれている。平家滅亡後には近江の津田庄に逃れ、後に越前国丹生郡織田神社の神官、斎部親澄の養子になり神職についた。才覚があり、覚盛と名乗っていたと伝わっている。後に姓を織田と改め信長を生んだ織田氏の祖になったという。

平盛綱

平資盛の子(孫説有)。平家の系図上に名前の記載があるが、父の名前に関して諸説あり、謎のある人物といえようか。平家滅亡後に北条氏に仕えた。侍所所司となり、承久の乱の時には北条泰時と共に上洛している。

伊賀氏の乱を鎮圧し、御家人同士の争乱を鎮めるなどの実績を残し、御成敗式目の制定に関わった。北条家の家令になり政治力を発揮したが、北条泰時の死亡後に出家した。子には長崎時綱、平盛時、平頼綱、長崎光綱、長崎高光、長崎高泰が居る。(長崎氏の祖)多くの子孫を残しているが、鎌倉の追討を受けた形跡がないことから資盛の血は薄いのかもしれない。

源智(げんち・勢観)

平師盛の子。平家敗戦後は母と共に遁世していた。出家し慈円の弟子となり、勢観坊となり賀茂の上人と呼ばれた。知恩院(寺)二世となり多くの信者が集まったという。後に浄土宗法然上人(源空)の近くで片腕的存在になったという。著書も数巻残している立派な僧であったが56歳で没している。

その他

平盛国 

平季衡の七男(孫説有)といわれている。平家一族ではあるが傍系である。右衛門尉、左衛門尉、検非違使に任じられ、富士川の合戦にも参加した気骨のある武将であり、清盛に意見する事もあったと言われている。

平家の都落ちに同行し、捕縛された後鎌倉へ送られ、軟禁状態にあった時に出家し毎日法華経を読経していた。自ら断食を強行し命を絶った。享年74才であったと伝えられるが、老人にして強靭な意思が感じられる。

関氏にあっては盛国は資盛の子としてあり、母は鈴鹿の関庄の女となっていて盛国が関氏の祖となったとある。盛国は源氏の追討を受けなかったものか、平家滅亡後には北条時政に降りその臣となった。盛国の子実忠は幕府御家人として鈴鹿郡の関谷の地頭に補せられ関氏を名乗ったとしている。

資盛には他にも妾が居たと伝えられており、その子孫が他にも居ると思われる。

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2006年12月17日 (日)

コンテンツ ? かな。

 貂 ゝの 巻紙物語 は,こ~んなカンジで展開していく予定らしい。

    

平家の凋落

 

  平氏の末裔

   平家最後の戦い

   平家落人伝説

   維盛の「青海波」

   惟盛伝説

   悲運の六大丸

   御前岩の六大丸

 

小柏氏800年の軌跡

 小柏氏の始祖

 鎌倉時代の小柏氏

 南北朝時代の小柏氏 鼠喰城

  室町安土時代の小柏氏

   小柏 高政

  血糊の宮

  白倉氏

  織田家と宝積寺

 菅原神社・妙義神社

  高山氏

 竹花城・小柏城

豪族 小幡氏

  小幡氏の領地

  国峰城落城

  小田原籠城

   幡氏旧領弁録

お菊伝説

  宝積寺のお菊伝説

  因果の水鏡菊が池

 上野国甘楽郡中里村菊女事

定重長篠に出陣 定政小幡孫一を救う

江戸時代の小柏氏

 大阪冬の陣

 小柏家の権勢

 重高と名僧潮音の黒滝山

  焙烙峠の伝説

  富重 養命寺の中興開基となる

  小暮市右衛門 「大神」となる

  切支丹宗門改め

  御荷鉾山騒動

 風梅年代記

   小柏 常次郎

   上日野の獅子舞

小柏舘最後の当主

    八郎治重明

  武士の商法敗れる

  小柏正系図

小柏舘の発掘調査

  小柏氏の末裔

   日野地区の小柏氏

   三波川の小柏氏

  天引の小柏氏

  後書き

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2006年12月16日 (土)

里の風

里の風    里に風が吹いている

住む人は変わっても

里はずっと変わらない

風もずっと変わらない

風は里の歴史を見つめてる

風は過ぎたあの日を知っている

人は誰も風を見ない

風は皆を見ている

風は花を見ている

風は川を見ている

風は山をみている

風の流れが見えるとき

風で青葉のさざなみができる 

風は雨の中を渡って行く

風は雨の飛沫を連れて行く 

風は空を渡って行く

風は川をを渡って行く

風は田畑を渡って行く

 人は風の力を忘れてる

風は雲を運ぶ

風は木の葉を運ぶ

風は種を運ぶ

風は波を運ぶ

 風は時に木も倒す

 風は時間 時間は風

風が通り過ぎる時、時間が見える

風は時間をまたいで吹いている

風のひと吹きは里に流れる百年

風は今日から明日へと吹いていく

春の風は希望

秋の風は寂寥

 風は春を呼んでくる

 風は雪を連れてくる

 

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