小柏学校
小柏学校
「風梅年代記」によると重明は明治六年(1873)に戸長になっている。名主に替わる村長みたいなものだろう。同七年に小柏分校すとあるが、養命寺を仮校舎として小柏学校が設立されたのは明治九年である。
(多野藤岡地方誌では明治7年、養浩院に上日野学校が設立され、養命寺に小柏支校設立とある。)後に(同年のうちか)小柏八郎治宅に移る。
と記載している。明治十三年には学校の保護役を廃止し、学務委員を選挙とする事になり小柏八郎治が当選した。
「藤岡市史資料編・近世」によると、当時の就学生は二十八人、男十五人、女十三人であったという。十五年の項には十一月第十一回定期試験において受験生徒十七人、同時に小柏イツ初等小学を卒業す。とある。
このイツは「逸」であろう後に小柏舘の最後の住人となっている。十六年には、人民挙げて貧困に陥り日々の生活に苦しむ、幼年といえども家事に使用せざるを得ず、昇校を怠る者多くなり。就学生徒四十五人、内男二十五人女二十人。このような大意で学務委員の小柏八郎治が報告書を出している。
更に十七年には次の意見書を役所に提出している。
意見書
当校を維持するの計画は至難といわざるを得ず、何となれば本村の如きは山間の僻村にして、地勢狭長戸数僅少にして人民資産に乏しければなり。
然るに生徒は日進月歩するに随い費額相嵩むにもかかわらず、昨年以降世間非常の不景気にして金融塞塞物価低落のために士人家を破り産を傾く者往々これあり。これによりてこれを観るに目今一時に定額金を増加し維持の方法を計る。
よくば他日物価旧に復し聊か不景気を挽回するを待ち、然る後相当の金額を増加せば従いて学事隆盛を来たすべき也
明治十七年六月
多胡郡第十三学区日野村
小柏学校学務委員 小柏八郎治 印
重要なのは、大正八年4月に校舎を焼失し、養命寺を仮用、翌年正月再建する。という記録がある事だ。藤岡市教育委員会が、実施した小柏舘の発掘調査の時に出土した焼土層と附合するのである。してみると小柏屋敷が焼失したのはこの時か?時代が新しすぎるからそれ以前にも火災があったものか。
「宝積寺史」に収載の明治18年の上日野村「曹洞宗護法会姓名録」には、筆頭に小柏八郎次(治)の名前があり、以下58人の名前が記されている。
この中には、小柏喜伊三郎、小柏幸太郎の名前もある。この姓名録で目立つのは黒澤姓の人が多い事である。
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