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2007年9月16日 (日)

三波川の共同墓地と不動尊

  三波川妹ヶ谷の墓地はかなりの広さである。想像していたものよりもずっと広い。細い道に面しているところには庚申等や石仏・神様の石碑などが並んでいる。平坦で日当りの良い土地であり、その南側は里山に連なっている。

 畑や宅地に利用できる良い立地といえる。墓碑は古い物が沢山あり、歴史の宝庫のように思える。何時の日か学術調査が入る事が期待される。

 この中の小柏氏の墓地には、小幡家の女中の物と伝えられる墓碑があると聞いている。撮影しながら墓碑を端から丹念に見ていくが、その数は多くて際限がないために諦めて全体像の把握にとどめた。

 古い墓碑に刻まれた文字の多くは、判読不能の上に倒れている物、草や土に埋もれているものが多い事も理由の一つ….

 墓碑の形や大きさも様々で、その風化の状況もまたさまざまである。その佇む姿は歴史の証人・時代の移り変わりの展示館のようにも見えてくる。

 帰りかけた時だった。東側・左隣にあるストーンサークルのような、墓地のようなものが目に留まり気になって車を降りた。

 林の中に位置する楕円形の墓地がそこにあった。墓碑の多くは半ば土に埋もれて、今は顧みられていないようなその墓地には、何故か気になるものがあった。

 三波川の平滑?不動尊もきれいにお守りされている。その右側には小さなせせらぎが静かに流れている。

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2007年9月15日 (土)

時代の変遷による墓碑の形状

 

  五輪塔

 石造りの五輪塔は平安時代から造られるようになり、広く親しまれている。時代によって塔の高さが変わったり、やや形状が変わってきている。その五層の塔は上から「空」「風」「火」・「水」・「地」を顕わすとされる。

この五要素は人体を顕わす事にも繫がるという。

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無縫塔

      卵形をしているので俗に卵塔と呼ばれる。野球のバットを縦方向に縮小したような形である。鎌倉時代に中国から禅僧によって伝えられ、僧侶の墓碑として広く用いられた。

 多くは卵塔の下に蓮座を敷いている。江戸時代には大名も好んで用いるようになった。

  上日野小柏氏 1795  

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天引小柏氏 1791・1804

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  角石燈篭型

 上日野小柏重高墓碑 1688

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        天引小柏氏 1781

   

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角石型墓石

 江戸時代になり、現在の墓石に近い位牌形の物が多く作られるようになった。方形の板碑で、武士はこの上部に笠を置いた物を好んだ。一般では屋根付がよく用いられた。

  上日野小柏氏 1757 

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 天引小柏氏 1780

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                                   合掌

 ここでは代表的な物を挙げたが、両者の年代は近接していて形状も似ている。

                                        

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2007年9月14日 (金)

天引の小柏氏の墓所・墓碑

 

 墓碑は畑の西端で竹林の麓に横一列に並んでいる。この後ろの潅木の中にも二つ以上の墓碑があるが、細い潅木がびっしりと茂っていて足を踏み入れる事は出来ない。この一列に並んだ墓碑群と数メートルしか離れていない畑の仲にもう一つの墓地がある。

 この墓地には古い墓碑が四列に並んでいる。この最後列が最も古い墓碑なのか倒れている碑、割れて倒れている碑があるなどで一番荒れている。この中に長山清閑信士と理山玄性信士の墓碑がある。

両墓碑は共に屋根付位牌形であり、笠塔婆のようにも見える。この最後列の墓碑の前に「角型前置灯篭」が三基ほど置かれている。この灯篭は一見すると墓碑のようにも見えるが、碑文が刻されていないようなので供養塔・庚申塔として置かれたもののようである。

 灯篭と後ろの墓碑列の間隔が狭いのもこの事を窺わせる。灯篭の列とその前の墓碑列(後ろから二列目と三列目の間)との間隔は広く取ってある。

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 天引の小柏氏 墓碑

                      (太字は確定)

卒年齢

卒 年

名 前

墓所

墓碑形

(推定)

82 享保7

1723

小太郎父 頓證了覚大徳   

61 延亨3

1746

傳六 母 安窓貞心

87 寛延2

1749

前山覺庭信士        

1751

青銭童子  

1759

不秀童子

1764

慧淳童子

1767

智陽童子    

57 明和4

1767

傳六 妻  梅黄雨林       

95 安永7

1778

長山清閑信士 太良兵衛の父

後列 横の墓

屋根付

76 安永9

1780

理山玄性信士 太良兵衛

後列 横の墓

屋根付

76 天明

1781

徳翁忍光 八三良 父

向陽寺

灯篭

1781

涼薫童子

22

1781

貞倫智永

64 寛政3

1791

勘右衛門父権大僧都月潤浄心信士

向陽寺 

卵塔

61   8

1796

定室了禅 善治朗 母

後列 横の墓 

方形

72   8

1796

勘右衛門祖母丹丘妙仙 判読不能   

   天引?  

方形

57 文化1

1804

勇蔵養父 権大僧都喜山秀悦信士

後列 横の墓 

卵塔

61 文化2

1805

勘右衛門 母 月舩妙皎

天引

61 文政1

1818

勇蔵養母 清蓮知浄

22 文政5

1822

定吉 收林常然

天引

方形

61 天保1

1830

勘右衛門 妻  寒相貞温

天引

64 天保2

1831

勘右衛門 実参徹温

向陽寺 

卵塔

36 弘化3

1846

寅吉 妻 安室休穏

天引合葬

五輪塔

60 嘉永

1850

林次郎 陛岳良忠  (寅吉倅)

天引

方形

61 安政4

1857

覚室明圓  萬吉 母 (70代)

75 明治12

1880

寅吉 徳聲常圓 定吉祖父

天引?  

五輪塔

77      33

1891

定吉 養母むら 夏雲清涼

天引合葬

五輪塔

9

1905

常吉 徳翁常圓

天引

方形

計    大人 23人 童子 5人 (高祖父以前)

墓碑数

判明

不明(除童子)

 備考

天引

 13

  7

  6

後の潅木の中

2~□

  2~□

横の墓地

  6

  4

  2

最後列(除前列)

向陽寺

  3

  3

向陽寺 石仏

  2

  1

一体は庚申塔?

 26~□

 14

 11

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2007年9月11日 (火)

小柏氏の墓所について

 

 藤林伸治によると小柏家最後の番頭は、小沢弥五郎の四男・兵三であり同家の現地管理人(兼)墓守をしていたという。(昭和53年頃の事か)弥五郎は気楽流の使い手で秩父事件の参加者である。

事件後は行方不明であったが、時効が成立するのを待って帰郷して、破産していた家を再興したという。その間は木挽きの仲間に入り腕を磨いていたらしい。また石積みの名人、山田小太郎に弟子入りして石積み職人になった。

 自由党員でもあった弥五郎は、常次郎そっくりの切れ者とされる反面、ホラ吹きとの評もあったもよう。

 口伝として上日野に残っている村のしきたりは、次のようなものである。

男だけの念仏講(16日)

戒名に院号を付けない(八郎治も院号を付けていない)

土蔵を作らない(現在も土蔵はない)

獅子舞は草鞋をはかない隠れ獅子(室内用・長く隠された家抱村)

等である。(藤林伸治の取材メモ)

 小柏氏の墓所には貞治年間の宝印塔があるが、江戸時代以前の墓碑が見当たらない事を不思議に思っていた。江戸時代以前の約600年間の墓碑が見られないのである。

 中世は墓制がなかったのか水葬や土葬が行なわれていたという。墓碑や墓石についても一般庶民は禁止されていたともいう。この事から多くの人は、墓碑や墓石を建てる習慣がなかったのか、或いはこだわらなかったものか。今でも墓石の大きさや形状を、条例や施工規則で規制している都市がある。

 家紋は平安時代以降に使用されるようになり、主として武士が戦場に於て目印となる旗印として用いられた。墓石を建て、家紋を刻むようになったのも江戸時代以降の事とされている。江戸時代にはキリシタン対策もあり、檀家制度が確立されていった。

 三波川小柏氏の協力を得て、連絡先が分らなくなっていた小柏氏の現当主に話を聞く事が出来た。まず系譜にまつわる別記や古文書についての質問には今現在は残っていないとの事であった。

先代の当主・吉明氏が全て処分してしまったという事である。残されているのは現存の系図のみであるそうな。

御鉾神社に祀られていたとされ、川中島決戦の時にも使われて矢弾の跡が残っていた揚羽蝶紋の幕についても残っていないとのお答えだった。上日野小柏にあった建物を取り壊す時に全て焼却処分したとのことである。

最後の住人「逸」さんがなくなった時の事のようだ。其の際、葛篭があったという。どんな葛篭だったのか中に何が入っていたのかは今となっては灰に聞くしかないようだ。

また逸さんが三波川から帰って来て、小柏舘へ住む事になった経緯についてはご存知なかった。また小柏氏の墓地について私が江戸時代以前の墓碑がないようだがとお訊ねすると古いものは壊れてしまったのではないかと言っておられた。

そして前は板の塔婆があったという。土葬であったとされるが正確なところはご存知ないようだった。現在は墓地の管理は地元で行なっているとの事で最近は現地に行ってないと話してくださった。

鹿島神宮の向かい側に墓地を移したのではないかと聞いた所、その話は知らないないとのお答えだった。

俗 名

没 年

法 名

貞治六年銘宝篋印塔

謹募衆縁造立貞治第六丁未霜月日謹記         

伝小柏庄司

1367

重家建立の宝塔

応永廿七年銘宝篋印塔

逆修□阿庵□応永27年2月日

 1420

伝 庄司重家墓所

       1600年代 5

俗名不詳

寛永18年5月23日 1651

清雲芳永大姉 

重氏室 墓碑?

俗名不詳

延宝6年11月18日 1678

松窓妙喜大姉 

小柏重高室

貞享1年6月23日  1684

妙高元志大姉

小柏八郎左衛門重高

貞享5年8月4日   1688

一燈元照居士

75歳

小柏権兵衛吉重

元禄5年10月14日 1692

一桂宗貫居士

       1700年代 9

小柏六郎右衛門 當重

享保11年9月18日 1726

一峯浄栄居士

66歳

俗名不詳中宿村須藤氏娘

享保16年3月18日 1731

尊昌妙徳尼大姉 

80歳 吉重室?

小柏 當重室(嶋方氏)

享保17年1月29日 1732

安窓寿昌尼大姉

66歳

小柏八郎左衛門記重

宝暦2年5月24日  1752

一氣有象居士 

64歳

小柏 幼名源六 17歳出家

宝暦5年7月2日   1755

一要玄峰上座

60歳 當重三男

俗名不詳

宝暦7年10月?   1757

華崇□□□□ 

  

小柏記重 室と旡(小柴氏)

明和1年12月10日 1764

松岳玄寿大姉

72歳

小柏八郎左衛門 祝重

寛政3年5月17日  1791

一叟躰寿居士

67歳

俗名不詳

寛政7年3月初3日  1795

春暁栄心大姉 

       1800年代 12

小柏祝重室 茂與(小柴氏)

文化1年3月9日    1804

壹窓妙圓大姉

75歳

小柏るう?六郎右衛門(重

?)娘

文化10年1月4日  1813

孝顔王忠大姉 

19歳

ふさ 

文政2年10月10日 1819

祖室貞勇大姉

小柏六郎右衛門重簡

文政7年12月10日没1824

一精密晋居士

72歳

俗名不詳

文政8年7月20日  1825

智□妙林童女ヵ

小柏八郎左衛門重方

天保3年3月19日  1832

一法寿山居士

69歳

小柏重間室多美

天保4年3月18日  1833

白峯妙花大姉 

64歳

小柏重方室於峯?

天保13年8月28日 1842

柏室妙操大姉

73歳

小柏八郎左衛門重基

安政3年1月9日    1856

一量道鼎居士

55歳

小柏角次

慶応4年1月2日   1868

春月了性孩兒 

1歳 重基子息

小柏武之輔墓所

明治7年1月16日   1874

柏永道葉居士

10歳 重基子息

小柏倉太郎重義

明治10年10月4日 1877

勇猛院重賢忠義居士

22歳

満佐墓所 上記二人と合葬

明治22年12月12日1899

栢葉梅幻嬰児 

1歳 吉田保三娘

市川保太郎

明治32年10月23日1899

市川虎義登志子息 登志・志津合葬

松山康秀孩子

2歳

        1900年代 5

小柏重基室以與(市川氏)

明治34年4月9日  1901

一心妙鼎大姉 

82歳

市川登志墓所

明治36年11月26日1903

重基娘市川虎義室 保太郎・志津母

梅屋妙俊大姉 

23歳

市川志津墓所

明治36年11月26日1903

虎義・登志娘 登志・保太郎合葬

静安禅童女 

3歳

小柏八郎治重明

大正11年5月8日  1922

寿翁柏英居士

80歳

小柏重明室多勢(根岸氏)

大正11年7月13日 1922

寿室妙英大姉 

77歳

小柏逸子墓所

昭和23年頃     1948?

俊室妙逸大姉

飯塚時五郎室

   計

      31 基

                            参考:藤岡市教育委員会の調査

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