小柏館の発掘調査 Ⅱ
小柏館の発掘調査 Ⅱ 日野地域では他に山地尾根上などに、駒留城、子王山城、三ッ山城、清水山城などの城郭が築かれ、自然の地形を最大限に利用している。 第一回めの発掘調査報告書は「まとめ」として次のように報告している。
小柏舘跡の存在については、近年まで小柏氏が居住していた事もあり、古くから確認されていた。まず最初に舘の所有者である小柏氏についての概略を記すと、小柏氏は平清盛の嫡男である重盛の子、維盛が妾腹に生ませた維基を始祖としている。 維基は源平の大乱の後、鎌倉幕府を憚って上野国小柏に隠れ、重盛から伝わる小松姓を小柏姓に変えたとされている。 永享の乱に際し、小柏高家が上杉憲実に仕えて戦功を挙げるなど、上杉氏との関係を深めたが、天文二十一年(1552)に上杉憲政が越後に走った後は、甲斐の武田氏に降っていたが小幡氏と婚姻関係を結んで武田氏配下となった。 また小柏氏は上日野名無村・奈良山の後藤氏と婚姻関係を結んでこれを吸収しており、日野地域における積極的な勢力の拡大を謀っていた。 近世に至ると小柏氏は大家と呼ばれ、農業経営や村落共同体の中心的な役割を果たし、「家抱」と呼ばれる隷属農民を従えるようになっていた。
今回の発掘調査では、小柏舘跡の南部分を構成していると考えられる石垣の一部を検出した。調査範囲が狭い範囲に限定されているため、舘跡の全体像を掴む事は不可能であり、特に舘の出入り口を特定する事は困難であった。 舘跡の構造全体を把握できないために「矢掛け」などの個々の石垣についてもその機能を明確に解釈する事が出来なかった。 個々の石垣は石材の規格にやや違いが認められるものの、基本的には緑色片岩を使用した乱石乱積の石垣である。舘跡が築造されている平場は、南側に緩やかに傾斜しているが、整地を行なう事で傾斜を極力なくし、石垣を築造している。こうした自然地形を克服し、背後の山々から産出される石材を利用した石垣は、現在も日野地域の各所で散見される。
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