2007年4月10日 (火)

 小柏館の発掘調査 Ⅱ

 小柏館の発掘調査 Ⅱ

 日野地域では他に山地尾根上などに、駒留城、子王山城、三ッ山城、清水山城などの城郭が築かれ、自然の地形を最大限に利用している。

 第一回めの発掘調査報告書は「まとめ」として次のように報告している。

 小柏舘跡の存在については、近年まで小柏氏が居住していた事もあり、古くから確認されていた。まず最初に舘の所有者である小柏氏についての概略を記すと、小柏氏は平清盛の嫡男である重盛の子、維盛が妾腹に生ませた維基を始祖としている。

 維基は源平の大乱の後、鎌倉幕府を憚って上野国小柏に隠れ、重盛から伝わる小松姓を小柏姓に変えたとされている。

永享の乱に際し、小柏高家が上杉憲実に仕えて戦功を挙げるなど、上杉氏との関係を深めたが、天文二十一年(1552)に上杉憲政が越後に走った後は、甲斐の武田氏に降っていたが小幡氏と婚姻関係を結んで武田氏配下となった。

 また小柏氏は上日野名無村・奈良山の後藤氏と婚姻関係を結んでこれを吸収しており、日野地域における積極的な勢力の拡大を謀っていた。

近世に至ると小柏氏は大家と呼ばれ、農業経営や村落共同体の中心的な役割を果たし、「家抱」と呼ばれる隷属農民を従えるようになっていた。

 今回の発掘調査では、小柏舘跡の南部分を構成していると考えられる石垣の一部を検出した。調査範囲が狭い範囲に限定されているため、舘跡の全体像を掴む事は不可能であり、特に舘の出入り口を特定する事は困難であった。

舘跡の構造全体を把握できないために「矢掛け」などの個々の石垣についてもその機能を明確に解釈する事が出来なかった。

 個々の石垣は石材の規格にやや違いが認められるものの、基本的には緑色片岩を使用した乱石乱積の石垣である。舘跡が築造されている平場は、南側に緩やかに傾斜しているが、整地を行なう事で傾斜を極力なくし、石垣を築造している。こうした自然地形を克服し、背後の山々から産出される石材を利用した石垣は、現在も日野地域の各所で散見される。

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2007年4月 9日 (月)

小柏舘の発掘調査  埋蔵文化財

 小柏舘の発掘調査  

 埋蔵文化財の調査

 藤岡市教育委員会により、上日野の小柏家館跡の発掘調査が行なわれた。第一回目は平成10年12月である。「県営ふるさと水と土ふれあい事業」の一環として、上日野に農道が建設される事になり、その農道が小柏舘の敷地を通る事と成ったので、埋蔵文化財の調査として実施されたのである。

 建設予定地には、平維盛の一子太郎維基を始祖とする小柏氏が中世より居住したと伝えられる小柏舘跡が存在し、文化財課では小柏舘跡の現状保存措置及び記録保存となった場合の手順を説明した。

 7月14日、文化財課は現地踏査を行い、遺蹟地の現状と農道の建設範囲を確認し、該当地に埋蔵文化財が存在することがほぼ確定的となった。土中の遺構を確認するため試掘の必要がると判断した。

 これにより、12月8日から12月17日まで試掘調査を行なった。その結果、礎石を伴う掘立て柱建物跡、溝状遺構、石列が検出され、二面の遺構面を確認した。また出土物として、陶磁器・古銭が検出された。

 以上から小柏舘の存在が再確認され、開発にあたり保存の措置が必要になる事が判断された。高崎土地改良事務所に保存を望んだが、他に農道建設の適地がないことから、やむなく記録保存を目的とした発掘調査を行なう事になった。

 調査範囲は小柏舘跡を中心として、910㎡で実施する事になり、期間は平成11年9月10日~平成12年2月29日までとなった。(埋蔵文化財発掘調査報告書)

 その後延長され実際には3月10日迄調査が行われた。

 調査を行なった後の石垣は破壊せざるを得なかったが、巨石は人力で除去できなかったため、重機を使ったという。では築造時の石を積む作業は人力で行なったのではなかったのかとの疑問が残る。

遺蹟全体の空撮はラジコンヘリを使った。

対象地は明治期以降、日野第五尋常小学校が建設されており、遺構の保存状態の悪化が懸念されたが、石垣などの保存状態は比較的良好であった。同遺蹟は鮎川左岸の山腹南側の標高370mのところにある。

 周辺は耕地拡大に伴って新たな居住域が設けられ、しだいに拡大していった。箕輪においては、平安時代の集落が確認されている。鮎川流域では国分寺瓦窯跡など、幾つもの窯跡がある他,炉遺蹟・製鉄炉や製鉄工房跡もあり、奈良・平安時代の生産力・技術を持っていた事がうかがわれる。

 中世に入ると戦時に備える城館は砦が多くなり、平井には関東管領上杉氏の平井城、金山城、飛石の砦、東平井の砦が築かれた。高山には日野七党の一つ高山氏の高山舘、東日野金井城が所在する。

 日野地域では小柏氏の居館である本遺蹟の他、後藤屋敷、小柴屋敷、黒澤屋敷、柴崎屋敷が鮎川沿いにある。これ等の居館・城館は律令制崩壊後の地域支配の拠点としての役割を担っていたと考えられる。(埋蔵文化財発掘調査報告書)

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2007年2月10日 (土)

お菊様の命日

 

お菊様の命日

   菊女の墓 

Photo16

国峰城の菊ヶ池伝説には幾つかの説があり、疑問も多いが、この墓は妙義町にある。
石塔は右より菊の両親の墓、菊の墓、側塔、五輪塔となっている。
この墓は菊ヶ池伝説にて紹介しているとおり、小幡氏の末裔である松代藩士小幡長右衛門龍蟄(りゅうちつ)が安政5年に調査し、妙義村の名主藤井忠右衛門に依頼して整備されたものであるが、写真の石塔等は伝説当時のものと考えられている。
 しかし、伝説が小幡信貞時代であれば戦国時代の話となり、五輪塔には戦国以前の様式が認められるため、この墓がはたして伝説の主の墓なのか疑問も投じられているが。
なお、当時の城主は小幡信貞だったとする説が定説となっているが、妙義町では信真と紹介している。
 ちなみに国峰城の菊ヶ池伝説は登場人物も歴史上存在したことが確認できる者が幾人かおり、この墓がいっそう真実性を高めているが、同じ伝説が群馬県内に安中市と前橋市にも存在している。
 八重ヶ渕伝説とお虎ヶ渕伝説である。
しかし、両伝説とも時代や登場人物がはっきりせず、したがって確認も取れない。
安中市では祟りが実際におこったと騒がれた過去が数回あり、お八重の碑を建立して祀っているが、前橋市のお虎ヶ渕は利根川の流域が当時と変わっていることから場所もはっきりせず、碑も建っていない。
 私の考えで恐縮だが、たぶん藤岡市に管領府があった頃、または山内上杉氏滅亡直後の甘楽から安中・高崎を経て前橋まで上杉氏勢力がまだ強かった時の事件であり、各地域での連帯感が残っていたために、甘楽国峰での事件が民衆の間で広範囲にまで知られることとなった。

その悲しい物語のヒロインに多くの共感者が出、人々の記憶に残り、その結果各地で語り継がれ、伝説となって残ることになったのではあるまいか。

    写真と文、国峰城(小幡城)HPより

お菊の命日には幾つかの説がある。宝積寺46世住職の西有穆堂の「因果の水鏡菊が池」では天正14年9月19日とする。小幡龍蟄は、信真が小田原出陣の留守に起こった出来事と考えたため、天正17年と推定している。(龍蟄は当初、天正15年以前と考えたが後に訂正した)

 「上野人物志」では、新井家が連綿として伝えてきて、三百五十年忌の法要を催した事から、逆算して天正1年の出来事としている。天正1年のことであれば、お菊を救出した侍は小柏源六定重であり、小柏系譜の記載と一致する。

 また天正14年、或いは天正17年の事であったのなら、救出した侍は、兄の後を継いだ定重の弟、左馬助定政、後源重郎となる。定重は天正3年の長篠の戦いで、小幡大膳介と共に討死しているからである。

 小幡龍蟄の著した「上毛菊婦傳」の末尾に、小柏高政とその二男定政の記述がある。龍蟄の研究の一助にと宝積寺が、同氏の元へ送ってきた資料の中にそれがあった。小柏氏の牌名(位牌)の中から抜書きをした物という。

 覚性浄林居士 小柏左馬介高政

 光岩智明大姉 同人妻 小幡尾張守重貞姪女

 昌室浄久居士 小柏左馬介定政 初号 源助

 寛永十二乙亥正月四日

 右者小柏八郎左衛門 牌名之内

と記された資料である。小柏系譜には定政が源助と名乗った記録はなく、後に源重郎と改めたとある。左馬助を名乗る前の幼名が源助であったという事はあり得る。

向陽寺の話では、位牌や過去帳は住職が変わったり、読み難くなったりすると、書き換える事があるという。

この際、一部の文字が変わったりする事も否定はできない。何ゆえに定重の名前がないのかは不明のままである。この資料により龍蟄は、次のように考察する。かくの如くなり、菊の一件は天正年間の事と、口碑にも伝えられていて、かれこれ考えると、山で猟をしていた小柏源助というのは、この定政なるべし。と書いている。

この後には、松代清野村龍泉寺に安置してある鎮守は菊を祭る所なり、(我)曽祖父義正君の代の書面に、年来安置の鎮守とあるのでその以前、更に古くから祭っていると見える。と記述している。

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