藤林伸治によると小柏家最後の番頭は、小沢弥五郎の四男・兵三であり同家の現地管理人(兼)墓守をしていたという。(昭和53年頃の事か)弥五郎は気楽流の使い手で秩父事件の参加者である。
事件後は行方不明であったが、時効が成立するのを待って帰郷して、破産していた家を再興したという。その間は木挽きの仲間に入り腕を磨いていたらしい。また石積みの名人、山田小太郎に弟子入りして石積み職人になった。
自由党員でもあった弥五郎は、常次郎そっくりの切れ者とされる反面、ホラ吹きとの評もあったもよう。
口伝として上日野に残っている村のしきたりは、次のようなものである。
男だけの念仏講(16日)
戒名に院号を付けない(八郎治も院号を付けていない)
土蔵を作らない(現在も土蔵はない)
獅子舞は草鞋をはかない隠れ獅子(室内用・長く隠された家抱村)
等である。(藤林伸治の取材メモ)
小柏氏の墓所には貞治年間の宝篋印塔があるが、江戸時代以前の墓碑が見当たらない事を不思議に思っていた。江戸時代以前の約600年間の墓碑が見られないのである。
中世は墓制がなかったのか水葬や土葬が行なわれていたという。墓碑や墓石についても一般庶民は禁止されていたともいう。この事から多くの人は、墓碑や墓石を建てる習慣がなかったのか、或いはこだわらなかったものか。今でも墓石の大きさや形状を、条例や施工規則で規制している都市がある。
家紋は平安時代以降に使用されるようになり、主として武士が戦場に於て目印となる旗印として用いられた。墓石を建て、家紋を刻むようになったのも江戸時代以降の事とされている。江戸時代にはキリシタン対策もあり、檀家制度が確立されていった。
三波川小柏氏の協力を得て、連絡先が分らなくなっていた小柏氏の現当主に話を聞く事が出来た。まず系譜にまつわる別記や古文書についての質問には今現在は残っていないとの事であった。
先代の当主・吉明氏が全て処分してしまったという事である。残されているのは現存の系図のみであるそうな。
御鉾神社に祀られていたとされ、川中島決戦の時にも使われて矢弾の跡が残っていた揚羽蝶紋の幕についても残っていないとのお答えだった。上日野小柏にあった建物を取り壊す時に全て焼却処分したとのことである。
最後の住人「逸」さんがなくなった時の事のようだ。其の際、葛篭があったという。どんな葛篭だったのか中に何が入っていたのかは今となっては灰に聞くしかないようだ。
また逸さんが三波川から帰って来て、小柏舘へ住む事になった経緯についてはご存知なかった。また小柏氏の墓地について私が江戸時代以前の墓碑がないようだが…とお訊ねすると古いものは壊れてしまったのではないかと言っておられた。
そして前は板の塔婆があったという。土葬であったとされるが正確なところはご存知ないようだった。現在は墓地の管理は地元で行なっているとの事で最近は現地に行ってないと話してくださった。
鹿島神宮の向かい側に墓地を移したのではないかと聞いた所、その話は知らないないとのお答えだった。
俗 名
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没 年
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法 名
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貞治六年銘宝篋印塔
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謹募衆縁造立貞治第六丁未霜月日謹記
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伝小柏庄司
1367
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重家建立の宝塔
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応永廿七年銘宝篋印塔
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逆修□阿庵□応永27年2月日
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1420
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伝 庄司重家墓所
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1600年代 5
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俗名不詳
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寛永18年5月23日 1651
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清雲芳永大姉
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重氏室 墓碑?
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俗名不詳
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延宝6年11月18日 1678
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松窓妙喜大姉
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小柏重高室
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貞享1年6月23日 1684
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妙高元志大姉
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小柏八郎左衛門重高
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貞享5年8月4日 1688
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一燈元照居士
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75歳
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小柏権兵衛吉重
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元禄5年10月14日 1692
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一桂宗貫居士
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1700年代 9
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小柏六郎右衛門 當重
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享保11年9月18日 1726
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一峯浄栄居士
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66歳
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俗名不詳中宿村須藤氏娘
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享保16年3月18日 1731
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尊昌妙徳尼大姉
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80歳 吉重室?
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小柏 當重室(嶋方氏)
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享保17年1月29日 1732
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安窓寿昌尼大姉
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66歳
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小柏八郎左衛門記重
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宝暦2年5月24日 1752
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一氣有象居士
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64歳
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小柏 幼名源六 17歳出家
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宝暦5年7月2日 1755
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一要玄峰上座
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60歳 當重三男
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俗名不詳
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宝暦7年10月? 1757
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華崇□□□□
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小柏記重 室と旡(小柴氏)
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明和1年12月10日 1764
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松岳玄寿大姉
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72歳
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小柏八郎左衛門 祝重
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寛政3年5月17日 1791
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一叟躰寿居士
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67歳
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俗名不詳
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寛政7年3月初3日 1795
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春暁栄心大姉
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1800年代 12
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小柏祝重室 茂與(小柴氏)
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文化1年3月9日 1804
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壹窓妙圓大姉
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75歳
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小柏るう?六郎右衛門(重
簡?)娘
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文化10年1月4日 1813
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孝顔王忠大姉
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19歳
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ふさ
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文政2年10月10日 1819
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祖室貞勇大姉
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小柏六郎右衛門重簡
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文政7年12月10日没1824
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一精密晋居士
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72歳
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俗名不詳
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文政8年7月20日 1825
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智□妙林童女ヵ
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小柏八郎左衛門重方
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天保3年3月19日 1832
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一法寿山居士
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69歳
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小柏重間室多美
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天保4年3月18日 1833
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白峯妙花大姉
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64歳
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小柏重方室於峯?
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天保13年8月28日 1842
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柏室妙操大姉
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73歳
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小柏八郎左衛門重基
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安政3年1月9日 1856
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一量道鼎居士
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55歳
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小柏角次
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慶応4年1月2日 1868
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春月了性孩兒
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1歳 重基子息
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小柏武之輔墓所
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明治7年1月16日 1874
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柏永道葉居士
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10歳 重基子息
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小柏倉太郎重義
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明治10年10月4日 1877
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勇猛院重賢忠義居士
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22歳
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満佐墓所 上記二人と合葬
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明治22年12月12日1899
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栢葉梅幻嬰児
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1歳 吉田保三娘
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市川保太郎
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明治32年10月23日1899
市川虎義登志子息 登志・志津合葬
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松山康秀孩子
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2歳
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1900年代 5
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小柏重基室以與(市川氏)
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明治34年4月9日 1901
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一心妙鼎大姉
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82歳
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市川登志墓所
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明治36年11月26日1903
重基娘市川虎義室 保太郎・志津母
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梅屋妙俊大姉
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23歳
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市川志津墓所
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明治36年11月26日1903
虎義・登志娘 登志・保太郎合葬
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静安禅童女
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3歳
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小柏八郎治重明
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大正11年5月8日 1922
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寿翁柏英居士
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80歳
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小柏重明室多勢(根岸氏)
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大正11年7月13日 1922
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寿室妙英大姉
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77歳
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小柏逸子墓所
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昭和23年頃 1948?
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俊室妙逸大姉
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飯塚時五郎室
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計
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31 基
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参考:藤岡市教育委員会の調査
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