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2007年3月 3日 (土)

市川家の古文書

 市川家の古文書

「上野国郡村誌」によると、羽沢村、市川真英所蔵三通、砥沢村、市川真太郎所蔵八通の古文書(近世文書)が存するとして、次のように記載している。

    日向つふらこ之内十三貫文之処進置者也、仍而如件

                 天文十六年未二月廿三日 虎満 判

  市川右近助殿

    如前々知行津布羅子不可有別条者也

                 天文廿二年辛亥五月二日 貞清 判

  市川右近助殿

右二通係砥沢村市川真太郎所蔵、市川右近嘗属小幡氏、居砥沢村、食村中三拾貫文中所載日向津布羅子盖砥沢村地名、今村中有日向砥沢日影砥沢等之処

 武田氏文書

○今度内山辺移討手之処通路馳走之由本望候、於于自今以後者猶可被致忠信事、可為祝着候、謹言追而雖軽微候木綿遣候也

                   六月五日  晴信 判

  市川右近助殿

 右一書市川真太郎所蔵

 条目

一 番手之者主本城在陣之事

一 市川衆閣自余之山小屋新地在城之事

一 赤岩之橋場番不可有疎略事

                以上

  五月六日 南牧

 右真太郎真英並蔵之、第二条山小屋盖山上置戌之処、新地未詳、何所新城、

疑是三代記所謂信玄新置一城居小幡信定者乎、第三条赤岩橋場番今砥沢村有赤岩橋

虎満は上杉氏、貞清は村上氏と見られるものの不確かであるとしている。つふらこ・津布羅子とは未詳である。

コンニャクに関するものででもあろうか、或いは絹布のことを指すか。市川真太郎の先祖・右近助が小幡氏に属していた時に受け取った書状である。この真太郎は小柏八郎治の弟で、市川家に養子に入った真太郎であろう。

「郡村誌」は明治8年頃に編纂命令が出ており、数年かけて編纂した物と思われるが年代的にも一致している。砥沢村で市川真太郎という人物が、近い年代に二人居たとは考え難い。

三番目の古文書に押印してある晴信の判は、言わずもがなの武田信玄である。信玄は羽沢村の市川家(右馬助宛)にも殆ど同文の書状を送っている。これにより信玄が南牧の市川衆に眼目を置いていた様子が知れるのである。

砥沢村は信濃から甲斐へ行く街道の要衛にあたり、信玄がこの地を重視していた事が良く分る。

南牧は信越国境にあたり、田口峠を越えて信濃佐久へと繫がっている。西上野国への進入口として、真っ先に抑えておかなければならない戦略上の拠点であったのだ。信玄は赤岩橋の守りを固めて、油断するなと細かい指示まで出している。信玄は南牧に砦(城説あり)を築いて、国峰城を追われた小幡信真を入れて守らせてもいる。

小柏高政は信玄から佐久郡田ノ口を俸地として賜っており、従兄弟の高治は同地の代官を勤めている。これ等の事から小柏氏は上日野小柏の本貫地と田ノ口との間を何度か往復したと思われる。

したがって砥沢村・羽沢村は通り道となり、同地を差配していた市川氏との関係が生じたとみる事も出来る。共に小幡氏に属していたので旧知の間柄であり、戦場に於ても共に行動した事もあったかも知れない。

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コメント

はじめまして たまたま 市川家のことをしらべていましたら 

こちらにたどりつきました 

わたしは 四国出身の 市川です 先祖は 高知の

大浜(足摺岬の近くと聞いています)出身ですが

 もうそちらの血統 はあまりありません 

大浜で宮大工をやっていた 市川が先祖です

足摺の金剛福寺の以前の 多宝塔を建てたらしいです

いまは その建物もなくなりました 

先祖の墓は高知にあります 

そんなわけで 市川(わたしの)はどこから来たのか

興味があります なにか おもうところが ございましたら

情報などお教えください それでは 失礼いたします。

投稿: 市川 敬司 | 2008年9月22日 (月) 14時39分

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