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2007年2月 3日 (土)

小柏定政、小幡孫市を助ける

 

 定政小幡孫一を救う

 定重が戦死したため弟の定政が家督を受け継いだ。定政は当初左馬助を名乗り、後に源重郎と改めた。法名は浄久である。小柏系譜には

父、兄と共に武田に属した。兄定重戦死により家督を相続した。天正十壬午年織田信長のため武田家が没落し終わりぬ。

然る後、信長公西上野を統一し是を治める。その家臣滝川左近将監一益が管領となり、上野国に来て厩橋城に住む。然る処、同年六月二日信長公父子明智光秀のため、京都において生(殺)害さる。故に一益本国に帰る。是によりて当州の諸士悉く小田原の北条家に属す。

 同十五丁亥年夏小幡上総介の甥小幡三郎叛逆を企み宮崎城を陥れる。折から小幡上総介は小田原城に詰めていて宮崎城中は無勢にて防戦叶わず。上総介の妻子は宝積寺へ落ちのびた。

この時、宝積寺は敵勢のために焼かれる。この時僧侶が上総介嫡、孫市を介抱し定政の舘に逃がした。定政は大喜びし是を深く隠しおいた。然る後、上総介の留守中、小幡三郎の時、定政は忠勤し戦功も挙げた。

その後、定政は宮崎城に孫市(郎)を送り届け、宮崎城は丁重に受け入れた。上総介はこの時大喜びし、感謝すること一方ではなかった。

同十八庚寅年七月小幡信貞旗頭共定政籠城于小田原。此処にいたり、太閤秀吉のため北条家没落す。

故に定政浪々の身となり小柏村に住む。尚、委細の記録は別記に記してある。

 この記載には彦三郎が三郎とあり、孫一郎が孫市としてある。彦三郎の彦は別記から系図に写す際に脱字したのか、系図を書き写していく際に脱字したのか、或いは名前が三郎と呼ばれていた、もしくは三郎と思っていたなどが考えられる。

 孫一が孫市と書かれていたのは、小柏氏正系図が他の古文書を参考にはしなかった故であろう。これらの事は小柏家にはやはり別の古記録が伝わっていた事を裏付けるものである。

 やはりこのエピソードの骨格をなす事実が存在したと考えられる。孫一郎は上総介信真の弟の子であり後に養子とした。

子孫の小幡龍蟄は言う。孫一郎は孫一・孫一郎と書かれた両書簡があり、始め孫一と称し後に孫一郎とお改めありしなるべし。

 尚、小幡伝来記には孫市郎と記載されている。末尾の方は少し意味が判り難いが、小幡信貞が一方の旗頭として参加して、定政も共に籠城したとの意であろう。小幡上総介信真は天正十五年には軍議があり小田原城に詰めていた。

その後一度上野国に戻り再度天正十八年に小田原城に入ったのであろう。定政が小田原城に入ったのはこの時である。宝積寺住職、西有穆堂は「因果の水鏡菊が池」の中でこのエピソードが宝積寺合戦であるとしている。同書には母子で小柏舘に落ちのびたとある。

確かに小幡方面から敵が押し寄せて来たら寺の裏山に逃げるのが理に叶っている。裏山は懐深く、土地の者でなければ不用意に踏み込めない。また近隣を見渡しても裏山から峠を越えて小柏舘へ逃げるほかに適当な城舘もない。

定政の長女は小柴与兵衛兼行に嫁ぎ二女は三波川の飯塚彦衛門常清に嫁いでいる。三女は小此木吉左衛門兼佳に嫁いでいる。

何れも日野七騎と云われた武士団の面々と思われる。三波川の飯塚家は大変に古い旧家であり、代々名主を務め戦功をも顕わした名家である。近世においては政治家になっている。

 その倉に所蔵されていた三万点ほどの、大量の古文書は県に寄贈され文書館において整理されている。研究者や関係者にとって貴重な歴史資料となっている。三波川に飯塚姓は多いが、三女の嫁ぎ先もいずれ飯塚家の一族であろうと見られる。

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