2007年8月 2日 (木)

豪族小幡氏 の稿に加筆しました。

豪族小幡氏 の稿に加筆しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年7月17日 (火)

村上とは何所かの稿に加筆しました。

村上とは何所か 妹ヶ谷城と小柏氏 三波川の柔術指南と血判状

の稿に加筆しました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年6月28日 (木)

平氏と小柏氏・武士団 Ⅱ

平氏伝承 小柏氏と武士団

「藤岡市森」の岡本氏の先祖は、甘楽郡岡本に住んでいた岡本兵部少輔持村で,伊勢平氏の流れを汲んでいるという。箕輪城主長野氏の一門であったが、永野氏滅亡後は武田氏に従った。神流川決戦では滝川一益に従って出陣し討死したという。江戸時代には名主を勤めた。家紋は丸に揚羽蝶である。

富岡市妙義町に十数軒ある関氏は本家・関三重一氏家に伝わる系図によると平氏の末裔である。

伊勢国の亀山の関屋の地頭に任ぜられていたので、その時の「関屋」の関を取って関姓を名乗った。実忠の嫡子盛信は織田信長と戦って敗れ、敵対していた武田信玄の元に逃れたという。

その後、武田氏の滅亡により小幡氏を頼って上野国甘楽に来たが、小幡も同じように織田氏に追われていた為、菅原城主の高田氏に関氏を託した。高田氏は自領内の諸戸の佐藤氏に関氏の身柄を預けたという。

三重一氏は第十五代目で、江戸時代には名主を勤め多くの古文書を有している。家紋は丸に揚羽蝶を使用している。

富岡市蕨(一の坂)に新井姓がある。この地は小盆地で隠れ里とも言われるが、交通の要衝でもあり吉井・甘楽町との繋がりが強い。ここ新井家の墓地に応永年間の宝篋印塔があるのが確認された。

この地の南に位置する根古には城跡があるが、築城年代・築城者などはいまだ判明していない。土地の古老の話では新井家の先祖は小松少将の一族で、鎌倉幕府の目を逃れて来て世の中から身を隠し農業をしていたという。

そして「新井」という新開地の名を取り姓にしたという話である。一族が増え後賀や蕨に移った者も出たが、再び戦乱の世となり蕨城に籠って戦ったがこの城も敵の手に落ちたと古老は語っていた。家紋は九曜である。

富岡市藤木を中心に白石姓があり、江戸時代には名主を勤めていた。「白石家家図」と古老の話では遠祖は平氏である。初め土肥氏を名乗り後に白石を名乗った。白石老兵衛盛久の時に安芸国に移り、久知は同地の小幡尾張守に仕えた。

小幡候は朝廷から上野国天引城の朝敵を征伐するよう命を受け、平定した功により小幡庄を与えられ久知以下の十八人の武将も従って来た。

小幡落城後、時の家老・白石出雲守も身を隠し放浪していたが、小幡信秀が野殿に千石の領地を与えられると、久知兄弟は藤木と野殿へ家を構えた。家紋は丸に九枚笹。

富岡市瀬下の黒沢氏の先祖は桓武平氏の出である。下総国相馬郡黒沢村に住んでいたという。後に国峰城小幡氏に仕え、更に武田氏、滝川氏、北条氏に従った。小田原の役での国峰城落城の時には、黒澤の先祖が若君を連れて多野の上野に逃げた。折を見て若君を伴って瀬下村へ来て農業を営んだ。

後に砥石問屋を営み名主をしていたという。家紋はつなぎ駒。

                  

以上「上州の苗字と家紋」から類似の伝承を抜粋してみた。

平氏の出であると伝承されている家が7家あり、その内の4家が伊勢平氏或いは桓武平氏を称えている。

家紋もそれぞれ揚羽蝶を用いている。これだけ多くの氏族が平氏末裔伝承を持っているという事は何を物語っているのであろうか。これらの諸家はみな嘘の伝承をもっともらしく作りあげたのか?

そうではあるまい、先祖から子孫へと連綿として語り継がれていく家の事績が、嘘で塗り固められたものであったとしたらどうだろう。その嘘が暴かれた時、子孫は恥をかき、侮られそしりを受けるかもしれない。

してみると、小柏氏や諸家に伝わるこれ等の伝承、或いは伝承の骨格を形作る部分は事実であると見做す事も出来る。

何れも明確に否定できる文献や古記録は、いまだ現れていない事もその証左であろうか。一様に平氏一門の使う揚羽蝶の家紋を今だに用いている事も、一つの傍証となり得るものと考える。平維盛が牛車に蝶の紋を付けていた事はつとに有名であるが、桓武平氏がみな一様に揚羽蝶の紋を使っていた訳ではないのである。坂東平氏は鎌倉源氏に従って平氏と戦ったゆえか蝶紋を使用していない。

公家では桓武平氏高棟流が蝶紋を使用した他、高望流伊勢平氏の一派が蝶紋を用いている。

三波川小柏氏にも、平氏に結び付く可能性について話を聞いてみたが、そのお答えは次のようなものだった。

三波川とその周辺の地域はみな平氏だった。唯一三波川の飯塚氏だけが源氏である。

自分の家は母から犬を飼ってはいけないと言われていた。(六大丸が犬を追いかけて源氏の将に見つかった故事の戒めか。)

 (遠い西国から、鎌倉の近くを通ってさほど遠くもない上野国に居ついたとは考え難いが…..)東海道は通らず信州を経由して来た。上日野辺りは地政学的に見て御鉾山の連山が、埼玉・神奈川方面からのエッジ(壁の意)となっている。と話しておられた。

 川鍋巌は父から、鳥羽はみんな平氏だ、うちの先祖は馬に乗ったいい侍だった、父などから聞いて良く知っている。と聞いたという。今も土地の古老に良く聞いてみると、戦国時代の話でも自分が見ていたように語る人が居る。

 その話の多くは事実に沿っていて、問題となるほどの矛盾は包含されていないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月26日 (火)

平氏と小柏氏・武士団 Ⅰ

小柴氏と川邊氏

 西上野国の武将・地侍の多くは平氏の系統に属し或いは桓武平氏を称えている。そして先祖伝来の落人・平氏伝承を備えている旧家が多い。これ等の諸家の先祖は京都に在番していた経験があったり、近世では名主を勤めたりしている。三波川小柏氏からお借りした書籍を基に平氏伝承を考証してみる。

 上毛新聞社の「上州の苗字と家紋」を見ると、上日野の小柴家は小此木氏と共に古くからの名家。江戸時代には名主を勤め、領主から定紋入の宝物などを拝領している。両氏とも源氏の流れであるが、平重盛の一族と婚姻し平家全盛の頃はその一門として京都にあった。

 平氏滅亡後、小柏氏と共に上野国多胡郡日野谷の奥地、御鉾山裏に隠遁し小柴摂津守は日野地区の柴平に、雅楽頭は塩平にそれぞれ居を構えた。雅楽頭は鎌倉幕府の詮索を恐れて「小柴」の二字を分解して「小此木」にした。

 戦国時代には甲斐の武田に属し、長篠合戦で両氏共に討死した。小柴家では「天正三年五月二十一日・小柴与兵衛兼行」の霊を祀っている。京都時代の文書は焼失したが江戸時代の文書は数多く残されている。家紋は「雪輪揚羽蝶」。

としている。

 小柴家に伝わるこれ等の伝承は、次の四点からその信憑性は高いと見て差し支えない。

1.小柏氏と共に隠遁したという点。

小柏氏は平重盛の孫が始祖と伝えられており、小柴氏も重盛の一族と婚姻していたとあれば、縁戚ゆえに行を共にしたものと無理なく考える事が出来る。

2.「柴平」の地名は小柴平家から採られたと見る事が出来る。

今は「芝平」と表記される事が多いようだが、小柴屋敷がある岡本の事であろう。そしてその下流に位置する「塩平」の地名にも平家の由来が感じられる。この鮎川の上流から下流までの三地点、すなわち「小柏」「柴平」「塩平」はごく大雑把に見てほぼ等間隔に距離をとっている。

この三地点を地図上で凝視して見ると、藤岡・平井方面からの侵入に備えての布陣・配置と思えてくる。小柏を本城、芝平を詰城、塩平を出城と見る事が出来るようなのだ。

小柏より西は樵道(往時)となり通行不能、北は秋畑山などの山塊に守られ南は鮎川に守られ、豊富な山の幸と水のある要害の地として映じてくる。

3.小柴氏・小此木氏は小柏氏と同じく長篠合戦で討死している。ここでも生死をかけて共に行動している。長篠合戦で討死した小柴与兵衛兼行の妻は小柏定政の長女である。

つまり同じ戦場で討死した小柏定重(定政の兄)の姪である。記録は見当たらないが、これ以前にも小柏氏と小柴氏は婚姻関係にあったとの想像は難くない。

更に定政の三女は小此木吉左衛門兼佳に嫁いでおり、この三家は血縁で固く結ばれていたものと思われる。

4.家紋が小柏氏・平氏と類似の「丸に揚羽蝶」である。雪輪とは蝶を囲む円に所々切れ目が入り、雪の結晶のように見える円の囲いである。

川鍋巌著「北武蔵・西上州の秘史」によると、薩摩川邊郡司の川邊氏は941年、藤原純友の乱に加担した為、薩南地方に逃れ桓武平氏を称えていたという。伊作氏は川邊郡を領有しその氏を「川邊」とした。

薩摩川邊氏の末裔川邊氏は京都で朝廷守護の勤番中、1221年の承久の乱に巻き込まれ、鎌倉源氏軍に敗退、信濃から十国峠を越えて秩父郡矢納郷へ落ち延びて来たという。

 この落人武士団は金澤氏・川邊氏合わせて十二人であり仏像を携えていたという。金澤氏は「矢納」に土着し川邊氏は「鳥羽」に土着し、国人領主になった。「矢納」は承久の乱の時の京都方の武将・矢野次郎左衛門」に由来し「鳥羽」は京都「鳥羽」に由来があると川鍋巌は推定している。

以降 金澤・川邊両氏は一体の武士団を形成し、金澤城・智禅寺舘を築き中世に活躍した。金澤氏はその邸内に宝積寺を建立し、川邊氏は邸内に延明寺を建立してそれぞれ墓地を造っていた。

更に前進基地として、藤原砦・観正寺屯所を設置したという。

金澤氏は矢納西部国人領主として西部を支配し、川邊氏は従者と共に東部国人領主として東部を支配した。

川邊氏は館内に三家老(飯塚・塚本・浅見)を置き、宇那室に野口氏を配置した。

その地は,鎌倉長尾氏領や足利長尾氏領になり、戦国期には武田に属した。

その後は鉢形城の北条氏に属していた為、秀吉軍の前に敗退した。家康は鉢形城の残党狩りを厳しくした為、江戸時代には鉢形の残党の足跡・記録を村ぐるみで徹底的に排除・消滅させて今日に至ったとしている。

昭和27年に川邊舘跡から1500年造立の逆修五輪塔二基と地蔵菩薩画像板碑が出土した。

更に明治41年に近在の人によって智禅寺横の南沢で小さな「金鋳仏」が発見された。この高さ約8ミリの仏像は、博物館の鑑定により十二世紀作「銅造如来形座像」とされた。火災の為に行方不明となっていた智禅寺の本尊だったという。この事により落人の伝承が裏付けられたとしている。

この川邊氏の由来・伝承は小柏氏と小柴氏の由来・来歴に酷似しているように思われる。両者共に平氏の一門であり、縁戚に連なる合同の武士団が西国から落ち延びて来た。

落ちてきたルートは、東海道を避けて東山道に沿ったものであったろう。古代に信濃・諏訪まで敗走してきた「建御名方命」と同じルートだったかもしれない。谷川沿いに土着してその川沿いに城・砦を配置している事も同じである。

その時代の文化であったのだろうが、屋敷内に氏寺を建立し墓地を設置している点でも全く同じである。逆修塔を建立し自分と一族の安泰・繁栄を願った事も一致している。

武州・上州のこのエリアは日本武尊の東征のルートにあったとして、同尊の伝説が数多く残されている。その伝説から生じた地名が幾つも現存している。

「矢納」は日本武尊が自分の矢を納めたところからその名が付いたとされる。「御鉾山」は日本武尊が鉾を担わせた所から生じた山名としている。(「上州の史話と伝説その2))それぞれ変った名前であるが、この由来であれば さもありなんと納得出来るものがある。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月26日 (土)

平姓 上野国 小柏氏 正系図

1_6

2_3

3_1

22_1

 

5_4

6_3

7_3

8_3

9_3

10_1

11_2

12_3

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年5月11日 (金)

小柏氏の800年 年表

 小柏氏 年表

 平安時代

1100年 上野国国司 介藤原敦基 目代平周真

1157  平維盛 出生

1168  維盛嫡子六代丸(午前) 出生

1169  六代丸弟維基(姓を小柏に改称) 出生

1170  六代丸妹 夜叉御前 出生

  鎌倉時代

1185  文覚上人 六代丸の助命嘆願

1190  頼朝 入京

1194  六代丸 鎌倉で頼朝に面会

1194  六代丸 鎌倉で没(斬) 26歳

1196  小柏維基 鹿島神社建立 (上日野)

      維基の後継 維里 小柏太郎

      維里の後継 時基   太郎

1252  上杉氏 鎌倉で侍家大将となる

1278  時基の後継 維仲 (市太郎) 北条時村に従い京都六波羅入り

1301  維仲の後継 重胤 (右衛門太郎) 執権北条基時に従い六波羅入り

      重胤の後継 時實 (市次郎)

  時實の後継 實親 (與市) 執権北条高時に属す 

1333  新田義貞鎌倉没落時 實親戦死 弟實季も兄と共に戦死

 南北朝時代 

1335   上杉憲房 上野国守護となる

1355頃  實親の後継 重親 (平太夫宮内少輔) 鎌倉管領に属す (北朝)

             重親 足利基氏・上杉憲顕に属し鎌倉勤番(在住)

1360   重親没

   重親の後継重家(庄司)歴代小柏村住す 管領上杉憲方に属す(在鎌倉) 

武功有      

1367  重家 上日野小柏(村)に宝篋印塔を建立す

1370頃 重家 西御鉾山に鼠喰城を築城 

1410頃 重家 没

この頃   重家の後継 重徳 (六郎) 管領上杉憲定に属す

1416  小幡氏 上杉氏に属す

 室町時代

1428頃  重徳の後継 高家 (平太郎後庄司) 上杉憲基・憲實に属す  

1440   足利持氏生害の時 高家軍功あり

1441   上杉氏 小幡氏 結城城を攻撃

この頃    高家の後継 重行 (平治左衛門尉) 上杉憲實 に属す

       重行の後継 顕重(宮内少輔) 法名 浄山 上杉房顕・顕定に属す

1504   顕重 武州立川原合戦にて戦死

1504頃  顕重の後継 顕高 (駿河守) 浄印入道 管領上杉顕定に属す 

上杉憲房から顕の一字賜る 顕高と称える 

1511頃  顕高 平井城出仕 上杉憲寛に暫く属す 

       顕高の後継 高道 (大學) 法名 道徹 管領上杉憲政に属す 

1545         高道 川越合戦出陣 数度の武功あり

1552頃           小幡重貞より招致あるも応ぜず のち和す

1545頃  高道の弟 高景(小次郎 後 駿河) 兄と共に上杉憲政に属す

 平井城出仕 力量優れ鬼駿河と呼ばれる

       高景の後継 景氏 (新吾) 本家後見役 (妻 高道長女)

1583頃  景氏の弟 高治 新助 細谷戸村の地守を勤め後 田ノ口の代官 

子孫有 田ノ口相木村

           景氏の後継 高元 (宮内助)

           高元の後継 高久 (加兵衛)

           高久の後継 光氏 (作重郎)

           光氏の後継 高次 (武兵衛)後 一無 (実は堀口氏二男)

           高次の後継 高連 (浅次郎 後 武兵衛)

   高道長女 景氏に嫁す 力量大いにあり誉れ高い為別記有

二女 後藤新太郎基道に嫁す 基道の後継 道兼(小柏新左衛門となる)

1551  上杉憲政北条氏康に追われ越後へ行く

  高道の後継高政 (左馬助 後六郎右衛門) 浄林庵主 上杉憲政に属す

1551頃 高政は鼠喰城に北条氏康軍千余人を迎えうち、千人斬り。(撃退?)

1552 憲政逃亡後 高政武田に属す 佐久郡田ノ口代官となる 家紋変更す 

1561 武田信玄西上野へ進出 氏康と謙信の倉賀野城を攻める

1566 信玄により箕輪城落城 長野氏亡ぶ

1570 新陰流祖 上泉信綱(大胡城主長野旧臣) 足利義亜昭に兵法を教える

  高政の弟 定重(源六) 兄と共に武田勝頼に属す  お菊を救助する

1567  高政 小幡弾正忠信氏と白倉氏・熊井戸氏と生島足島神社に起請文奉納

1575  定重長篠の合戦に出陣 戦死  別記有

1577  高政小幡重貞・信真と共に菅原神社及び妙義神社に鰐口奉納

1580頃 高政 養命寺建立 開基となる

1582  織田信長 没

   高政の後継 定政 後源重郎 浄久 

1587  定政 小幡信貞 嫡男(養子)孫市(直之)を匿う 定政武功有

1590  定政 小幡信貞と共に小田原籠城 (秀吉攻め) 別記有

      定政 長女 小柴家に嫁す

         二女 飯塚家に嫁す

         三女 小此木家に嫁す

1592  定政の後継 重氏 (六郎右衛門)出生

      定政二男貞景 (傳内)堀口家に養子・後継

        三男貞實(傳左衛門)友松家に養子・後継

江戸時代

1614  大阪冬の陣に重氏出陣 22歳 数度の武功有

1616 織田信雄 小幡城主となる

1662 沼田藩主真田伊賀守信利 領内に過酷な検地をする

1671 重氏 没 79歳 法名 浄安  別記有

 

     重氏弟 貞景 堀口家(小幡)を継ぐ 堀口伝内と称す 法名 浄無

     重氏弟 貞實 友松家(福島)を継ぐ 傳左衛門 を称す 法名 半無

      重氏の後継 重高 (甚平 後八郎左衛門) 一燈居士

1675 重高夫婦で潮音に帰依 不動寺建立開基となる 不動寺に木像有 別記有

      重高 弟 重弘 與惣右衛門 号は全當 山田家(白倉)を継ぐ

         妹 小柏光高(榎谷戸)に嫁す

             光高 長男光氏 (作重郎) 中俵家を継ぐ

             光高 後継 二男 高行 (彌平治)榎谷戸小柏氏

      重高 妹(実は光高妹)金井家に嫁す

重高 妹 桜井家に嫁す

重高 弟 吉重 後 重高の後継者となる

重高 妹 堀田家に嫁す 後広瀬家に嫁す

1646生?(推定) 重高 妹 飯塚惣兵衛春猶(村上)に嫁す 法名 貞真  

 竹野か?   1686頃?妹ヶ谷入植?

重高 妹 松井田の松本家に嫁す

     重高 弟徳氏(丑之助)号は宗莫 沼田藩真田信利に属す後小柏に住す

     重高 弟 常氏(平右衛門)飯塚彦右衛門(三波川)を継ぐ 法名 了真

     重高 弟 吉次 (権右衛門) 後又兵衛 尼崎城主青山幸利に属す

後 医師露休 となる 小柏に住す

重高の後継 弟 吉重 (平吉 後権兵衛) 初め本多家に属す 

後 重高の後継 法名 一桂 不動寺に建影像有

 

1681 潮音「旧事大成経(神代皇代大成経)」の出版に関わり幕府より謹慎処分を受ける

1713頃 吉重の後継當重 (萬太郎後武太夫と号す)

養命寺 中興開基となり山林・畑を寄付する

1725? 當重 解江湖の施主となる 法華経一千部 転読施主 法名 浄榮

1752  當重の後継記重(平吉後権八郎 又八郎左衛門と改め) 没 法名有象

      記重の姉 諸星家に嫁す

         弟 俊棋(甚平後政右衛門)須藤家を継ぎ六右衛門を名乗る

         弟 一要(源六)17歳で出家す

         妹 庄田家に嫁す

         記重の後継祝重(権八郎後八郎左衛門)

         祝重の姉 新井家に嫁す

            姉 根岸家に嫁す

            姉 須賀家に嫁す

            姉 庄田家に嫁す

            姉 市川家に嫁す

            弟 惣次郎 (実は須賀角右衛門智春の二男)

1752 祝重の後継重簡 (右馬介後内藏之蒸 六郎右衛門)出生

          

1757 (第二次)御荷鉾山騒動

1757 小暮市右衛門 刑罰受ける

1764 重簡の弟重方(幼名は右膳司 謙治郎?郎吉? 後八郎左衛門) 出生

1784 国内冷害飢饉

1786 関東大洪水

1787 数年飢饉 物価高騰 農民脱走

1791頃 重方の後継重基 (八郎右衛門) 出生  

           重基の姉 市川家に嫁す

              兄 徳明 出家 武州今井村長興寺

              弟 治平 前原村 松下家を継ぐ

1792年 祝重 没 法名 躰寿     

1800  幕府 切支丹宗門改め

1800~1807 重簡 名主を勤める

1807~ 重方 名主を勤める

1809 富岡正忠 上野名跡考を著す

1812 重方の後継重基 (八郎右衛門この年名主) 秩父山で金堀り 失敗

1815 風梅 出生

1828 日野村の農民、役人の不正を越訴する 御鉾山騒動

1832 重方 没 68歳  法名 一法寿山

1837 重基の弟方義(泰吉) 没 23歳 法名 一天総梅居士

1843頃 重基の後継 重明 (民之助 八郎治)出生

            重明の姉 貞 浦部家に嫁す

               妹 嶋 小此木家に嫁す

               妹 才 浦部家に嫁す

               妹 代 吉田家に嫁す

               弟 真太郎 砥沢村の市川家を継ぐ

1850頃  寛永年間の山崩れで御前岩の碑が流失したという 

(多野藤岡地方誌各説編)

1856 重基 没

1867 念流(間庭)道場を建てる

明治時代

1868 上野諸藩兵 三国峠で会津軍と戦う

1869 岩鼻県 貫前神社に廃仏命令を出す

1871 廃藩置県

1872 富岡製糸創業 民間信仰禁止令

     日野村の俳人 芭蕉の墓参 芭蕉碑を建てる

1876 星野長太郎 自家製生糸をアメリカへ直輸出 地租改正

1877 重明の弟重義(倉太郎) 西南の役に徴兵で従軍 熊本県にて戦死 

     重明の長男 武之助 早世

        長女 美代  武州下奈良村 吉田家に嫁す

        二女 逸   三波川 飯塚時五郎に嫁す

        三女 濱   信州臼田町 井出久定に嫁す

1884 秩父事件 発生

1885 風梅 没 72歳という

1894 日清戦争  高崎連隊へ動員令

1898 重明の後継(孫)吉明 出生 第三十五代の当主となる

1904 高崎連隊に日露戦争の動員令

1909 浅間山大爆発  郷土史編纂令

1910 「多野郡誌」なる

大正時代

1922 (大正11年)重明 没 79才?

        年次には数年の誤差がある場合があります。

        小柏徳氏の天引移住 Ⅲ

        亀穴峠・鳥屋峠は昔の街道

        日野地区の小柏氏

             以上の三項に文章を付加しました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年2月13日 (火)

江戸時代の小柏氏

 江戸時代の小柏氏

大阪冬の陣

 小柏定政の長男は重氏(1592~1671)であり二男が貞景である。定景は小幡郷の堀口家の養子となって同家を相続し堀口伝内と改めた。法名は浄無である。

 三男が貞實であり福島の住人友松家を継承し友松傳左衛門となっている。法名は半無である。

 長男の重氏は六郎右衛門であり法名を浄安といい七十九歳で没した。系譜に拠れば

妻は城和泉守永盛の娘である。慶長十九甲寅年冬摂州大阪のご陣の節、重氏生年二十二歳にして、関東方の御使い番役の永盛に従い大阪表に随行し大いに働いた。この戦では数多の武功を挙げた。

 また永盛の従臣、熊井戸久兵衛永正は老体であり殊にこの時嬰病痾なり。かつ娘ありて男子なく、よって軍役も勤めがたくなっていた。重氏は永盛の婿永正のためにその陣代を勤めた。この他、事績の詳細を記した別記あり。

 有名な大阪冬の陣に参加した記録である。熊井戸氏は小幡家の家老格にあった熊井戸対馬守の一族であろうと推測される。同氏は小幡城を館城としていたので近隣の武将である。

この頃、元和二年(1616)家康に領地を与えられ信長の二男織田信雄が小幡城主として入国してきた。

小柏家の権勢

 日野谷(ひのやつ)には戦国時代から「日野七騎」と呼ばれた旧家があり、代々名主などの村役人を勤めてきた。日野七騎は小柏(小柏村)、酒井(鹿島)、小柴(岡本他)、黒澤(駒留)、高山(金井村)、栗崎、飯塚の七家で、地主として強大な権威を持っていた。

 「群馬県多野郡誌」では栗崎・飯塚の替わりに柴崎・笠原(後原氏)を挙げて、小柴氏と小此木氏は同一視している。

 七騎といわれる家には、代々「家抱」といわれる半隷属民がおり、10戸から多いものになると、小柏家のように約50戸も家抱がいた。家抱は、大家といわれる地主の屋敷内に住み、労役を提供していた半隷属民であった。

衣服に対する制限も厳しく、絹などを用いれば皆取り上げられた。したがって、日野七騎は江戸時代にわたり絶対的な権威を持って君臨していた。上日野村の名主小柏家は、農民を自宅に呼び出し家抱にする旨を申し渡した。家抱は笠は竹張笠、下駄は切附下駄意外は厳禁であった。

小柏家は見渡す限り一面の山をすべて所有し、一説には三千町歩もの山林を所有していたといわれ、その権威を示す「おえんが荷場」「若宮八幡の由来」などの“小柏伝説”がいくつも残されている事に象徴されている。(多野藤岡地方誌・各説編)

御荷鉾山は古くは八束山と牛伏山とで多胡三山と呼ばれていた。特に御荷鉾山は三山中の最高峰であり、その秀峰ぶりは万葉集にも歌われている。

「群馬県多野郡誌」を見ると御荷鉾山には三峰あり、西御荷鉾山(釜伏)が最も高く(1286)、次いで東御荷鉾山(1246)、亜ぎをどけ(オドケ山1191)と続くとある。

江戸時代には村民がたびたび登山して、雨乞いの祭祀を行なっていた。その跡は今にして窺う事が出来る。別名雨乞山(雨降山)と呼ばれた事もあったようだ。

御荷鉾山の頂上には不動明王の石像があり、鬼が住んでいたが弘法大師に調伏され、この時に大石を投げて去ったという。

その石の落ちたところが今の鬼石町であるとされ、その石は今なお村の中にあるという。江戸時代は木材の需要も多く、小柏家は山の支配権を背景として強大な権勢を持っていた。

山間の地にあっては、やはり山が生活の基盤をなしていた。これらの山仕事は「山稼ぎ」と呼ばれ、山元或いは元締めと呼ばれた小柏家が統轄していた。

山はすべて元締めが支配しているので、山に入るものは元締めを通して申し込むものとされていた。

山の中での事で元締めが承知していない事があれば、不取締り(吟味できない)になるので、全て元締めに報告せよとの公文書も今に残されている。

 家抱とは耳慣れない言葉だが大名家の中間、商家の下男、寺の作男みたいな者であったろう。屋敷内に住居などを与えられ、税金は大家が負担したが労働力として使われた。家族で住み込んでいる者も多かったようだ。この地域独特の制度であったようだ。

 藤林伸治によれば、吉井藩も小柏の自治権を承認し一種の同盟関係にあったとする。そして小柏家の隷属的主従関係や上・下日野村の支配体制を積極的に利用したとしている。

 家康は武田家(信玄)をかっていた為、同家の旧臣の優遇策をとったといわれる。この政策も後押しをして、小柏家も大地主としての権威を徐々に身につけていった。既に江戸時代の初期の頃には、家抱を数十人も抱えていたという。

 幕府の政策により権力を築いていったとしたら、約二百六十年後の明治政府の財政再建政策により、没落のきっかけを蒙ったのもまた廻り合わせの成せる業か。

| | コメント (0) | トラックバック (0)