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2007年3月31日 (土)

小柏学校

 小柏学校

「風梅年代記」によると重明は明治六年(1873)に戸長になっている。名主に替わる村長みたいなものだろう。同七年に小柏分校すとあるが、養命寺を仮校舎として小柏学校が設立されたのは明治九年である。

(多野藤岡地方誌では明治7年、養浩院に上日野学校が設立され、養命寺に小柏支校設立とある。)後に(同年のうちか)小柏八郎治宅に移る。

と記載している。明治十三年には学校の保護役を廃止し、学務委員を選挙とする事になり小柏八郎治が当選した。

「藤岡市史資料編・近世」によると、当時の就学生は二十八人、男十五人、女十三人であったという。十五年の項には十一月第十一回定期試験において受験生徒十七人、同時に小柏イツ初等小学を卒業す。とある。

このイツは「逸」であろう後に小柏舘の最後の住人となっている。十六年には、人民挙げて貧困に陥り日々の生活に苦しむ、幼年といえども家事に使用せざるを得ず、昇校を怠る者多くなり。就学生徒四十五人、内男二十五人女二十人。このような大意で学務委員の小柏八郎治が報告書を出している。

更に十七年には次の意見書を役所に提出している。

意見書

当校を維持するの計画は至難といわざるを得ず、何となれば本村の如きは山間の僻村にして、地勢狭長戸数僅少にして人民資産に乏しければなり。

 然るに生徒は日進月歩するに随い費額相嵩むにもかかわらず、昨年以降世間非常の不景気にして金融塞塞物価低落のために士人家を破り産を傾く者往々これあり。これによりてこれを観るに目今一時に定額金を増加し維持の方法を計る。

 よくば他日物価旧に復し聊か不景気を挽回するを待ち、然る後相当の金額を増加せば従いて学事隆盛を来たすべき也 

 明治十七年六月

           多胡郡第十三学区日野村

           小柏学校学務委員 小柏八郎治 印

重要なのは、大正八年4月に校舎を焼失し、養命寺を仮用、翌年正月再建する。という記録がある事だ。藤岡市教育委員会が、実施した小柏舘の発掘調査の時に出土した焼土層と附合するのである。してみると小柏屋敷が焼失したのはこの時か?時代が新しすぎるからそれ以前にも火災があったものか。

「宝積寺史」に収載の明治18年の上日野村「曹洞宗護法会姓名録」には、筆頭に小柏八郎次(治)の名前があり、以下58人の名前が記されている。

この中には、小柏喜伊三郎、小柏幸太郎の名前もある。この姓名録で目立つのは黒澤姓の人が多い事である。

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2007年3月30日 (金)

御鉾神社建立と祭祀 Ⅱ

御鉾神社建立と祭祀 Ⅱ 

御鉾神社は何時誰が建立したかは定かではない。鼠喰城を築城した重家ではなさそう。(時代が古すぎる)上杉家に仕えた顕高は剃髪して浄印入道を名のっており、これも違う。

小柏氏の長い歴史の中で恐らくは、最も権勢を誇ったであろう高政。だが高政は生島足島神社に起請文を奉納しているが、養命寺を建立しており御鉾神社をも建立したとは考えにくい。

定重・定政の頃は戦国時代で戦いに明け暮れていたと見られるほか、宝積寺との繋がりも深い。重高は仏法に傾倒し不動寺を建立、弟の吉重も同寺に帰依している。心証としてさほど古くはなさそうというのがあり、江戸末期の頃かと推測する。

小柏舘がなくなっている今、御鉾神社は失われているが、かっての舘・敷地の東端の北側に祠がある。

裏山の雑木林の下端に位置するその祠には、注連縄が張られて現在もお守りされている。この祠がかって隆盛を極めた御鉾神社の名残りではなかろうか。

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2007年3月29日 (木)

御鉾神社の建立と祭祀 Ⅰ

御鉾神社の建立と祭祀 Ⅰ

小柏舘の敷地内に同氏が建立した御鉾神社があった。同社の祭神は日本武尊で小柏氏が源平合戦以来使用した武具を祀る所という。宝物に次の物がある。

麻陣幕一張 五反幕に揚羽蝶紋を五箇記してある。幕には矢の当った跡が所々にある。これは川中島決戦にも使った物という。

槍9本 神輿一座 (群馬懸多野郡誌)

小柏氏が川中島の合戦にも参陣していたというのは、いまだ他の文献・古記録で確認出来ていない。何か他に古文書があったのか、或いは口碑・伝承があったものか今は判明せず。

御鉾神社は「ふるさと人ものがたり」によれば、当主が祭祀していた、その祭典には小柏・上平から獅子舞(16獅子)を奉納するしきたりが戦後まで続いていたという。

当時は伊勢講、御岳講などが盛んに信仰された。御鉾神社は御岳様の分社という。御岳講は木曾の御岳山を霊山として祀る御岳教で今もなお信仰されている。神道家が資格を与えられて布教に努めた。

藤岡市神田に御岳大神の碑があり(明治十五年建立)、立春に火渡り、四月に例祭を行ない三方荒神の幣束を配った。鬼石町雨降山には御岳大神を祭った。三波川の桜山の登り口にも御岳様を祭った。(多野藤岡地方誌)

御鉾神社は「多野藤岡地方誌・各説編」に、小柏氏の屋敷内であり祭神は日本武尊で、小柏氏が源平合戦以来使用した武具を祀るという。

御鉾教会については、小柏にあった神道神習教会であり小柏氏と消長を共にした。小柏氏が邸内に祭る御鉾神社と一体不離のもので、明治二十年五月三十一日設立許可になった。

大正末期には担任教師一名、信徒総代三名のもと三百四十一名(女八)の信徒を有していた。その後は小柏氏の衰退に伴って信者は激減の一途をたどり、昭和の初めになると、小柏家の老女のほかには信者は見られなかった。 

とある。

 上日野の人口は寛政十二年(1800)の宗門改帳に1,025人とあり、藤林伸治資料には、明治10年代の戸数は229戸(下日野は199戸)とある。229戸とすると一家で一人以上が参加していた事になる。

 女の参加者は殆どなく、子供は対象外であろうからかなり多い人数である。義務のような形で一戸あたり一人以上出したのであろうか。

下日野には日高野分教会があり、大正十二年天理教本部に認可され、担任教師が常駐した。当時の信者数は173人、内女30人だった。昭和期には信者数は31人となった

上日野には神社が多く、寺を別にして鹿島に鹿島神社、坂野に厳島神社、駒留に聖天社、黒石に諏訪社、上日野に野々宮神社などがある。これほど神社がある中で341人の信徒を擁するとはその権勢が窺われる。

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2007年3月27日 (火)

小柏舘最後の当主 八郎治 重明

小柏舘最後の当主

 八郎治 重明

小柏重基の跡を継いだのは長男重明である。重明は幼名を民之助といい後に八郎治と改めた。神習教(神道)の中教正を務めていた。大正十一年五月八日卒(1922)。法名を寿翁柏英居士という。重基の長女貞は三本木村浦部元之助に嫁いだ。二女嶋は日野岡本の小柴重太郎に嫁いだ。

三女才(重明の妹)は三本木村の浦部助太郎に嫁いだ。助太郎は浦部元之助(姉の夫)の舎弟で、豪商原善三郎の経営する横浜の生糸問屋に勤務した。この縁で重明と善三郎の共同事業・取引も始まったものと推測され、ここから重明のひいては小柏氏の悲劇が始まったと見られる。

 「才」の長女シマ子は高山村高山武十郎の後添えとなった。才の長男辰吉は幼くして父をなくし、原商店(生糸問屋「亀善」か)に勤務し後にアメリカに渡った。二女さとは金井村の高山菊次郎に嫁いだ。二男泰次郎は東京へ居を移した。才の三男英治は中浜光司と改め横浜に住んだ。(高山家蔵小柏系譜)

 この才以下のくだりは小柏家の系図には記載がない。高山長五郎が筆写した後で小柏家で記載事項を修正し、家系図を書き直したものか、或いは高山家では周知の事実であったので書き加えたものか。

両者の系譜の記載状況を子細に見比べると、必然的に後者となり論を待たない。一般に系図では、他家に嫁いだ女子についてはその子供たちまでは記載しない。「○○の室」までの記載で済ませる。系譜が膨大になり紙数が足りなくなるからであろう。

小柏重基の四女「代」は武州下奈良村正五位吉田市十郎宗載に嫁いだ。二男真太郎は下仁田砥沢村の市川市を相続した。重基の四男重義は幼名を倉太郎といい、明治九丙子年七月徴兵令により応募、入営し同十丁丑年三月、西南の役に従軍するため西京丸に乗り込み肥前国長崎港に着いた。

倉太郎(八郎治の弟)は東京鎮台の歩兵第三連隊に属し、小柏倉太郎重義一等ラッパ手として戦争に加わったが、明治十丁丑五月、熊本県下の内照角山の麓において、右前槫及び右胸より背部に貫通する敵弾を受けた。

大築村大包帯所より八代軍團支病院を経て、六月二十二日に長崎軍団病院に入り治療するも段々に衰弱し遂に十月四日死去する。(小柏系譜)

高山長五郎が筆写した(昭和10年)小柏系譜によれば、重明の妻は武州小平村根岸孫右衛門の娘とある。この頃、根岸家とは縁が深かったと見られる。

また同系譜によれば吉明の母は登江となっていて、武州下奈良村吉田嘉三郎に嫁ぎ、後に武州小平村根岸担二に嫁いだとあり、吉明は嘉三郎の息子とある。

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2007年3月25日 (日)

上日野の獅子舞

上日野の獅子舞

 上日野の獅子舞については「多野藤岡誌帳」に記事があり多くの頁を割いている。その由来は古く飛鳥時代に遡る。正倉院に大陸から伝来した獅子頭が九面伝わっているという。

 神聖なものとして宮廷や大寺院、神社などの行事に用いられ、後に地方の民俗芸能化し多くの流派が生まれたと推測している。多野・藤岡地方の獅子舞は稲荷流であり、同流の本家は秋畑村那須とされ、山を越えて上日野・三波川妹ヶ谷などに古くから伝わっていた。

 秋畑村那須に伝わる稲荷流の奥義を記した巻物「神代獅子由来」は日本の獅子舞の起源を書いたものとされ、那須、小柏、上平、妹ケ谷、神田に筆写本が伝わっている。

 このうち小柏本が最も首尾一貫しており、原本に近いと思われるとしている。小柏と上平は隣接していて、一緒に獅子舞を演じていたが、ある時不和となり小柏が巻物と太鼓、上平が獅子頭を取って分裂したという。

 同誌収載の「神代獅子由来」の冒頭部分の大意は次のようなものである。

 そもそも獅子の由来を尋ね奉るに 天竺の獅子国と申す国の主なり

孝徳天皇の御代の大化の元年乙巳八月十五日に獅子の頭と身体を日本へ移し取り

国土の泰平のために獅子を神社の祭礼に仕え奉り候条

 1 天つ神二神が海の中を矛を以って探るに、矛に触るは何者とお尋ねあり

   地主の日吉権現が葦と答う よって葦原の国と申すなり

 1 イザナギの尊・イザナミの尊は出雲の国の大社のスサノオノ尊の父母なり

   この神に一女三男あり、伊勢大神宮 日の神・月の神・西の海の宮の蛭子三郎殿なり

 1 スサノオノ尊がこの国を取らんとて、大和の宇多野に一千の剣を掘り立て城郭

   をかまいたもう 天照大神は一千の剣を蹴破り捨てたまう 之により千剣破

   (ちはやぶる)る神ともうすなり

 1 八咫の鏡は天照大神の御霊なり 今の伊勢内宮の神体なり 

   よって鏡は尺八寸なり

 1 住吉大明神がいる国を平らげ候時 御衣装あこめ袷を筑前国極井ノ浜にぬぐすてたまう 即ち石となり その後は社なり

 1 稲荷大明神は山城国紀伊郡に明神あり 和銅年中に「始めて稲荷山に鎮座なる一説に弘法大師が東寺の門前にて」稲を荷なえる老翁に逢えるをもって

   大師が東寺の鎮守とす 十二月に配当する 別に律する所は七月に当るなり

   七月の霊なり

 1 稲含大明神は天竺より稲を含み取る 即ち稲の神なり

 1 崑崙山に崑崙国という国有り 南の海の諸州の拾余国の中の傍遊羅国という国の東にあたるなり

 1 補陀落山は布咺落迦山にあり、天竺の観自在菩薩の遊舎する所なり

 1 天竺の霊鷲山はこの山の形が鷲に似れば名付く 即ち釈迦如来の説法の所なり

 1 天竺の獅子は天竺一の獣なり

 1 大唐の竜は唐一の獣なり

 1 日本の狐は日本一の獣なり

 1 日本の葦原国は鬼の国なり 神の力・仏の力が之有りて天下泰平なり

   よって狐の老翁は天竺の獅子の形を写して、獅子鳳神として祭礼を企て候

 1 神社の祭礼の始めは田の百姓からと言えり 泥を掻くに似るを神前の祭礼の

   始めとするなり

 1 天竺の遊羅国の菩薩並びに布咺落迦山にある観自在菩薩なり

 1 天竺の霊鷲山の釈迦如来と右の菩薩並びに如来ご免の獅子鳳神の祭礼なり

   笛は天下泰平 豊葦原の水穂とお救い息学は 但し口伝之あり

   以下略

 

以下は笛の吹き方、歌の歌詞などになり、陰と陽の戦い、夏と秋の戦い、女獅子・男獅子のめぐり会い、歴代天皇名、在位年数などが出てくる長い物語となっている。

 獅子舞は如来と菩薩の免許としている他、日本の起源にまで言及している。イザナギノ尊・イザナミノ尊と同時代に日吉権現が居たとあり、日吉権現が居た国を占領し葦原国と名づけた事を示唆している。

また住吉大明神の住む(治める)国を征服したとしている。日本書紀・古事記とは一味違った記述であり、近世の成立とはいえ興味の持てるところでもあるので紹介した。

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2007年3月24日 (土)

小柏常次郎

小柏常次郎

年代記に現れる箕輪・ミノハは鹿島、或いは岡本から三波川方面に向って山を登った所にある小さな集落である。箕輪には秩父事件と関わりを持ち、その名を馳せた小柏常次郎が住んでいた。

常次郎は信州の生まれであるが、三波川の豪農、小柏菊次郎の世話で箕輪の小柏家の養子となり、桑栽培・養蚕などで近隣の人の世話も積極的にしていたという。畑や山林もかなりの規模で所有しており、妻にしたのはかの女闘士とも言われる自由党員「ダイ」(なか)である。

常次郎が養子となったのは箕輪小柏家の総本家小柏伊勢二郎である。親戚であった三波川の菊次郎が絶家となるのを惜しんで、見込んでいた常次郎を養子に迎えさせた。(「秩父事件の女活動家」大沼田鶴子)

また常次郎は剣の達人でもあったという。北海道のエピソードでは川の流れを算盤で斬ったという。おそらく早業により、水の流れが一瞬二つに割れたのだろう。養女にも剣技・薙刀を教え、養女は剣道上級者4・5段の男性と試合しても負けなかったという。

常次郎は北海道でも自作の神社を建てて、土地の人の相談役・世話役を自認していたがやがて樺太に渡りその地で生涯を閉じた。

秩父事件も当時は政府やマスコミにより反逆・大罪であると喧伝され、加担した者たちは犯罪人として厳しい刑を受けた。

このため当時の世相・世論も加担した人たちを冷たい目で見ていた。二十数人もの人がこの事件に参加した上日野地区でも、秩父事件の事を口にするのは憚られるような風潮があった模様である。

(藤岡市史では上・下日野村で44人参加。)

なんとなく肩身が狭かったのであろう。しかし近年に至り秩父事件の研究も進み、色々な事が明らかとなり、見直されるようになってきた。一部に事件の参加者を闘士・英雄に見立てる人もあるようだ。

困民党はまず高利貸し(10ヶ月で元金の2.6倍にもなったという)の打倒を念頭に置いたとされ、近代史上の大衆運動・自由民権運動の一環であった側面をも有していた、と見なされるようになってきている。

最近では常次郎が移住した北海道や地元の秩父界隈に於いて、秩父事件百周年の記念講演などが行なわれている。これ以前に釈放された常次郎は北海道で講師として招かれ講演も行なっている。地元に貢献していた所以であろう。

常次郎は小柏村・箕輪で金策の相談にのったり、多くの者を自宅に止宿させるなど世話役となっていた。こうした事から藤林伸治は、常次郎の人となりが分ってきて、これまでのやたらに人を煽動して騒動を引き起こした張本人という見かたは変ってくるだろうと言っている。

風梅が俳句を当地に広めた影響であろうか、上日野の人たちによって「芭蕉塚」が建立されている。

明治五年に芭蕉の故地、伊賀上野を訪れ墓参を行い、金二円を寄進して墓土を受け俳塚の形をとった。昭和50年に県道沿いから養浩院に移された。筆は枯れて配字もよく筆勢は雄健という。

彫刻の技術もすぐれ、仕上げの丁寧な事は類例が少ない。高さは二百七十三cm。下日野駒留にも同好者八十人が建てた芭蕉碑がある。

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2007年3月23日 (金)

 好文堂風梅

好文堂風梅

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 「年代記」とタイトルにある通り日記ではなく一年の記事をほぼ一行にまとめてある年代記である。気持ちが後に引きずられるような大事件でもさらっと簡潔にまとめている。

何の感慨も持たず事実だけを述べているようにも見受けられる。安永元年(1772)から明治十七(1884)年までの記録である。

風梅は自身の記録によれば文化十年(1815)の出生であり、没年は明治十七年、七十二歳とされている。

 風梅が生まれる前の記録が43年分もある事から、何らかの古記録がありそれを元に書き足して「風梅年代記」をなしたと思われる。

 「風梅年代記(上日野年代記)について」(塚越篤江、群馬歴史散歩90号)によれば、風梅は学者であったという。

以前は田本に住んでいたと思われる節があるが、同誌によると細谷戸に住んでいたようだ。(晩年になり戻ったのか?)

 風梅年代記は風梅翁の蔵書、「和漢年契」(安政版)の巻尾に綴じ込まれていたという。上日野馬渡戸の高桑市蔵家に保存されていた、原本を郷土史家の松田毛鶴氏が借りて写本を作り、この写本から更に清水丈夫氏が写本を作ったという。

 「風梅年代記」の冒頭には、「如何なる事あろうともこの書物破るべからず、最も大切に後世の参考として保存すべし」とあったという。

 更に「亦貸しは奈良の都の八重桜今日ここで見ておいてくだされ」と唄が添えられていたという。

酒屋、宿屋を営む傍ら手習いの師匠として、多くの弟子を育て中風を病み死去したとしている。辞世の句に「世の中に毒ほどうまきものはなし」があるという。私などは若輩にてまだこの翁の心境は分らない。

 天保六年の意味不明の「おかばみ」の記事は、「おはばみ(うわばみ)」として紹介している。うわばみなら大蛇の意になろうが、上日野にニシキヘビがいたとも思えぬ。

 いずれにしても貴重な記録であり、百年以上に渡る庶民の暮らしなどが良く分る。他の古文書・文献と照合すれば裏づけ史料としても使えるのではないか。

明治以降は、実際に風梅が見聞したであろう事件など、より詳しい記録となっている。

印象に残る記事としては、養浩院を大切にしている事、浅間山噴火の被害があった事、物価高騰により葛の根を食した事、飢饉により餓死者が出た事、時々洪水があった事、名主交代の記録、

ひでりにより御荷鉾山に登り雨乞いをした事、(同山には今も祭祀の跡が良く残っているという)農兵の徴兵と実際の戦い、芝居が好まれていた事などがある。

また小柏祭組が二つに分かれた事、これにより伝統ある獅子舞も、獅子頭と秘伝書が二つの村に分かれてしまい、更には獅子舞の行事自体が休止になってしまっている事は残念である。

 明治維新については「徳川氏亡ぶ」とだけ記されているのは、極めて意外というかあっさりし過ぎているようだ。上日野の村落までは大した影響が無かったという事なのだろうか。

 巻末の「筆用者」リストは筆の達人・転じて知識人とでもいうべきものだろうか。

「寺子屋」や手習いの]師匠をやっていたと思われる。

酒店のリストがなぜ作られているのか、その意図は分らないが幕末や明治に酒店が多くなっている。

名主の息子である八郎治までが酒店をやっている。誰が作ったものやら美人リストまでが添えられている。風梅は文化の生れであるから、少なくとも文化の年代の美人リストは風梅の手によるものではない。粋人であった事から、老翁などから聞き取り取材でもしたのかも知れない。

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2007年3月22日 (木)

風梅 美人リスト

風梅年代記 7

 上日野美人リスト

 上日野筆用者

天明  小柏六郎 小柏伊之助 酒井与惣左衛門 小柏房衛門 

寛政  小柏卯善二 小暮常八 小柴兵右衛門 斉藤武右衛門 松田秀右衛門

文化  小柏助在衛門 井田富右衛門 矢掛端伝坊 

文政  戸川皆二郎 小柴与三郎 小暮善之助 小暮勘二郎 小暮友吉 新井甚八

天保  千手印 小柏才三郎 片山郡蔵 新井七蔵 最乗院 小柏五市

弘化  宮沢風梅 小柏新左衛門 戸川丑太郎 小暮久三郎 新井喜善二

嘉永  小柴重太郎 山田倉吉 堀越市五郎 片山郡蔵 新井友吉 小柏一甫

明治  福田伝十郎 清水竜三郎 斉藤清三郎 堀越慶二郎 清水勝太郎

 上日野酒店

天明 細谷戸伊右衛門 田本繁様

寛政 小柏弥右衛門 田本半左衛門 田本文治 田本倉吉 鹿島兼五郎

文化 細谷戸富八 細谷戸常五郎 鹿島三之助 馬渡戸八十八 田本政蔵 田本三八祖母

文政 細谷戸多茂八 田本代吉 田本繁八 田本おかよ 坂野国蔵 

天保 鹿島おかつ 鹿島高八 小平繁太郎 峯熊五郎 田本勘兵衛 中上主馬吉

   中上藤兵衛 坂野伊右衛門 日向幸二 

弘化 小柏兼吉 田本わたや太平 坂野長之助後家 

嘉永 番場鯉屋 田本新井屋 岡本才吉 下府飯塚 小柏倉吉 田本かめや

   矢掛万太郎 鹿島藤吉 小柏八十八 坂野角蔵 

明治 田本年太郎 田本喜善治 細谷戸風梅 坂野おこと ミノハ泰吉 井田万蔵

   矢島喜三郎 田本藤四郎 小柏佐五郎 坂野おゆき 鹿島八五郎 

小柏八郎治 福田種蔵 小柏利平

駒留上り別品美玉

文化  田本おとよ 芝平おなか 

文正  岡本おふさ 小川おたみ 釜ノ沢おもと 釜ノ沢おうめ

天保  小柏おとせ 小柏おきた 岡本おくま 田本おふで 岡本おすま

    駒留四王天

天保末 鹿島おたか 小柏おなか 駒留おとく ミノハおこと

    マカブおふじ 駒留おきぬ

弘化  釜ノ沢おせい お寺おこう 

安政  細谷戸おいと 細谷戸おふみ 田本おそは 田本おるい

明治  坂野おさと 田本おとり

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2007年3月20日 (火)

明治時代 金札・学校 小柏戸長

 明治時代 金札・学校 小柏戸長

 明治元辰

徳川氏亡ぶ 諸国強談質家品物只出す 又十月残なく返す 利吉宅に押入る 田本万三郎火、井田馬場土蔵の作り売りをなす

 同二巳

奈良山名主退役、岡本名主となる 金札始めて通用す 信士法名居士となる 穀高値、南京米安値あり

 同三午

二分金通用止る 旧役人を廃止す 風梅太々伊勢納む、田本芝居、芭蕉塚立つ 法正塚定橋落る 小柏九人百姓になる

 同四未

鹿島大芝居、岡本梅二鹿島の川で死す、岡本曾市屠さる 農兵不残免職 井田馬蔵薬師を立てる 小幡山花見あり

 同五申

吉井陣屋畑となる 富岡製紙始まる 平井三島大神村社と定る

 同六酉

去年より地券改、岡本副区長、小柏戸長となる 一月より太陽暦となす 日の丸旗立つ。冬岡本火

 同七戌

千万吉坂野に屠さる 春学校開く 十月小柏分校す 秋岡本大芝居、三十六人大損す、市五郎立会人となり森三郎家を売る

 同八亥

金井新道開く 岡本小柴家を建つ 天朝より学校へ金を給ふ 柳三郎立会人となり室静厳住職となる

 同九子

一月大雪五寸降る 去年より酒店官許となる 小柏村中百姓となる 三村合併願不叶 旧役人不残廃止 三月投票なし 戸長小川 副戸長福田・喜月両人地租改正を始む

 同十丑

風梅去る秋より中症病、下日野村芝地論、春地位等定む、春諸供養塔合併す

 同十一寅

小柴連三郎、小暮峯吉家新築、春畑収穫帳なる 神風護免許下る 小柏天狗加持流行、鹿島大神(神宮)村社に定む 藤岡に郡長置く 大小区戸長廃止す

 同十二卯

藤岡に区役所を置く 戸長堀越市五郎 用掛新井喜善治、養浩院に仮役場を置く 春山林地租をなす 南甘楽より大量人を雇ふ 秋村会を置く 坂野甚三郎屠服不死

 同十三辰

春辺見杢太郎家新築、夏村史廃止す 又投票戸長堀越市五郎

 同十四巳

この秋下田本川岸に村内製紙場器械を設く 福田種蔵酒店を藤岡長屋を借り開店す 鹿島祭日に大煙火、その日雨風寒し、商人不印なり

 同十五午

旧冬より器械生糸大下り 商人中大不印又博打刈込みにつき福政大観風梅宅六十日舎る 本年は十一年ぶりにて旧来を用ひ、十六年末の二月八日の夜より雪降り出し九日を以て元日とし その雪深く三尺余なり

 同十七申

八月榛名坂道長さ百間、幅五十間崩れ、川瀬深さ五丈余となる

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2007年3月19日 (月)

小柏氏秩父山にて金を掘る

 

 

 風梅年代記 5

 寛永元申

大仏村永明寺、養浩院の住持と定む 坂野乙右衛門の祖母、狢と交合す

 同二酉

細谷戸に百庚申建つ 戸川丑太郎、藤岡の絹市を止む

 同三戌

小柏氏秩父山にて金を掘る、大損す 細谷戸、矢掛村論にて分る 鹿島友吉天狗と剣術を遣ふ

 同四亥

風梅外五人、博打の科にて入牢す

 同五子

番場川原丑松鯉池を拵へ酒店をなす 鹿島卯市、天狗の乗気となる

 同六丑

風梅、田本万三郎の店を借りて酒店を出す、夏ひでり、御荷鉾山へ雨乞上る

西嶺に不動立つ

 安政元寅

地頭より人馬言付く 日野にて五十人江戸詰る 越中島のかためをなす 悦道和尚、養浩院に入り、おこうと申す美女も連れ込む

 同二卯

万三郎、風梅、駒蔵 田本にて操興行す 地頭より科めを蒙る 小柏より桧大木、川流多金たたく

 同三辰

小柏名主死す 村役人にて 名主預り、戸川久蔵鏑川にて水死す

 同四巳

奈良山新左衛門、田本万三郎年番名主 片山郡藏組頭となる 小幡山大猪狩

 同五午

井田不二太郎、養浩院大門に横死、ノウ千代さん唄流行 七兵衛と申す者田本にて常磐津師範す

 同六未

大水、鯉屋流る 平仁田大ぐえ、所々川荒検分あり 妹ヶ谷と栗拾論に及ぶ 藤八ケン流行

 万延元申

細谷戸天神組を村中と定む コロリ風行人死す 吉井殿様養浩院旅館

 文久元酉

名主万三郎死す 奈良山一人名主となる 臨川院出張所立つ 源三郎茶製造を始む

 同二戌

田本芝居 友信玄 悪徒者を亀屋にてしばる、小柏祭組二つに分かつ 田本亀屋へ押込み入る

 同三亥

博打騒動四十人に及ぶ 過料七十貫奈良山へ納む

 元治元子

吉井より農兵三十人日野村被仰付、下仁田軍あり 農兵並百姓不残吉井へ詰る 片山氏火

 慶応元丑

村々番所を立て昼夜番人出る、八日市端巌寺を養浩院となす

 同二寅

風梅田本去る、天徳に亀屋新築、岡本名主見習いとなる、御荷鉾道普請 フギリに御小屋新築す

 同三卯

井田馬蔵、天徳に寄火花を成し大損す 吉井農兵三国峠に戦ふ 小柏村源吉病犬を伐る

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2007年3月18日 (日)

大飢饉で飢死にす

 大飢饉で飢死にす

風梅年代記 4

 天保元寅

岡本名主退役、田本常吉ケッショ、名主組頭も預り御荷鉾山論相済

同二卯

細谷戸、七郎右衛門名主と定る 風梅江戸へ逃げ酒井の屋敷へ足軽となす

同三辰

臨渓和尚を以て養浩院住持と定む 田本常吉空家へ化物夜な夜な出て左(だけ)の足跡付あり

 同四巳

二月初午大宮へ日野三村祭りを出す かまやせぬの唄流行る

 同五午

養浩院立替普請始まる

 同六未

松葉村弥十郎といふ男、おかばみに出会ふ、驚きて一月を過ぎず死ぬ

 同七申

大飢饉穀物高値、飢死にす、地頭より籾老人に付四升宛下さる、小柴七郎宅にて之を渡す 舛取風梅

 同八酉

去年より家々葛を掘る 麦壱駄三両なり、米百文二合五勺買出し更になし

 同九亥

小柏に達磨岩流行、万五郎のりきと成る 小柴与三郎木屋をなす 代人木曾の木右衛門

 同十亥

風梅始めて俳諧の会を企てる 田本森に額納む 小柴与三郎蚕種屋となる 風梅代人に出る

 同十一子

杉原八左衛門家を売る 本年博打騒動、吉井より出役 人を多くたたく 作右衛門弥惣渕を干す

 同十二丑

亥年より三年間、風梅御年貢勘定なす 賃金三両と定む

 同十三寅

細谷戸七郎右衛門退役 小柏八郎右衛門名主となる 全阿和尚死す

 同十四卯

杉田豊八弥々屋敷を建つ メクリの定宿をなす 塩平冨屋退転 又山六店を開く

 弘化元辰

下日野小柴吉右衛門名主となる 臨渓和尚富岡へ隠居、月払いの金を貸す

 同二巳

養浩院無住寺世話人持となる 芝平新道となる 細谷戸大神楽始まる

 同三午

細谷戸より三波川不動へ新米奉納、又手桶をなす 小柏重好といふ歌人となる

同四未

細谷戸にて一の谷の芝居を習ふ、不出来

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2007年3月17日 (土)

気楽流柔術

 

風梅年代記 3

 文政元寅

坂野、円蔵酒店を出す大藤場并天流行る

 同二卯

細谷戸、天徳川原に新田を開く 大塚村、臥竜斉気楽庵の柔術を弘む  

 同三辰

(田)政蔵酒造を始む 又地蔵佐養を施す 箕輪神道御荷山を開く為、白河役人来る 助左衛門之を防ぐ

 同四巳

田本に大神楽始まる 乙右衛門曲の名人なり、小次郎跡冠不向  (獅子舞か)

 同五午

()政蔵、細谷戸天神祭に人形を奉納す 御改革厳敷、絹縮緬の掛切并半襟袖口を止む

 同六未

田本、馬渡戸両村より天神祭練り奉納す 角太郎、熊吉猿まはしの名人なり

 同七申

私(秋か)洪水、所々川荒れ小柴氏表門崩る

 同八戌

岡本助左衛門の計にて御荷鉾山を吉井宿俵屋清兵衛へ百両で売る (御鉾山騒動)

 同九戌

御荷鉾山一件に付、日野三村大会合、大宮にて連判、江戸へ出訴、総代金井作右衛門、下日野午之助、上日野常吉

 同十亥

八木良助、松田雪七、気楽流の目代となる、細谷戸上ノ山ノ庭に大芝居あり、松田豊八家を建つ

 同十一子

御荷鉾山論につき日野三ヶ村江戸へ不残御門訴、風梅田本乙右衛門の弟子となり桶屋を習ふ

 同十二丑

梵悦和尚出走

   

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2007年3月16日 (金)

 おたか夫の男根を切る

 

風梅年代記 2

 寛政元酉

さんご節といふ唄流行る

 同二戌

秋大洪水、所々川荒れ見分を請く 鹿島大ぐえ、酒井与惣左衛門の家くえつぶる

 同三戌

板谷戸、定衛門退転する

 同四子

平仁田の大道を釜の沢へ廻す

 同五丑

小柏に病犬流行、人を多く喰ふ

 同六寅

下鹿島、兼五郎酒店を開く

 同七卯

矢掛にて太郎といふ男、見世物を出す、三十五歳にて二尺一寸の丈

 同八辰

鹿島に人形始まる 一人へ三人がかりにて大芝居あり

 同九巳

細谷戸薬師堂にて真心という僧侶、金春流の古謡を教ふ

 同十午

全阿和尚、養浩院住持となる

 同十一未

小柏房右衛門退転す 小柏奥ノ反吉田氏百姓となる

 同十二申

庚申塚村々に立つ 大厄病流行 村々百万遍の数珠を拵ふ

 享和元酉

全阿信州より願王和尚請待 百日の大結制を行ふ

 同二戌

養浩院に釣鐘を鋳る

 同三亥

養浩院大門に大きなる石地蔵建つ

 文化元子

鹿島斉藤武右衛門、医師をなす、小柏に日野出山谷八と申す角力あり三段目になる

 同二丑

鹿島忠作といふ者、女房を屠す

 同三寅

鹿島大火、人形焚く、奈良山新左衛門千本杉形と狂歌人となる

 同四卯

小柏六郎右衛門隠居、小柏郎吉六郎右衛門と改め名主となる

 同五辰

秋田村(秋畑村か)にて九之助といふ者を殺し奈良山の地獄谷へ捨つ、大騒動となる

 同六巳細谷戸、松田秀右衛門宅碁将棋の会をなす、大人数集まる

 同七午

箕輪小柏伝益、医師となる、塩平に冨屋藤八酒造を始む

同八未

矢掛の寺に木々庵と申す俳諧者住む 岡本熊太郎、箕輪山に大熊をうつ

 同九申

小柏名主退役、岡本熊太郎、助左衛門と改め名主役仰付けらる

 同十酉

風梅生る よしこのといふ唄流行、田本の滝の沢、小柴兵右衛門、大橋流の書を教ふ

 同十一戌

細谷戸、飯塚常五郎天徳清水井の上に酒店を出す

 同十二子

細谷戸、富八酒造を始む、梵悦和尚を以て養浩院住持となす

 同十三子

田本、髪結大騒動、火方役人高村出役有り、地頭役人広瀬小右衛門之を鎮む

 同十四丑

上日野村髪結所を禁止す 日野坊女房おたか夫の男根を切る

                                                  (山伏の家)

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2007年3月15日 (木)

 風梅年代記 1

 

 

 風梅年代記 1

 上日野に号を風梅という俳人・粋人がいた。元の姓は小柏であるが後に宮沢姓に転じ弁蔵とした。その批評を受けるところは佳作が多いとされている。「多野藤岡地方誌・各説編」には幼時より学を好み、特に俳諧にすぐれ、好文堂風梅、野雲亭、青柳舎と号したとある。

 藤林伸治資料の中にある風梅の子孫という宮沢滋の書簡には、風梅は小柏氏から分家していて、祖父が第十四代と称していたという。風梅が残したものに「風梅年代記」がある。また上日野年代記と呼ぶ人もいる。

上日野の出来事を112年間に渡って綴ったもので貴重な民俗資料である。伝説的な面白い記事もあるので「藤岡市史資料編・近世」収載のものを次に掲載する。

 安永元年辰  

下日野掘込惣右衛門吉井(藩か)の用達となる、十月千両開きをなす

 同二巳

箕輪小柏市郎左衛門生まれながらにしてだみ(荼毘)をなす、観音堂に入り念仏者となる

 同三午

小柴利右衛門の指図により江戸屋敷(吉井藩か)へ始めて蕨を貢、御荷鉾山運上永十八貫十八文と定む

 同四未

絹運上大騒動、日野金井高山氏つぶす

 同五申

日野坊藏宝院山伏の位を請く、日野村々祈願所始まる

 同六酉

江戸へ紫蕨を納む

 同七戌

以三和尚を以って養浩院住持となす

 同八亥

細谷戸の堂へむじなの化物出て夜な夜な踊る

 同九子

細谷戸米吉と申す座頭コウトウに任ず、十一月妙音講を行ふ

 天明元丑

潮来節始めて流行す

 同二寅

細谷戸伴藏、馬盗人の科にてはりつけにかかる

 同三卯

七月九日浅間山焼砂降る、細谷戸平六寸余といふ

 同四辰

穀物大高価、人飢死す、野老葛根掘り尽くす

 同五巳

細谷戸磯右衛門、猪にかけられきずを請く

 同六午

弥惣渕河原に火の柱、夜な夜な見ゆ

 同七未

細谷戸小柴氏、火事あり

 同八申

細谷戸小柴氏、車の元へ家を建つ、小此木彦市退転す

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2007年3月13日 (火)

 重基 秩父で金の採掘を試みる

 

重基 秩父で金の採掘を試みる

小柏重方の跡を継いだのは二男の重基である。重基は後に八郎左衛門と改めている。重方の長女は市川帯刀真直に嫁ぎ、法名は春生院松厳妙智大姉である。文政七申年正月卒。二女は早世。長男徳明は法体となり武州今井村長興寺に住いす。重方の三男方義は幼名を泰吉といい二十三歳で没した。法名を一天総梅居士という。

四男治平は前原村の松下氏を継承した。

「風梅年代記」によると重基は天保十三年(1812)に名主になっている。嘉永三年(1850)には、秩父山にて金の採掘を試みて失敗しかなりの散財をしたという。安政三年(1856)に没している。この後の名主には奈良山小柏新左衛門が名主になっている。

 奈良山小柏家の世襲名は新左衛門である。三波川では飯塚家が代々の名主を勤めていたが、上日野地区ではいつの頃からなのかは不明だが、年番制も導入されたようである。

上日野村、下日野村、金井村の三ケ村で代々名主を勤めた役人家(名主家ともいう)は、上日野村は小柏・小柴(細谷戸)下日野村は黒沢(駒留)・柴崎(印地)、金井村の高山の五氏である。

 名主・組頭・年寄の役を交代で勤めていた。他に組頭家という組頭のみを交代で勤めた家があった。これらの家はいずれも旧家で先祖は帰農武士である。(多野藤岡地方誌・各説編)

 黒沢氏は奥州安倍貞任の子孫という。姓を黒沢と改め鎌倉時代には既に上日野に住んでおり、戦国時代には上杉氏に属し、平井落城後は小幡氏に従い黒沢玄蕃允・源三(後出雲守)父子は小幡氏より感状を数通受けた。(同家系図)

 聖天社は同家の屋敷神である。源三は先祖代々の墓地に阿弥陀堂を建てた。(多野藤岡地方誌・各説編)駒留城は同氏の築城とされている。

 日野七騎の一騎、黒沢氏は戦国期には同地の小柏氏とほぼ一緒の軌跡を残している。

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2007年3月12日 (月)

御鉾山騒動 Ⅱ

 御鉾山騒動 Ⅱ

小暮市右衛門が死亡してから10ヵ月後、農民たちは更なる行動にうってでた。上・下日野村は元禄までは天領であったが以降吉井藩領となった。村役人は小柏家など日野七騎と呼ばれる旧家が代々勤めていた。

宝暦七年(1757)両村の百姓代表は、何度も村役人の不正を追及する訴状を吉井藩に提出していた。しかし村役人と藩役人の間に馴れ合いがあり、一向に取り上げて貰えなかった。

かえって藩役人から横暴な仕打ちを受けた為、ついに幕府へ訴え出た。訴状に記された内容は概ね次のようなものであった。日野村は寛永五年に検地帳を焼失して以来、年貢は毎年永銭で納めていた。村役人の不正で費用がかさむので、惣百姓は反別による持高に見合った年貢上納を願い出た。

村役人は身勝手で年貢以外の税を余分に取り、入用銭として納めていたが、受け取りも出さないので、納得いかない税金は納めない事にした。宝暦二年に「脇差帯刀禁止令」が出され村全体がさびれて困っている。

村所持の切開畑が幾つかあり、それに見合う年貢を納めたいと村役人に訴えたが、取り上げてくれない。

御荷鉾山は天領で入会山として薪を取り炭を焚き出してきた。ところが山元(小柏家)が山の木を伐り出し、山は荒れ果ててしまった。村役人と山元が馴れ合って不正があるが、村役人は取り上げてくれない。

 村民は御荷鉾山で芝秣を取り下日野村はそこで干していた。ところがこの地は山元で名主の小柏家の保有地であった。そこでその川原は入会地同様なので、小柏家にかけ合ってくれないかと村役人に相談したが取りあってくれない。

以上の事どもを農民は藩役人の代官へ訴えたが、村役人への取調べはせず訴人や

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2007年3月11日 (日)

御荷鉾山騒動 Ⅰ

 

御荷鉾山騒動 Ⅰ

小柏重方の代にも大事件が起こっている。御荷鉾山の騒動の一件が持ち上がったのである。「多野藤岡地方誌・各説編」に事件の要約が以下の如く載っている。

文政・天保年間(1818~1843)に上日野・下日野・金井三村の百姓による哀訴事件。御荷鉾山は元禄年中に日野と秋畑の境界論争があって、日野分と決し、吉井藩主松平弾正から御印附裏書絵図面を与えられた。

ところが文政五年、(1822)日野三か村の村役人と吉井役所の役人が共謀して、これを吉井宿俵屋清兵衛に二百両で売却したことが百姓に知れた。そこで、上木を売ったとか、入質したなどと偽りその代価は百両であるとし、内八十四両を百姓方へ割渡した。

「風梅年代記」に文政八年(1825)岡本助左衛門の計にて御荷鉾山を吉井俵屋清兵衛へ百両で売る。と記されている。

藩主公許の稼山の入会権を守るため、百姓方は文政十一年からたびたび吉井役所へ訴えた。しかし役人の吟味も正当でないため、総代四人が江戸へ出訴した。甘楽郡上日野村百姓総代常吉、多胡郡下日野村同馬之助、緑野郡金井村同作右衛門・繁右衛門の四名で、一時入牢のちに宿預けとなった。

吟味中金井村寅五郎、幸右衛門(繁右衛門の子で多胡村に養子となる)も入牢となった。文政十二年、寅五郎、幸右衛門は獄死、繁右衛門も宿預け中病死し、常吉・作右衛門も病気になった。

馬之助は宿預け中脱走し、帰村して策略の後、三村百姓連印哀訴状を持って自首の上再び哀訴した。勘定奉行曽我豊後守の裁きによって、天保二年(1831)村役人方、名主二人江戸払、組頭十二人過料銭十貫文宛、百姓代三人同三貫文宛、山買主同十貫文。百姓方総代三人軽追放、百姓三百三十九人御叱。

宿預けの最中に役所へ時々呼び出されて吟味されたという。あとから江戸表へ出向いた村役人もあった。漸く勘定奉行の曽我豊後守によるお白州が開かれ、上日野村名主助左衛門、金井村名主助太夫は江戸払いとなり、この騒動に参加しなかった家抱十八人には褒美が出された。

この名主助左衛門は風梅年代記によれば、岡本熊太郎、後の助左衛門である。文化9年に小柏名主が退役し、熊太郎が助左衛門と改め名主になったとある。岡本名主は江戸払いとなった年に退役している。

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2007年3月10日 (土)

 切支丹宗門改め Ⅱ

  

切支丹宗門改め Ⅱ

全ての百姓・町人はいずれかの寺に檀徒として所属しなければならなかったという。

緑野郡大塚村の大雲寺の弟子、五十九歳は六郎右衛門方取置候とあるので預りの意か。締めての総人数は計算が合わないが、欠落部分でもあるのか定かではない。組頭に名を連ねる熊太郎は「風梅年代記」に出てくる岡本熊太郎と思われる。

この宗門改めから10年後に箕輪山に大熊をうつとの記述がある。更にその翌年に名主になっている。

小柏重簡は「風梅年代記」の筆用者の項に天明(年間)小柏六郎とあり、名主になる前に寺子屋か手習いの師匠などをやっていたものとみられる。寛政十二年の宗門御改帳には48歳とあるので逆算すると1752年生れである。

六郎右衛門重簡は「風梅年代記」に拠れば、文化四年(1807)に隠居したとある。隠居時の年齢は55歳となる。組頭の房右衛門も風梅年代記に出てくる小柏房右衛門であろう。

 

小柏重簡の跡を継いだのは重方である。「宗門改帳」には弟謙二郎と記されている。重簡に嗣子がなく弟の重方が相続した。重方は幼名を右膳司といい、後に八郎左衛門と改めた。天保三壬辰年正月十九日卒、(1832)法名を一法寿山という。

「宗門御改帳」と「風梅年代記」から生没年を計算すると1764~1832年となり、44歳で名主になり68歳で没した事になる。

重方には妹が一人いたが早世している。小柏系譜には謙二郎の名前は見られず、重方とのみ記載されている。

古記録は残っていたが、近世に至り別記の記録を怠ったものか。記録が残っていれば謙二郎の名前が重方の下方に記されていた筈だ。同じく「宗門改帳」に現れる重簡の嫡男幸三郎と長女あきも小柏系譜には網羅されていない。早世したものか、いまだ判然としていない。

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2007年3月 9日 (金)

 切支丹宗門改め Ⅰ

切支丹宗門改め Ⅰ

徳川幕府により禁教とされていたキリスト教。これを取締るため時に宗門改めが行われた。これは上日野村においても例外ではなかった。

寛政十二年四月(1800)の上日野村禅宗門改帳を見ると、「上野国多胡甘楽両郡上日野村禅宗門御改帳」と題され、キリシタン宗門の儀は毎年絶え間なく仰せ仕る処にて、村中百姓、男女、子供、召仕えの者、門屋、借屋、抱え者、出家、社人、村に住む者全てを調査するよう指示が出ている。

更に他所から出入りした者に至るまで調べて報告するように、禁教の信者が居れば速やかに注進した者に褒美を出すとある。怪しい宗門の者が居ても報告しなかった時は、五人組、名主、組頭に至るまで罪に落とすとしている。

油断無く吟味して禁教の者が居れば、その家族にまで印をつけ報告せよと固く申し付けている。このため、村全員の名前と宗派、旦那寺を記載・押印して報告している。

上日野村

名主 六郎右衛門  印 (小柏重簡であろう)

組頭 軍蔵     印

 〃 市之介    印

 〃 房右衛門   印

 〃 弥五右衛門  印

 〃 熊太郎    印

禅宗

            旦那寺

六郎右衛門  歳四十八  宝積寺

女房     歳三十二   〃  松平右京太夫様家中大河友左衛門妹

男子幸三郎  歳三     〃

女子あき   歳六     〃

弟謙治郎   歳三十七   〃  (小柏重方であろう)

謙治女房   歳三十七   〃  吉川栄左衛門様御支配所南牧砥沢村半兵衛娘

 〆十八人内 男八人 女十人

伝左衛門   歳六十七  養命寺  六郎右衛門家抱

男子金之介  歳四十    〃

金之介女房  歳三十八   〃   同家抱介七孫

庄之介    歳五十四   〃   六郎右衛門家抱

平右衛門   歳六十七  龍源寺  禅宗新左衛門家抱 (奈良山小柏家)

女房     歳六十    〃   当村柳兵衛家抱六兵衛娘

男子久米之介 歳三十三   〃   

同峯吉    歳二十二   〃

久米之介女房 歳三十四   〃   当村柳兵衛家抱定七娘

 〆五人内 男三人 女二人

  中略 

 惣人数 千二十五人 男五百四十五人 女四百七十一人 出家八人 道心一人

(藤岡市史資料編・近世)

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2007年3月 8日 (木)

 小暮市右衛門 「大神」となる

 小暮市右衛門 「大神」となる

 この頃、小柏家の強引な家抱政策に対し、近隣の農民が立ち上がり吉井藩松平公をも巻き込む大事件が起こった。

 宝暦七年(1757)吉井藩(松平氏・一万石)から小幡藩(織田氏・二万石)への編入により、名主“小柏様”への隷属になる事に強く反対した農民は、その代表として、旅慣れていた修験僧(世間師)の百姓小暮市右衛門を選んだ。

 小暮は田本で「権律師」の僧位を死後送官された修験僧で、全国をよく巡回していた。そこで、小暮市右衛門は総代となって江戸へ直訴したが、吉井藩の江戸屋敷へ預けられ入牢の身となった。

 この時、松平家の親戚の水戸藩主から「吉井候は百姓を難儀させるな。」と諭され、市右衛門は無罪となり帰される事となった。ところが、市右衛門は牢を出る際に役人から毒を一服盛られ、腹の痛みを押さえ籠に乗り、村人に無罪の喜びを一刻も早く知らせるべく急いだ。

 彼は念仏を唱えつつ籠を急がせたが、ついに下日野・駒留の大宮様(地守神社)の前で倒れ水を求めついに絶命して果てた。これは宝暦七年二月十八日の事である。農民らは市右衛門の残した遺徳を偲び、田本の臨川院「権大僧都本岩大徳院」の墓石を建てた。

 なお、小暮家には市右衛門が諸国巡礼に出かける時に着た行衣が残されていた。それには、

西国巡礼三十三番 為二世安楽也 

 享保十六年 

上州多胡郡上日野田本村

   小暮 市右衛門

 と記されている。更に臨川院の屋敷内に若宮八幡の祠を造って「小暮大神」として祭り「小暮様」と崇め、毎年二月十八日の命日に「先祖祭り」と称して小暮家総本家

に集まった。そこで神官の祈祷を受け、参加者の氏名を記して小暮様の神前に納め、先祖の遺徳を偲んだ。

 小暮の家抱反対越訴は江戸中期、西上州の山間奥地の経済的に遅れた地域に起こった、名主小柏家の「家抱」再編成に対する一般農民による反対越訴であったと位置づけられる。

 諸国を巡り旅慣れた「世間師」でもあった小暮市右衛門は民衆の代表に選ばれ、修験僧として反家抱の立場から法を犯して吉井藩へ直訴したのである。より民衆側の立場に立った農民であった。

江戸時代後期の代表越訴型の義民が上州では磔茂左衛門に代表されるとすれば、小暮の越訴は平百姓による民衆宗教(修験者)に基盤を置く、「衆生救済」のための義民の反権力闘争であったと言えよう。(多野藤岡地方誌・各説編)

小柏祝重の跡を継いだのは重簡である。幼名を右馬介といい、後に内藏之丞とした。後の六郎右衛門である。重簡の弟に重方がいる。共に名主を勤めた。

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2007年3月 6日 (火)

小柏當重 養命寺の中興開基となる

 

 當重 養命寺の中興開基となる

小柏吉重の跡を継いだのが當重である、始め萬太郎と称し後に武太夫と号した。吉重には嗣子がなく、山田貞弘の嫡男を養子にしたのである。當重は後に六郎右衛門と改め法名を浄榮とした。

當重は父祖の意思を継ぎ深く仏法に帰依し、小柏山養命寺の中興開基となった。享保十乙巳年夏、解江湖(不肖)の施主となった。また法華経を千部読み伝える会の主催者となった。(転読・斜め読み)

「宝積寺史」によれば、

正徳年間(1711~16)知海(住職)代に、小柏六郎左衛門は寺の護持を図って山林・畑を寄進する。当寺の規模は、「上野国寺院明細帳」(明治12年)によれば、境内288坪檀徒247人であった。

とある。六郎左衛門とあるのは六郎右衛門(當重)の誤りであろう。小柏氏の世襲名は六郎右衛門か八郎左衛門であり、六郎左衛門を名乗ったものは居ない。同様の記事が「多野藤岡地方誌・各説編」にも載っている。(正徳年間知海和尚のとき、小柏六郎左衛門が山林や畑を寄進して寺の興隆を図った。)表現が類似しており、出典は同じ物と思える。

當重の長女は早世し法名を知春という。二女は藤岡の諸星七左衛門貴郁に嫁いだ。

小柏當重の後を継いだのは長男の記重であり幼名平吉である、後に権八郎と改め、更に八郎左衛門とした。法名は有象という。宝暦二壬申五月二十四日卒。(1752)

當重の三女は早世し、法名を昌桂童女という。當重の二男俊棋は政右衛門であり、須藤家を継ぎ、加納城主安藤対馬守信尹に仕えた。

當重の三男一要は幼名を源六といい、十七歳の時に出家し智海和尚の弟子となった。

四女は藤岡の庄田新兵衛淵信の妻となった。四男、松次郎は早世し法名を了香童子という。

記重の跡を継いだのは祝重である。始め権八郎といい後に八郎左衛門と改め、法名を躰寿という。寛政癸巳五月十七日卒。(1793)

記重の長女は高瀬村の新井清蔵に嫁ぎ、法名を妙薫という。二女は福島村の根岸伊之助政命に嫁いだ。三女は早世し法名を理心童女という。四女は倉賀野の須賀弥七郎の妻となった。五女は藤岡の庄田彦七郎に嫁ぎ、六女は南牧の市川氏に嫁いだ。七女、九女は早世、八女は消息が記載されていない。

記重の二男惣次郎は須賀角右衛門知春の二男を養子にしたものである。(小柏系譜)

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2007年3月 5日 (月)

 御荷鉾山 山元

 

御荷鉾山 山元

江戸時代の小柏家の権勢は絶大であり、飛ぶ鳥をも落とす勢いがあった。同家は小柏の高台にあるが、そこから見渡す限りの西御荷鉾山・東御荷鉾山からオドケ山・赤縄山あたりまでを所有していたという。山の元締めとしても君臨し山に入る時は一々、山元の許可が必要であった。

時の藩主も山行政には関与せず、全て山元に采配を任せていた。広大な御荷鉾山は

水田の少ない山間の者たちにとって資源の宝庫である。茸とり椎茸作り、山菜、筍、木材、竹材、薪、炭焼き、萱、馬草、鹿皮などにより生活を支えられるのである。この他、楮(こうぞ)を栽培し紙を漉き和紙の生産も盛んに行なわれたようだ。この紙は日野紙と呼ばれかなり知られた存在であった。

然るに江戸中期の頃になると、その支配下にあった近隣の農民たちの意識が微妙に変わってきた。平和の時代が続き合戦はなくなり、武力や剣にものを言わせる時代は静かに遠のいていた。

商品が各地に流通するようになり、農民たちにも金と他国の情報が入るようになった。名主家が村役所となり村役人を兼ねて、村落の行政・支配を行なう時代が続き、ある種の腐敗が進んでいたのだろう。この体制に農民たちは次第に不満を持つようになっていた。

特に御荷鉾山を巡っては論争がたびたび起こるようになり、秋畑村との間では裁判沙汰も起こった。

そして寛文四年(1664)に御荷鉾山論争、宝暦七年(1757)には御荷鉾山騒動が引き起こされた。近在の旧家には藩役人へ訴えた訴状や御荷鉾山騒動を記録した古文書が残っている。

これ等の古文書はひどく長文であり、江戸時代独特の言い回しや、今では全く死語となっている言葉などがあり、書いてある事は分るが言わんとしている趣旨を正確・的確に捉える事は難しい。

同じような表現を繰り返しており、当て字、脱字がある他、漢文のように戻り読みもあり相手がした行為なのか、自分がした行為なのかなど微妙な部分が判じがたいところがある。

 名主や小柏家を訴え帳面(年貢の)を見せてくれと農民が藩役所へ訴えたところ、役人は村役所に申し出ろという。

これにより、農民代表が小柏八郎左衛門に要請した。八郎左衛門は趣意書を示し、帳面を見せる事はならないが読み聞かせる事は良いとする。翌日、組頭は農民の総代ら11人を呼び出し、訴えを取り下げる書面に一旦は署名しながらまた別の連判をするは不届きと農民たちを叱り付けた。

 訴えを取り下げなければ逮捕し家族とも引き回しにすると言って、持っていた扇子によりある百姓は打擲され、縄をかけられ連れ出されるなどしたが、その身は後に組合の者を呼び出し組合へ預けられた。

 この際、ある組頭はキセルで打ちかかってきたという。事実かどうかは判然としないが、当時の役人と農民、支配者と農民の関係の一端を、垣間見るようなこのような状況もあったと記されている。

 *三波川の柔術指南の項に少し文章を追加しました。

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2007年3月 4日 (日)

焙烙峠の伝説

焙烙峠の伝説

鮎川(あいがわ)沿いの奈良山の北側稜線上に焙烙峠がある。ここは上日野と秋畑村との境界であり、北側へいろは坂のような曲がりくねった道を下っていくと秋畑村の雄川に出る。

 この焙烙峠は小柏館に奉公していた下女が仕事の厳しさに耐え切れず、焙烙がなければ仕事もしなくて済むのではと、焙烙を持ち出して逃げてきた場所と言われている。このため焙烙峠という名前が付いた。

「群馬の峠」によれば、焙烙峠は標高860m、別名大峠とも奈良山峠ともいう。焙烙を伏せたような形に見えるのでその名が付いたとしている。何か当たり前すぎて物語性もなく、古くからの山里の歴史や人々の息吹きが感じられない由来ではある。

上日野の北側にあるのが同峠であるが、地図を見ると上日野の南側神流町との境にも焙烙峠がある。

塩沢峠の西隣である。群馬の峠の言う焙烙峠は、個人的にはこちらの方の由来と思いたい気もする。鮎川と上日野を挟んで北と南に同名の峠があるのだから、もしかすると混同したのかもしれない。

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2007年3月 3日 (土)

市川家の古文書

 市川家の古文書

「上野国郡村誌」によると、羽沢村、市川真英所蔵三通、砥沢村、市川真太郎所蔵八通の古文書(近世文書)が存するとして、次のように記載している。

    日向つふらこ之内十三貫文之処進置者也、仍而如件

                 天文十六年未二月廿三日 虎満 判

  市川右近助殿

    如前々知行津布羅子不可有別条者也

                 天文廿二年辛亥五月二日 貞清 判

  市川右近助殿

右二通係砥沢村市川真太郎所蔵、市川右近嘗属小幡氏、居砥沢村、食村中三拾貫文中所載日向津布羅子盖砥沢村地名、今村中有日向砥沢日影砥沢等之処

 武田氏文書

○今度内山辺移討手之処通路馳走之由本望候、於于自今以後者猶可被致忠信事、可為祝着候、謹言追而雖軽微候木綿遣候也

                   六月五日  晴信 判

  市川右近助殿

 右一書市川真太郎所蔵

 条目

一 番手之者主本城在陣之事

一 市川衆閣自余之山小屋新地在城之事

一 赤岩之橋場番不可有疎略事

                以上

  五月六日 南牧

 右真太郎真英並蔵之、第二条山小屋盖山上置戌之処、新地未詳、何所新城、

疑是三代記所謂信玄新置一城居小幡信定者乎、第三条赤岩橋場番今砥沢村有赤岩橋

虎満は上杉氏、貞清は村上氏と見られるものの不確かであるとしている。つふらこ・津布羅子とは未詳である。

コンニャクに関するものででもあろうか、或いは絹布のことを指すか。市川真太郎の先祖・右近助が小幡氏に属していた時に受け取った書状である。この真太郎は小柏八郎治の弟で、市川家に養子に入った真太郎であろう。

「郡村誌」は明治8年頃に編纂命令が出ており、数年かけて編纂した物と思われるが年代的にも一致している。砥沢村で市川真太郎という人物が、近い年代に二人居たとは考え難い。

三番目の古文書に押印してある晴信の判は、言わずもがなの武田信玄である。信玄は羽沢村の市川家(右馬助宛)にも殆ど同文の書状を送っている。これにより信玄が南牧の市川衆に眼目を置いていた様子が知れるのである。

砥沢村は信濃から甲斐へ行く街道の要衛にあたり、信玄がこの地を重視していた事が良く分る。

南牧は信越国境にあたり、田口峠を越えて信濃佐久へと繫がっている。西上野国への進入口として、真っ先に抑えておかなければならない戦略上の拠点であったのだ。信玄は赤岩橋の守りを固めて、油断するなと細かい指示まで出している。信玄は南牧に砦(城説あり)を築いて、国峰城を追われた小幡信真を入れて守らせてもいる。

小柏高政は信玄から佐久郡田ノ口を俸地として賜っており、従兄弟の高治は同地の代官を勤めている。これ等の事から小柏氏は上日野小柏の本貫地と田ノ口との間を何度か往復したと思われる。

したがって砥沢村・羽沢村は通り道となり、同地を差配していた市川氏との関係が生じたとみる事も出来る。共に小幡氏に属していたので旧知の間柄であり、戦場に於ても共に行動した事もあったかも知れない。

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2007年3月 2日 (金)

南牧衆市川氏 Ⅱ

 南牧衆市川氏 Ⅱ

羽沢市川氏が関守を勤めた南牧関所については、大略次のようにある。

中仙道の脇往還、富岡・下仁田線の下仁田街道から分岐する南牧道に設けられた関所、文禄二年に開設され同時に市川氏が関守に命じられた。この市川氏は五郎兵衛の代に至り、信州佐久郡に居を移し七百町歩の新田(現浅科村)を開拓した。

関守にはその実子の四郎兵衛が羽沢村に戻って勤めている。

南牧関所に常駐していたのは、他に足軽1人、中間2人で、常備の武具に弓二挺・矢50本、鉄砲2挺、鑓二筋、熊手3本、鳶口5本、突棒1本、刺股1本、手錠3組、提灯4張、松明20本、火消し道具、病人籠1台等があった。

関所が通れるのは明け六つから暮れ六つまでで、南牧の女は出る時に手形は要らず、他所の女は手形を必要とした。一度洪水で流失しその後、少し下流に移転したという。

天明三年には浅間山焼けで流失した土砂により再び流失した。修理代は南牧二十一カ村が負担している。通過する者は上下合わせて一日12人程だった。

下仁田から磐戸を通って南牧川に沿って登っていくと砥沢村がある。その少し上流の隣村が羽沢村である。砥沢村と羽沢村の間の道を北に向かって荒船山の方に入ったところが星尾村である。

同村には先述した「春山大明神」の伝承が残っている。星尾村は西は佐久郡内山に接し、御巣鷹山も同村に含まれる。耕地は全て畑で山畑と切畑で生産性は低かった。名主は砥沢村名主が兼務した。農閑期には男は紙漉き手伝い、薪採り、砥山普請、砥石運搬で手間賃を稼いだ。

天保九年の家数107戸、人口388人。市川氏は時に市河氏と表記された。羽沢村の、市川五郎兵衛が開発した新田は広大なものであり、そこには集落が出来て五郎兵衛新田村といわれた。また新田開発には農業用水が絶対的に必要となるが、五郎兵衛は約20kmに亘る用水路を掘削し完成させた。これは五郎兵衛堰と呼ばれ今も残っている。

この堰は山はトンネルを掘って通し、沢も渡って通過している。

(長野県の文化財HPより)

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2007年3月 1日 (木)

 南牧衆市川氏 Ⅰ

  南牧衆市川氏 Ⅰ

 小柏氏とは黒滝山の開基を一緒に行なうなど、縁由の深かった南牧の市川氏について概観を示すのも意義があろう。

「藤岡市史通史編」には不動寺に関連した記事のところに「小柏重高は砥沢の市川宗家と縁続きであり」とある。記録を見る限りでは重高の時代には、既に縁戚を結んでいたとの確証はない。小柏正系図は小幡氏に招請された高道の頃から縁戚関係がやや詳しくなっている。

したがってそれ以前は主に当主の記録・事跡を中心として編纂されている。同系図では重高の四代目に当る記重の六女が南牧の市川氏に嫁いでいる。その後、同六代目にあたる重簡の長女が市川帯刀眞直に嫁いでいる。

更に重簡の二代後の重基の二男真太郎(八郎治の弟)が、南牧砥沢村の市川家に養子に入り後継者となっている。更に八郎治の五女が砥沢の市川虎義の妻となっている。

このように近世にあっては濃い縁戚を形成してきている事が確認できる。

南牧村

 甘楽郡に属す。山林及び原野が70%を占め集落は川に沿って形成されている。戦国期には高橋氏、小沢氏、市河氏ら南牧衆と称した国人層がいた。砥沢村には幕府の御用砥(石)を切り出した砥山が大規模に開発された。

南牧道は中山道の脇往還(下仁田道)の下仁田より分岐し、南牧谷を経て信州・甲州に通じる。(「群馬県の地名」)

砥山は徳川家康より朱印状により、市川半右衛門が採掘の権利を与えられていた。採掘された砥石は主に鎌を研ぐのに用いられ、全国に流通したという。

「群馬県の地名」を見ると砥沢村の記事は大略次のように記載されている。村の中央を南牧川が東流し、その川沿いに南牧道が通っている。

生島足島神社の起請文に南牧衆として連署している市川氏は、当地に居住し元和九年(1623)より砥山請負人となり、分家筋に当る羽沢村の市川家は南牧関所の関守となっている。

この羽沢の市川家氏からは、佐久郡の五郎兵衛新田の開発者が出た。砥沢の村名は砥山に関係しており、当山は幕府の手厚い保護を受けていた。

安政五年の家数は117戸、人口456人、明治10年には砥石880万本を生産したとある。

羽沢村は南牧川の少し上流にあり、砥沢村の奥隣になる。「群馬県の地名」には大略次のようにある。

北西は信州佐久郡田野口村と接し近年は概ね幕府領。砥山普請人足の御用を承っていた。天保九年の家数109戸、人口365人。

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