潮音と重高の不動寺 Ⅱ
潮音と重高の不動寺 Ⅱ
潮音は臨済宗の高僧であり、黄檗宗黒滝山派の開祖となり、不動寺は多くの末寺を造り隆盛を極めた。「謎の根元聖典先代旧事本紀大成経」(後藤隆)によると、潮音は延宝三年(1675)に「聖徳太子の五憲法」という本を出版したという。
同年は上日野小柏村に滞在していた年である。とすれば潮音は重高が建立した草庵で執筆したものか。
この本を出版した版元は江戸の戸嶋惣兵衛であり、「神代皇代太成経」七十二巻本の版元と同じという。この大成経(先代旧事本紀)は多くの人が潮音の著作と考えているが、後藤隆によれば、潮音が出版に関わっていた事は事実であるとしている。後藤隆はこの七十二巻本が十巻本、三十一巻本の原典となったという。
(通説では平安時代に十巻本が成立し、江戸時代に至って三十一巻本、七十二巻本の順で成立したとされている。)
「先代旧事本紀」は学会からは無視され、幕府によって発禁処分となったりしたが、好事家や研究者の間で論争を巻き起こした書物である。
数種ある先代旧事本紀異本の中で七十二巻本を信奉する人たちは、これこそ聖徳太子が著した「先代旧事本紀」の原典であるとする。確かに「古事記」や日本書紀」には書かれていない事柄なども、詳しく書かれていて真実味が伝わってくる本である。心情的には真実が書かれていると思いたいところである。
七十二巻本が潮音の著作になると見られるのは、同書に「聖徳太子の五憲法」の内容と全く同じ記述がある事によるという。
伊勢神宮の訴えを受け幕府は戸嶋惣兵衛を追放、神道家長野釆女、潮音、伊雑宮神官を流罪とした。竹野の子孫という人の話では、長野采女は箕輪城主の長野業政の子孫で、潮音に先代旧事本紀を見せたという。
高名である潮音が来ているとの噂は、近在に広まっていたのではあるまいか。そして長野采女も訪れて来て一緒に「先代旧事本紀」の出版に関わったとみられる。
長野采女は神道家であるが、当時は寺社と神社は混在しており比叡山も高野山も神道を否定せず、むしろ肯定していたのである。
近代まで養命寺の山門前に不動堂があった。養命寺に向かって参道の右側に古いお堂があった。(別掲写真)潮音が開山した黒滝山の不動寺にも同じ名前の「不動堂」があり、時代にはずれがあるものの、その関連が注目されるところである。
養命寺の不動堂 左奥が養命寺 (藤林伸治資料)
| 固定リンク

コメント
柴田さんコメント有難うございます。件の書籍の手配が終わりましたので、また読後感でも書いてみたいと思います。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月29日 (土) 13時44分
貂ゝさん
古事記について私は、先に書いた書紀の成立経緯及び古事記の成立経緯から、一応完成した書紀を企画者に目を通してもらうためのゲラ刷りあるいはダイジェスト版と認識しております。
そしてこれに目を通してもらい、さらに校正(潤色)されたのが、現存の書紀と考えております。
これについては詳しくは拙著『穂国幻史考』第一話第一章に書いてあります。
したがって貂ゝさんの古事記に対する洞察については、私も肯定します。ただ重視するというより、書紀に使われた原資料(史料)を復元するために必要なものとの認識です。
投稿: 柴田晴廣 | 2008年3月27日 (木) 18時59分
柴田さん詳しく教えて頂き有難うございます。
私は書紀よりも、以下の理由で古事記を重視しています。
記の方が記述の形態が古いと思われる。
記の方が古伝承を伝えている。
記の方が素朴な民俗史のような趣がある。
記の方が神話を詳細に記述している。
記の方が権力の介入が少ないと思われる。
紀は権力の方針を反映していると思われる。
まあ、大雑把に言うと記紀の成立年代より前の時代の部分についての事ですが......。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月27日 (木) 14時19分
貂ゝさん
つまるところ、記紀の位置付けという点に落ち着くと思います。
先に挙げた基本資料、小川氏は、国立天文台で旧暦の編纂をしており、戦時中に書紀に用いられている暦は、なにかとの研究論文を書きました。時節柄、発表はできず、戦後になってダイジェスト版が私家版として発行されたのが『日本書紀の暦日について』です。現在「小川清彦著作集 古天文・暦日の研究―天文学で解く歴史の謎」(皓星社)に収録されており、目にすることができます。
一方の森博達さんは、中国語の学者さんです。漢文の語法から書紀を研究したのが『日本書紀の謎を解く』です。
小川氏の研究では、書紀の巻一四以降でより古い元嘉暦が使われており、巻一から一三では元嘉暦より新しい儀鳳暦が使われているとの結論を導いています。
まったく異なる研究方法ですが、森さんも巻一から一三とそれ以降では、漢文の語法の頻度が異なるとの結果を導いております。森さんは上述の小川さんの結論を踏まえて著述年代及び著述者まで割り出しています。
概略になりますが、森さんは、巻一四以降は、持統期、巻一から一三は、元明期の著述としています。
ここでいえるのは、なぜ巻一から著述をはじめなかったのかという疑問です。これは、この書の編纂意図を考える上でも重要になってきます。
また小川さんの研究からは、書紀の巻一四以前の編年は、それ以降の巻のものより当てにならないということがいえると思います。
つまりなんら編年に疑いを持たず神武実在説を唱える安本美典の説など砂上の楼閣となります。
わが国に限らず史書は、編纂者の正当化がひとつの編纂意図となります。編年のみならず、記述自体が経時的に並べられていないこともあり得るからです。
このたとえとしてはあまり適切ではありませんが『仮名手本忠臣蔵』という戯曲があります。いうまでもなく、元禄赤穂事件及び吉良邸討入事件を題材にしたものですが、時代設定は幕府をはばかって南北朝のこととしていますし、登場人物の名もそれに従って入れ替えてあります。
仮に、『仮名手本忠臣蔵』を鵜呑みにして、高師直や塩冶判官を論じたらどうなるでしょう?安本氏のやっていることはこれと同じようなものです。
上述のように森さんの見解に従えば、書紀の著述は、まず持統期に雄略紀からはじめられ、その後、十年以上の間が空いた元明期に巻一の著述がはじめられます。
その間にあった出来事のひとつが持統三河行幸です。大化の改新や壬申の乱に比べれば地味な事件と思われ、今まで注目されることもなかった事件といえると思います。
しかし私が東三河で生まれ育ったことを割り引いても、この事件は重大な事件と思います。上述のように書紀の著述が中断していたときに起こった事件だからです。
この事件は『続日本紀』で還りの行程は書かれていますが、往きの行程はほぼ不明といった状態です。ただ『万葉集』の記載から伊勢から海路を採ったこと、それには軍団がともなっていたこと、さらには三河に上陸した船は大破して還りには使い物にならず、しかたなく陸路を採ったことなどが読み取れます。
古田武彦氏の著作を読んだことはありませんが、いわゆる『九州王朝説』で、この持統三河行幸について論じたものを私は知りません。
付け加えておけば、書紀の著述が巻一からはじめられなかった理由については、筑紫申眞氏の『アマテラスの誕生』(講談社学術文庫)が参考になるかと思います。
ここまで書けばこれ以上田中卓については、言及する必要もないと思います。
投稿: 柴田晴廣 | 2008年3月25日 (火) 19時16分
柴田さん早速のコメント有難うございます。私も?当初は田中氏は明治期に形成された皇国史観の側に立ち、神宮を養護する立場にいるのではと思いました。
しかし田中氏の著作集を読み進めるうちに考えが変わりました。同氏はそのような立場にはおらず、言葉は柔らかく丁寧で謙遜しながらも主張する論にはキリッとしたものと責任感が表れています。
ちなみに安本vs古田では古田派です。柴田さんの「基本書」は読んでないので、見つけて読んでみます。いずれ「穂国幻史考」も読んで見たいと思います。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月24日 (月) 11時36分
貂ゝさん
私は田中卓とはよって立つ立場がまったく異なります。
いうまでもなく、田中は平泉の忠実な弟子です。
師の平泉は、天皇以外の歴史は、歴史ではないと断言しています。学生が中世の農民史の研究をしようと思うと平泉に問うたときに、「農民に歴史がありますか?」、「馬や牛に歴史がありますか?」と応えた人物です。
私は、日本史とは日本人の歴史であり、日本人の歴史とは個々の日本人の営みの束と認識しています。そしてその上に支配者の攻防史がかぶさっているに過ぎない、このように日本史を捉えています。
私が生まれ育った東三河を題材にするのもそのためです。
先に書きましたように、私は記紀の成立経緯の基本資料として小川清彦さんの『日本書紀の暦日について」及び森博達さんの『日本書紀の謎を解く』を基本資料として採用しています。
したがって田中卓とは、記紀及び旧事紀の認識についてもまったく異なっています。
田中卓について付け加えておけば、氏の女系天皇容認論に見られるように、氏は系図読みとしてはまったくの素人です。
投稿: 柴田晴廣| | 2008年3月23日 (日) 19時38分
柴田さん詳細な解説を頂き有難うございます。 今日は“核心”の部分について少しだけ書いてみたいと思います。そう、ニッポンの歴史は何時から始まったのか?といったようなテーマですか。
田中卓先生は様々な古文献を渉猟し、色々な論説を紹介し解説を加えたうえで独自の丁寧な論証を展開しています。
私も同氏の信奉者の一人と言えるかもしれません。同氏は旧事紀・紀・記を大筋でほぼ肯定しています。
神話については何らかの史実を反映したものとして、「史的神話」と呼んでいます。
神武天皇東遷もほぼ史実としてその時期を1世紀頃としています。(私はもう少し遅かったのではないかと思っています。)
同氏はニギハヤヒとホノアカリ両神についても、神名・系列・時代を考証し同一人物説を支持しています。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月23日 (日) 12時03分
貂ゝさん
竹内は当然偽書です。「三笠」は、「秀真」と同類ですから、これも当然偽書、「上記」にしても偽書です。
ただ偽書として切り捨てるのではなく、この出現経緯というのは、非常に興味あるものです。
というより、『古史古傳』といわれるものは、すべて『大成経』の延長線上にあると見ていいと思います。
『大成経』の諸本のひとつに「鷦鷯本」があります。京極内蔵之助が所持していたもので、その来歴は、もともと菅公所蔵のものが佐々木成頼に伝わり、その裔を称する京極内蔵之助に伝わったものといわれます。
佐々木氏は、本姓宇多源氏を称するもこれは仮冒で狭々城山君の末裔だと考えられます。狭々城山君については、『日本書紀』巻一五・顕宗元年五月条に陵戸に貶められた旨が記載されています。
菅公は、宇多に重用されていますが、本姓は土師、そもそも葬送に関わっていました。
陵戸に貶められた狭々城山君は、近い関係にあったと考えられます。
つまり「鷦鷯本」は、土師氏伝来と主張しているとも採れます。
「秀真」の継承者を称する井保勇之進は、本姓三輪を称しています。『大成経』は序文によれば三輪氏をはじめとする六家の家伝を元に編纂されたと謳われますから、『大成経』の延長線上と考えられるわけですが、井保は上述の「鷦鷯本」を所蔵した佐々木氏の所領・近江高島郡の人です。
また「上記」については、写本のひとつ宗像本は、豊後国大野郡「土師村」の宗像家が所蔵していたと伝えられます。
土師については、相撲の祖・野見宿祢が埴輪を作り殉死をやめさせたことからはじまるといわれ、垂仁の時代のこととされています。
垂仁の時代といえば、記紀の世界では悲劇の皇子ホムツワケが主人公になるわけですが、このホムツワケの逸話を含め、記紀の世界での出雲は実は丹波のことが書かれていると考えられます。
さらにいえば記紀の世界ではもう一世代前の崇神の出雲神宝献上事件も狭穂彦の乱のプロローグと捉えることができます。
『播磨国風土記』を含めて野見宿祢をみれば、出雲臣の後裔とされる野見宿祢も丹波系、つまり火明命系と考えることができます。
先のコメントにも書きましたが、そもそも『旧事紀』は、この火明命系の家伝であったと考えられます。
そして、これを物部の家伝として取り込んだのが石上麻呂だったのでしょう。
余談になりますが『宮下文書』、神代文字で書かれていたものを現在の形で筆写しなおしたのは、藤原の物部麻呂といわれていますが、これなども意味深なものです。
また「竹内文書」については、所蔵者の竹内巌次郎(巨麿)は、庭田大納言の後裔を称していますが、庭田家は、宇多源氏です。上述の佐々木氏との関係を考えればこれもまた意味深です。
概略だけでもいわゆる『古史古傳』といわれるものが『大成経』の派生であることがわかるかと思います。
ニギハヤヒノミコトと火明命は同一人物という説は、『旧事紀』の成立過程などろくに考察したこともない安本美典あたりがいっているだけで『旧事紀』の研究者の間では別人というのが定説です。
最後に「勘注系図」については、上述の偽書と同じく(というより成立経緯すら考察に値しないもの)眉唾ですね。
籠神社神主家というのは、上述の記紀の垂仁条からみても火明命の傍流でしょう。
また、「勘注系図」は明らかに天孫本紀の尾張氏系図を元にしていると考えられます。これを元に卑弥呼等が話題になりだした江戸中期以降に創作されたものといえると思います。
先にかっこ書で「成立経緯すら考察に値しない」としたのもこれが理由です。
投稿: 柴田晴廣 | 2008年3月21日 (金) 18時14分
柴田さん 詳しく教えて頂き有難うございます。「秀真」も駄目だとなると当然、竹内文書・ウエツフミ・ミカサフミも偽書という事になるのでしょうね。
ニギハヤヒノミコトと火明命は、同一人物というのが定説であったように思っていましたが違うのですか?火明命を始祖とする籠神社の海部氏系図は、信ずべきものと思っていますがどうなのでしょう。
共に国宝となっている勘注系図は新しい物なので、こちらの方は批判の余地があるかもしれませんが.....。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月20日 (木) 16時46分
貂ゝさん
原田実さんですか。まぁネットレベルの概略としてはギリギリ赤点ではないといったところでしょうか。
「秀真」はその出現経緯からみても『大成経』の派生本以上のものではありません。
まず先に紹介したページでも書いてありますが、物部の祖神・ニギハヤヒと尾張氏の祖神・ホアカリとは、同神ではありません。
一般に『旧事紀』は、物部の伝承に基づいたものといわれていますが、『旧事紀』はもとより『大成経』の種本と考えられる広田丹斎所蔵の『聖徳太子の書』(これは、吉田兼倶がいう『八十巻本旧事紀』の一部と考えられます)についても尾張氏などのホアカリを祖とする氏族の伝承に基づいた書と考えられます。
このホアカリを祖する一族の書を改竄し、『旧事紀』の原本を作ったのは、おそらく石上麻呂と考えられます。
長野采女については、長野業正の裔と称しています。この長野氏は、在原を本姓とするといわれていますが、「石上」のようです。右記頁参照(http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nagano_z.html)
すでに『八十巻本旧事紀』についても十巻本と同様に物部の家伝書的な体裁を整えていたことも考えられますが、仮にそうでない場合には、長野の創作による部分の比重が大きいと考えられるのではないかと思います。
原田氏のレベルは、赤点ギリギリと評したのも、そこまでのレベルではないからです。
以上の点については、記紀(特に書紀)の成立過程を整理していけば導けることです。なお書紀の編纂年代の整理としては、私は小川清彦著『日本書紀の暦日について』及び森博達著『日本書紀の謎を解く』を基本資料としております。
投稿: 柴田晴廣 | 2008年3月18日 (火) 17時41分
柴田さん コメント有難うございます。かなり専門的です。私はこの件で古文献の渉猟まではやっていませんが、神代皇代大成経を、著したのは長野采女だったとの原田実氏説には賛同できますね。
潮音も伊勢神宮参拝・ニギハヤヒ碑建立などをしているので一部の共著をしていたのかも...。
九鬼文書は偽書という事ですか?秀真伝は心情的にも信じたいものがありますがこ、ちらは如何でしょう。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月18日 (火) 15時20分
貂ゝさん
後藤隆著『謎の根元聖典先代旧事本紀大成経』、書店にあったのをペラペラとめくってみました。引用に値する本ではありませんでした。
『大成経』については、江戸学の泰斗・三田村鳶魚が雑誌にいくつか論考を発表しています。雑誌への発表ということで全集には載っていませんが
藤原明著『日本の偽書』(文春新書)で、『大成経』解説部分で鳶魚の論考を引用していますが、この本についても『先代旧事本紀』(「十巻本旧事紀」のこと)の扱いについては、頗る評判はよくありません(http://shushen.hp.infoseek.co.jp/hitori/gisyo.htm)。
『日本の偽書』は、『大成経』をこの『先代旧事本紀』の補足として十ページほどの紙面を割いて採り上げているのですが、上述のように、『先代旧事本紀』の位置付けが不十分なため、『謎の根元聖典先代旧事本紀大成経』よりは参考になるものの生硬な論といえるでしょう。
上述のように鳶魚は、雑誌にいくつかの論稿を寄稿しています。その中のひとつに『八十巻本舊事本紀』があります(私は偶然にコピーを入手したため、雑誌名は不明です)。この中で鳶魚は、吉田兼倶がいう『八十巻本舊事本紀』について言及していますが、『大成経』は、この『八十巻本舊事本紀』そのものではありませんが、この書が大きな影響を与えたと思っています。
そのほか潮音道海との関係では、小川龍著『高僧・道海と消された経典』(ルネッサンスブックス)が出版されていますが、あくまでも小説であること、参考文献が列記されていないことから、どこまでが資料に基づいたものであり、どこからが小川氏の創作であるかが不明なものです。
またこの本では昭和になって成立した『九鬼文書』が潮音道海が生きた時代にすでに存在していたとの前提で話が進められている点、『日本の偽書』と同様に『先代旧事本紀』の位置付けがなっていない点など問題も多くあります。
ここで『九鬼文書』について若干補足しておきます。
この書は、大本関係者の三浦一郎が昭和になって解説書を出したことからその存在が知られるようになります。
綾部藩主九鬼氏が代々所蔵したとの触れ込みです。「大成経弾圧事件」は、ご存知のように「伊雑宮事件」の延長線として位置付けられます。鳥羽の九鬼氏が伊勢神宮領及びこの伊雑宮神領を横領し、その回復を訴えたのが「伊雑宮事件」です。
綾部藩主九鬼氏は、この鳥羽の九鬼の裔です。
『大成経』は、伊雑宮神庫から発見されたとその由来を語っていますが、鳶魚が『大成經學の傳統』で引用する『磯邊太神宮靈驗記』から外宮神官の出口市正(鳶魚は出口市正伊雑宮関係者としている。なお出口の別名は、広田丹斎)が所持していた「聖徳太子の書」が種本と考えられます。
九鬼氏の綾部転封により、外宮関係者(出口の本姓は外宮神主・度會)が綾部の地に移ったことも考えられます。大本の出口なおもその関係があったかもしれませんが、『九鬼文書』が三浦により発表された時には、「なお」はこの世にいませんから、娘婿の出口王仁三郎との関係を考えれば『九鬼文書』も王仁三郎の大伯父・中村孝道の影響が強いと考えられるかと思います(『九鬼文書』については、未見のため断定はできませんが)。
投稿: 柴田晴廣 | 2008年3月18日 (火) 08時31分
柴田さんコメント・教示有難うございます。
この部分は私も混同感があり、軽い推敲はしましたがつい先を急いでしまったところです。
未消化であった部分と言えますか。今一度推敲してみます。今後ともご教示をお願いできればと思います。
投稿: 貂ゝ | 2008年3月13日 (木) 15時19分
はじめまして
潮音道海の『指月夜話』によれば、寛文七(一六六七)年ごろに京極内蔵之助から『聖徳太子釈氏憲法』を借り受け、その後、采女から『大成経』を借りたとされています。
それと「後藤氏はこの七十二巻本が十巻本、三十一巻本の原典となったという」と書かれていますが、ここでいう十巻本とは、『承平私記』に登場する『先代旧事本紀』のことで、一般には、この『先代旧事本紀』をもとに七十二巻本や三十一巻本(『大成経』のこと)が偽作されたとされています。
記事の中でも『先代旧事本紀』と『先代旧事本紀大成経』を混同しておられるように思います。
投稿: 柴田晴廣 | 2008年3月 1日 (土) 16時42分
れきし探検さん コメント有難うございます。いつも貴重な情報を頂き感謝します。今日は不動寺・重高の項の最後の一行を書くため、いつでも好日の同氏の写真をじっと眺めさせて貰いました。
たおやかな良い表情をしていると思います。文字通り法体で和尚さんの趣が漂って来ました。訪れて来る人に福を与えているような...。16両と言うと今でも平均的な年収に相当するかも知れませんね。
またの教導をぜひお願いします。
投稿: 貂ゝ | 2007年2月18日 (日) 17時21分
里の風 江戸時代に入りましたね!れきし探検です。
余談ですが、黒滝山の開山に小柏氏は16両当時寄付しております。今年の「平成18年開山忌・施餓鬼祈祷法会」http://www.nanmoku.ne.jp~choonhouwasegak.htm
にて、開山堂に入り、真ん中の像が潮音の像、左側に重高の像と妻の像を確認し先祖供養しました。黒滝山はお寺ですが先代旧事本紀には、「神武天皇が畿内大和に入る前に、饒速日命が大和に天下っていたという伝承があり」、黒滝山の開山堂へ向かう石段の右側に饒速日命が祭られており、潮音さんが旧事本記を書いた事と関係があると思います。謎が多い潮音さんと小柏氏の間に仏教や禅以外にもインテリジェスな関係があったと勝手に推測しております。また 三波川と日野の鹿島をつなぐ温石峠の由来は温石がとれる事から由来したか石を温めて懐に入れて峠を越えて温石になったかのどちらかですが、戦国時代が終わり武士の世の中になった江戸時代初期は、帰農した近郷の武士たちが座禅をするために、色々な峠を越えて自分の信じるお寺へ修行に向かったと思われます(勝手な推理)。
投稿: れきし探検 | 2007年2月18日 (日) 15時13分