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2007年2月27日 (火)

三波川の柔術指南と血判状

 三波川の小柏新左衛門は地主でもあり、飯塚家文書(1)には土地境書き証文を受け取った記録が載っている。安政6年(1859)に山を質物にとった時の文書である。同様に弘化3年、嘉永2年(1846)にも畑の質物を受け取ったとの記録がある。

 この他、安政3年に金を貸した記録があり、更に文久1年(1861)に不動尊の積金として村民に十両を貸している。この記録は妹ヶ谷不動尊の修理(復興)積立金らしい。してみると新左衛門は不動尊の祭祀を司っていたか、或いは修理に際しての施主であった可能性が考えられる。

 また文久2年の文書として、竹谷戸耕地新左衛門との記載があるので、住いが竹谷戸であった事が知れる。

 

三波川の柔術指南と血判状

 飯塚家文書の中に血判状と思しき近世文書がある。後半部分は千切れて失われてしまっているが、千切れた部分の字は「血判状」と解釈できる。

「剣槍柔術指南、上野国緑野郡三波川住 小柏新左衛門 源計昌」とある。道場で柔術の稽古・教授をして、尚且つ剣術と槍をも教えたのだろう。今でいう総合格闘技がこの時代にもあったのである。

当時人気のあった「気楽流柔術」は柔術・剣術・棒術・鎖鎌術・鉄扇術・縄術・組打術・山谷歩行術・忍術・接骨術・指圧術を教え、上日野にも沢山の道場があった。(「火の谷)藤林伸治)

気楽流柔術の創始者は藤岡美土里村の飯塚臥龍斎である。臥龍斎は戸田流柔剣術の第11世となったが、後に気楽流の流名を名乗って各地に出向き指導した。時に江戸時代の後半・文化の頃である。

いうまでもなく小柏氏は平姓であるが、この新左衛門は源姓を名乗っている。三波川小柏氏の子孫の人の話では飯塚家から三波川小柏家へ来た養子が居たとの事である。

三波川の飯塚家は源姓を名乗っていたとの事なので、この柔術指南の新左衛門も飯塚氏の出身であろう。剣槍柔術とは山岡鉄舟が明治17年に創立した「剣槍柔術永続社」と同祖・同流のものではなかろうか。推測ながら「剣槍柔術」と四文字までが同じ流派が幾つもあるとは思えない。

しかしながら年代的に合致する傍証を今は示せない。だが、血判状だとしたらそうそう何回も血判を取り交わす事はないと考えるのが自然である。とするとこの血判を取り交わした時期は、もしかしたら明治初期の群馬事件・秩父事件と関わりのあるものかとの推測が成り立つ。

同事件とこの血判状が関係しているとすれば、年代的には無理のないものとなってくる。そして後半の、名前を連ねて血判を押したであろう部分を、千切ってしまった理由も無理なく理解する事が出来るのである。

当時は秩父事件は反乱であり暴徒・犯人と当局から決め付けられ、また新聞報道などもその論旨に同調したのである。しかし今日では秩父事件は見直されるようになり、特に同事件の百周年を契機として評価も変わってきているようだ。民権運動のはしりであった、民衆の自由・権利を勝ち取るための行動とも評されるようになったのである。

秩父事件に関わりのあった各地においても、各種の記念事業・講演会などが催されている。上州困民党と秩父困民党を結びつけたのは、小柏常次郎といわれている。

「秩父事件」井上幸治によると、常次郎は明治17年8月までは三波川に居たとしている。

妻ダイとの仲人であった横田林太郎の家で養蚕を手伝っていたとしている。しかし仲人は小柏菊次郎と横田林太郎で、常次郎は箕輪にかなりの面積の耕地を所有して、上農クラスであったとの説があり、若干の疑義があると思われる。

私には常次郎が謙遜の意味でそのように供述したもののように思える。常次郎の妻ダイは同志に頼まれて、三波川に鉄砲を借り出す為に行っている。

「秩父事件のおんなたち」は、秩父事件に加担した各村では村ごとに連判状を作ったとしている。

また三波川では山林博打も盛んに行なわれていたようだ。丁半長屋などもあり他に気晴らしになる娯楽もなかった事から、農民も金が入るとよく博打を打った。剣術・柔術の道場もある事から、結構鉄火の気質・風土もあったように見受けられる。

ところで先の柔術指南の小柏新左衛門という名前は、上日野の奈良山小柏氏と同じものである。奈良山小柏家では新左衛門は世襲の名前であり、代々その当主が名乗っていた。

小柏新左衛門という名前は同じではあるが、同家と三波川小柏氏との関わりは薄いようだ。

 

 Photo_24

 三波川の小柏新左衛門は地主でもあり、飯塚家文書(1)には土地境書き証文を受け取った記録が載っている。安政6年(1859)に山を質物にとった時の文書である。同様に弘化3年、嘉永2年(1846)にも畑の質物を受け取ったとの記録がある。

 この他、安政3年に金を貸した記録があり、更に文久1年(1861)に不動尊の積金として村民に十両を貸している。この記録は妹ヶ谷不動尊の修理(復興)積立金らしい。してみると新左衛門は不動尊の祭祀を司っていたか、或いは修理に際しての施主であった可能性が考えられる。

 また文久2年の文書として、竹谷戸耕地新左衛門との記載があるので、住いが竹谷戸であった事が知れる。

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2007年2月26日 (月)

妹ヶ谷城と小柏氏

野々宮神社近くにある妹ヶ谷城と、小柏氏との関連性は色濃く漂って来ているが、これを明らかに出来るものを今は提示出来ない。

或いは飯塚氏が関わった物かとも考えられるが、同氏の本拠地琴辻からはかなりの距離があり、正面の前進基地でもない山腹の後背地となるような位置に砦を築いたとは考え難い面がある。

妹ヶ城の位置は不動滝の西南、野々宮沢の南の山上になる。標高は200mくらいの所で、長さ30m、幅12m二段の保塁である。妹ヶ谷不動尊は下曲輪である。(山崎 一 稿「奥多摩地区の故城塁址」)  

曲輪とは、自然の地形を利用して築いた砦状の石壁や土塁・保塁等を指しており、不動尊までが妹ヶ谷城の一部であった事になる。この研究結果を読むと砦のような物が浮かび上がってくる。

上日野の小柏氏が鎌倉方面からの侵攻に供えて、鼠喰城の出城とした可能性も高いのではなかろうか。何故なら妹ヶ谷から山を越えて来れば、すぐに小柏村となり侵略される危険性が高まる事になる。

小柏氏はその舘の東、約200mの所に砦を築いていた。ここは街道を見下ろす位置にあり、小高い丘・山のような場所であり、其処は城山(じょうやま)と呼ばれていた。

砦状の物も城(しろ)と呼ばれていた事が分る。妹ヶ谷城もその役割から見て砦のようなものであったと考える事が出来る。その規模にもよるかと思えるが、先に見たように砦であっても城と呼ばれたのである。

この城山の砦と妹ヶ谷城の関わりが考慮されるところである。城山と妹ヶ谷城との間で狼煙などによる連絡方法を確立していた可能性に注目したい。小柏氏は西御鉾山の頂上近くにも鼠喰城を築城している。

見渡す限りの山を所有していたと伝えられており、この辺り一帯の山の支配権を有し、配下の者や農民たちも山は自分の家の庭のように歩き回っていたと考えられる。したがって妹ヶ谷城のある山にもその影響力があった事は否めないものとなる。

更に小柏重高は舘の西方の火口山に草庵を建てて、そこに潮音を招じている。私はこの草庵の場所に思いを馳せる。そこは何もない、ただの山で潅木や萱が生い茂っていたのであろうか?否である。

そんな所にいきなり草庵を建てるとは思えない。してみると其処は以前から小柏氏にとって周知の場所であったのだ。伐採や炭焼きなどで時々足を踏み入れる場所であったからこそ、南傾斜で良い場所だと熟知していたと考える。

そして其処が草庵の場所に選ばれたのではあるまいか。こう考えてくると草庵を立てる前にもその場所は何らかの用途に利用されていた可能性がある。炭焼き小屋・番小屋・椎茸栽培の建屋なども考えられる。

その他、少し飛躍するが見張り所・信号所があったと考える事も出来る。こう仮定すると小柏(村)を通る街道を、城山と共に東西両方で監視できる事になる。そして南側には鼠喰城と妹ヶ谷城がある。

これ等の施設が相互に連絡をとっていた可能性を考える所以である。

 年代的にみると、まず江戸時代には合戦はなくなり平和な時代が長く続いている上、この時代のことならば何らかの記録・伝承が残っている筈であるのでこの線は消える。

 次に想定されるのは上杉氏の時代であるが、その後の上杉・武田氏・北条氏が覇を競って合戦に明け暮れた時代の可能性も僅かながら残されている。しかし近隣の土塁・山城の築城年代からみて、更に時代を遡るものとみられる。

 近隣の諸城・砦には三波川譲原に「真下城」があり、その西には尾之窪城、枇杷尾根城、塩沢城、諸松城がある。諸松城の西に位置するのが妹ヶ谷城である。真下城は別名下山城といい「上州の史話と伝説その二」によれば承平五年(935)の築城としている。かなり古いものである。

平将門が平貞盛を追って、この地に来た時に要害の地と見て城を築いたという。「上州の苗字と家紋下巻」によれば、真下城は真下伊豆守吉行の築城としている。「日本城郭全集3」も真下城は真下氏の築城説をとっている。いずれにしても、真下氏が移り住んで来てから真下城と呼ばれるようになったのであろう。

 

下三波川の尾之窪城は「上州の史話と伝説その二」によれば平貞盛が築いたものという。

更に「上州の史話と伝説その二」によれば、山崎一の調査により東小学校の所が、枇杷尾根城跡である事が判明した。

戦国時代の物であり、近くに貞和二年(1346)銘のある板碑や、室町時代の五輪塔などがある。

塩沢の塩沢城については詳しい資料がないが、「日本城郭全集3」には「塩沢砦」として次のように紹介されている。

標高三百六十メートルの山頂に、東西45メートル、南北25メートルの本丸がある。東斜面に幾つかの小郭が認められる。本丸は東縁に堀があり北縁を除く他、高さ1.5メートルの土居をめぐらす。

諸松城の出城であったと考えられる。――

「土居」とは土を積み上げた土手・土塁のようなものであろう。この表現を読む限り本格的な城のような印象を受けるが、築城者・築城年代などは不明のままである。

諸松城は諸松にあり「日本城郭全集3」では本間佐渡守の城と伝えられていると紹介している。本間佐渡守が佐渡の守護代・本間家であれば16世紀後半の人となろう。すると築城年代かなり新しいのかもしれない。

この他「三波川地域城」は土塁・平山城であり、南北朝時代のもの(1392頃)として、飯塚氏の築城と伝えられているとしているものがある。しかしこの三波川地域城が前記のどの城を指しているのか判然としない。

また尾之窪城、枇杷尾根城、塩沢城の全ての別名を「三波川地域城」としているものもある。この他、尾之窪城、枇杷尾根城、塩沢城、諸松城、妹ヶ谷城とは別に「三波川地域城」という城があるとしているものもある。

これ等各種の資料を突き合せて検証した結果、「三波川地域城」は平滑・大内平の保塁六箇所を指している事が分った。飯塚屋敷の近くである。されば、これは飯塚氏の築城に間違いあるまい。

前記の5城とは別の城である。さて収集した資料を全て披瀝して分析したところで、結論を誘導してみよう。

小柏氏は鼠喰城に不動明王を祀っており、西御鉾山の頂上にも不動明王を祀っている。その他黒滝山の不動寺にも不動明王があり小柏氏の守り神ともいえる。

三波川小柏氏の話では、妹ヶ谷不動尊・野々宮神社などの土地も小柏氏の所有との事である。

妹ヶ谷不動尊の奥(裏山)にある妹ヶ谷城は、やはり小柏氏に関係した城址であると考えたいが、この地域は多くの武将が跳梁跋扈したエリアであり、色々な可能性を秘めている。

また飯塚家にはそれこそ厖大という言葉が、ピッタリなほど古文書が残されているが、多くは江戸期などの近世文書である。

記録などは戦国時代からあるようだが、その記録の中に妹ヶ谷城を築城したという記録はないようである。すると妹ヶ谷城は更に古い年代の築城だったのか、或いは飯塚氏とは別の武将が築城したという考え方が出来る。

ではそれが誰かという事になるが、残念ながら現時点では詳らかに出来ない。城の様式・年代など更なる研究が必要なのである。

「真下城」の築城が935年と見られ、三波川地域城の築城が1392年頃とすれば、この地域での築城は457年間に亘っている事になり、あまりにも長い期間になりすぎる嫌いがあるのだ。

鼠喰城の築城は「日本城郭全集3」では1367年としているが、様式からするともう少し年代が降る(15年程か)可能性もあるとしている。いずれにしても三波川地域城の築城年代と鼠喰城の築城年代は近接している。

真下城と尾之窪城とは同時代の人物が築いたと伝えられており、これからすると両城の築城年代は近接しているとみる事が出来る。

地理的・配置的な面から考察すると、真下城は神流川入口の抑えとみられ尾之窪城は山上に有る事から砦・出城・見張り所的な意味合いを持っていたと考える事が出来る。

三波川侵攻の抑えの役目を担っていたのが、川の北岸に設置された枇杷尾根城・南岸に置かれた塩沢城・諸松城であり、枇杷尾根城が三波川の入口を守る前進基地のように映じてくる。

塩沢城と諸松城とは近接しているので、おそらくは築城年代にかなりの開きがあるのではないかとの推察が成り立つ。両城は1キロメートルと離れていないので、塩沢城を諸松城の出城と見做す事は無理があるように思う。

諸松城から、その西方に位置する妹ヶ谷城まではかなりの距離がある。実質的・直接的に三波川の領土を守備する枇杷尾根城・塩沢城・諸松城の三城の築城年代・築城者を明らかにする研究が待たれる。

この三城の関わり合い、性格などが分かってくれば、その奥に位置する妹ヶ谷城の姿・輪郭も次第に見えてくるのではなかろうか。

三波川流域の諸城だけではやや史料が少ない感もあるので、この他のやや離れた所に位置する三ッ山城・浄法寺城についても見ておこう。三ッ山城の内城とされる浄法寺城は舘跡・保塁であり、1566年以前に長井豊前守信実が居たという。したがって築城推定年代は16世紀初頭頃になろうか。しかし浄法寺城は1350年頃の築城といわれておりかなりの開きがある。

総花的に概観するとこの地域の城の築城年代は、14世紀後半のものが多いといえようか。14世紀は新田義貞が大いに活躍した時代である。義貞は楠正成の千早城を攻めた後、上野に帰国し準備を整え倒幕の兵を挙げている。

鎌倉を落して京に上った義貞は足利尊氏の勢力討伐を目指し、鎌倉に向かったが箱根の戦いに敗れている。尊氏は鎌倉にいた弟の義直とも血みどろの戦いを繰り広げている。

1355年には新田義宗が上野国に挙兵し鎌倉を目指して、武蔵国の各地が戦場となっている。上野国守護や関東管領の職にあった上杉氏もまたこれ等の戦乱の中に巻き込まれている。

14世紀後半から15世紀前半には、上野国の武士集団によって各地に宝篋印塔が建てられている。この後も結城城合戦が勃発し関東の大動乱へと戦乱は続いてゆく。南北朝の動乱期から関東の大動乱と続く、この時代に幾つもの城が造られたとすればその世相から自然の成り行きであろうか。

妹ヶ谷城の築城年代が、近辺の諸城と同じように14世紀後半(或いは13世紀後半~14世紀後半)と類推するならば、ほぼ同時期に鼠喰城を築いた小柏氏の影が強くなってくる。

上日野小柏から峠一つを越えれば妹ヶ谷である。北に位置する小柏村を頂点として鼠喰城と妹ヶ谷城を結ぶとほぼ二等辺三角形の形になる。(妹ヶ谷城の部分がやや右下に長くなるが)

妹ヶ谷城を小柏氏が築いたとすると、竹野にとってこの地は先祖が足跡を残した縁由のある処であり、愛着もあり近くに住んでいて土地勘もあった事から入植したと考えればさほど無理が生じないと言えようか。

なお、三波川小柏氏によれば、飯塚氏は源姓、小柏氏は平姓で地域や役割を分担していたようだとしている。

小柏氏は三波川上流の山や水源の管理を行なう傍ら、祭祀や行政の一端を担い、猟民・農民の取り纏め・調停などに力を発揮していたと推定される。上流の方までは目が届き難く、飯塚家は主としてそれ以外の土地を管轄していたのであろうか。

  妹ヶ谷城と小柏氏

 

妹ヶ谷城を築城したのは誰か?そしてその城主は誰か?という命題はなかなか興味のあるところである。ここでは一つの小考察を述べさせて頂く。

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2007年2月25日 (日)

竹野の入植期 Ⅱ

   竹野の入植期 Ⅱ

竹野の子孫の人の話では、妹ヶ谷にある野々宮神社と諏訪神社には、小柏氏の家紋、丸に釘抜きの紋があるとの事である。

この紋は小柏定政が武田信玄より領地として、信州佐久の田ノ口を賜った時から使われるようになった家紋である。それ以前は平家と同じ揚羽蝶の紋を使っていたので、この事も年代が矛盾していない事の一つの証左となる。

また上日野の野々宮神社の横を大谷川に沿って登って行き、妹ヶ谷峠(720m)を越えて妹ヶ谷側に降りていく道沿いを流れる渓流は野々宮沢である。上日野から来た竹野が野々宮神社にあやかってそう呼んだ可能性がかいま見えてくる。

先述の竹野の子孫の人の話の中に、妹ヶ谷小柏家の墓地と上日野の小柏氏の墓地とは、石塔や祠などが良く似た造りになっているとの指摘があった。更に上日野小柏(村)と妹ヶ谷の地形・景色がそっくりであるとしている。

共に街道をきっちり抑える要所を占めており、狼煙で山から山へと合図を送って緊急の連絡をとっていたのではないかと推測している。

これまでに見てきた幾つかの傍証から、妹ヶ谷に小柏氏のうちでも有力な子弟が移り住んできた事が髣髴(ほうふつ)と浮かび上がってくる。

妹ヶ谷小柏家の墓地にある、小幡家の女中の墓と伝えられている二つの墓は、お菊・お春のものである可能性は低い。その推定する理由は明瞭である。三波川小柏氏とお菊は直接の関わりを持っていなかったのだ。また年代的にもかなりの開きがある。

お菊をここに葬るとなると熊倉山から、その遺体を降ろして二本木峠を越えて小柏(村)に出て、更に山に登り妹ヶ峠を越えて来なければならない。困難を極める作業となる。

供養塔を建立するのなら納得できる面もあるが、大叔父(竹野の)が救出したかもしれないという、そのくらいの縁の人の墓を作っていたら畑は全て墓になってしまう。戦国時代から江戸初期には周囲の人が死ぬのは、まったくもって日常茶飯事の事だったのである。

人が生れて死ぬ事、その事こそが日々の暮らしだった。外科手術の技術が、格段に進歩を遂げた現代とは生命価値観も違う上、童子・童女のまま亡くなる人も大変に多かった時代である。

妙義町の中里にあるお菊の墓も、宝積寺や熊倉山からは間に富岡市を挟むなどかなり距離があるが、同地にはお菊の実家があったとされているので矛盾は生じない。

小幡家の女中の墓であるとの伝承に真実味が見られるとすると、江戸小幡氏・安中野殿小幡家との関連性が注目される事になるかもしれない。

小幡氏(信真)は小田原籠城から解放されると、信州真田家を頼って上州を退去しているのである。

 小幡信秀・直之父子は幕府から1,100石を給されており厚遇されていたといえる。その「野殿」の地名は今も安中駅の南に残っている。

或いは小幡氏の分家がある法久小幡氏との関連か。

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2007年2月24日 (土)

 小柏竹野の入植期 妹ヶ谷城  

竹野の入植期 妹ヶ谷城

開拓が進み、山を越えた小柏村からも時に応援が来たという事もあり得る。

おそらく三波川の飯塚家を継いだ兄の常氏の協力も得られたのであろう。そして小柏村から、小柏性の人や常氏の二男、三男などの子孫も移り住んで来て、小柏集落を形成したと考えられる。

 現在も諏訪神社を中心として小柏姓の家が8軒も集中している。妹ヶ谷の地名・由来について「鬼石町誌」は黙して何も語ってはいない。伝説の項を見ても妹ヶ谷の地名についての言及は見られない。

妹ヶ谷には現在11軒ほどの小柏姓の家が存在しており、竹野の子孫も分家などして、由緒ある小柏姓を名乗ったものと推測できる。

江戸時代の地境を調停した絵文書を見ると、小柏姓の人が何人か山などの土地を持っていた事が分る。この絵図は小学生が描いた絵のようなものであり、一枚の和紙に描かれてこれ以上はない大雑把な物である。

芝地などの区分は墨の濃淡によって区分されている。ここに現れる小柏姓の人は先述した新三郎の他は小柏平治郎の名前が見える。他には新井徳治郎の名があり、この三人の地境を調停したもののようである。

竹野は後年小柏家に住まいしていたもののようであるが、二男か或いは三男の家に子守などを頼まれて居ついてしまったものか。または離婚して分家した二男の家に身を寄せたのかもしれない。

現在も妹ヶ谷の小柏氏が居住しているエリアの、隣接地に4軒の飯塚姓の家が存在している。余談になるが昔の女性は何度も結婚したものである。子育てや食事・家事の役割を担い、働き手としても大いに必要とされたのである。現代よりも少ないが離婚も相応に存在していた。

資料もなく知る人もない時は、傍証を積み上げる作業によって、ある程度真相に近づく事が出来るのではなかろうか。

竹野が移住した時期をやや強引に推側すれば、1686年頃になるかもしれない。320年程前の事になる。推測してみると竹野の出生年は、1646年頃と考える事が出来る。父の重氏が1602年生れであり、10人目の子となる竹野が生れた時、重氏の年齢を46歳と考えてみた結果である。

三波川小柏氏の子孫の人の話では、妹ヶ谷不動尊の再興が1695年であるとしている。

この事から移住して9年ほど経過してやや落ち着いてきた頃に、不動尊を再興したと考えられ移住年代に大きな誤差はないものとみる事が出来る。江戸時代初期のこの頃は各地で盛んに新田開発が行なわれている。

また「群馬県の地名」を見ると、寛文郷帳には「芋萱」と記載があり、元禄郷帳になると「竹谷戸」の記載がある事になっている。寛文は1661~1672年、元禄は1688~1703年である。

1672年にはまだ芋萱であったが、元禄期(1688~1703)の調査には「竹谷戸」が登場している。したがって1673~1689年の間に「竹谷戸」の字名・地名が出来たとみる事ができる。

先に挙げた入植時期1686年説を補強するものといえようか。

 飯塚家文書(1)に三波川の絵地図が収載されている。この地図には「芋萱」ではなく上妹谷・竹谷戸・下妹ヶ谷と記載がある。

地図の作成年代と、時代がやや近接してくる可能性もあるが、同文書は1716年頃の文書が多く収載されており、矛盾はしないものと考える。

この320年前というのは、小柏定重の三兄弟の子孫が天引へ移住したと云われており、その時期を推測してみると340年程前となり、双方の時代差は20年となり近接している。

これによっても重高の兄弟たちが近隣に移住していった影が窺える。この時代には士農工商の下に、エタ・非人が置かれるなどの厳格な身分制度があった。武士の中にあっても侍士、徒士、足軽などの身分差があった。

 幕府の財政は逼迫し享保の改革が行なわれたのもこの頃である。また新田開発が進められた反面、飢饉や洪水も多く農村の崩壊もあったという。この頃から各地での激しい一揆が起こるようになった。

神道式 お別れ会 

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2007年2月23日 (金)

 「村上」とは何処か Ⅱ

 

 「村上」とは何処か Ⅱ

「姓氏家系大辞典」に記載の「妹が新たに開拓した谷なので、妹ヶ谷の地名が起こったという。」という文章の意味するところ・行間を斟酌すれば、妹ヶ谷にはそれまで地名・字名がなかったと解釈するのが一番自然である。

「多野藤岡地方誌・各説編」に記載の文章も家系大辞典とほぼ同様である。妹ヶ谷の地名が起こるまではその地はただの山であり、山林原野の類であったと考えられる。

 私の田舎では集落の前にある名のない里山を「前山」と呼んでいた。また北側に山のある所は「北山」と呼ばれていた。

 開拓前の妹ヶ谷もそんな風にとられ、呼ばれていたのではなかったか。「竹野」が開拓して「妹ヶ谷」の地名となっていった可能性が高い所以である。

さて次の問題は現在の地名には見つからない「村上」は何処であるのか?という事になる。明治14年の地理雑件による「群馬県小字名索引」を見ると、邑楽郡の田谷村と日向村に字名として「村上」がある。

邑楽郡は太田市と栃木県の足利市の間に位置しており、これはあまりにも遠すぎる。そこで間違いを恐れず大胆に比定してみれば、その村上の地は現在の下妹ヶ谷ではあるまいか。

先述したように竹野の兄、常氏平右衛門の婿入り先の飯塚家も下妹ヶ谷と見られる。

此処では、新資料が発見されるまでは「村上」は下妹ヶ谷にあった字名としておきたい。

三波川の清流は東御鉾山にその源を発し、上妹ヶ谷を通って下妹ヶ谷を通って桜山の麓を流れ、神川町に向かって流れている。妹ヶ谷付近の北方から滝の沢が合流する辺り、上姫神社・東養寺のある辺りまでが、開拓され耕地があった限界ででもあったのだろう

その辺りから上流が村のうえ、川の上を意味する「村上」と呼ばれていたと想像できる。そこは村の一番上流に当たり、そこから上に登って行くと東御鉾山の山腹に突き当たり、道は行き止まりとなってしまう。

「村上」の辺りでは芋(自然薯)や萱が取れたので、その季節になると下流の村から村民が採取に来ていたのだろう。このため時に「芋萱」と呼ばれた事もあったかもしれない。

しかし入植者が増えるにつれて、芋はなくなり、萱場は畑へと変貌を遂げて芋萱の面影はなくなってしまった。やがて小柏氏の妹が来た..妹が切り開いた谷..と人々の口の端に上るようになり、幕府へ提出する公文書などにも「妹ヶ谷」と記載されるようになった。

そして村上と呼ばれていた土地は、いつしか「妹ヶ谷」という名と文字に定着していったと考えられる。上日野にあった「榎谷戸」という小字名もいまでは使われていない。そこは現在の「坂野」である。

この「榎谷戸」の地名も、小柏正系図の中にその子女の嫁ぎ先として記載されていた物である。してみるとこの「村上」も小字名であって現在は消えてしまったものであろうか。

さらに、以上の比定・仮説の傍証を支え得るものになりそうな絵図がある。飯塚家文書の中に見い出したものである。幕府が“地境”を調停し、絵図として交付した物と見えるその絵図には、雨降山と思える山の峰が三つ描かれている。

そしてその麓にラフな線が引かれ、東小柏新三郎、北新井徳治郎などと書かれている。なお、絵図と別項との両方に次の字名が記されている。字「熊燈釜」字「思火久保」字「二タ木釜」字「臼倉」の四字名である。

三波川の雨降山の麓辺りに、これ等の字名があったという事である。近隣の人もこれ等の字名を、いま覚えている人は少ないのではあるまいか。

この他、飯塚家文書(1)を見ると、三波川には数多くの小字名があった事が分る。次に列記してみる。

かんばきちょうご沢 かつきくね 上之くぼ かきのくぼ わせくり沢 おノくぼ(尾之久保) たき山 はりまがいと 柳のくぼ 西くぼ 長くぼ 竹ノはな よこ鳥 龍之沢(たきの沢) ねこかいと はた沢 大平 高之内 はんにゃ塚 高辻 松山 坂本坂 若社 中之久保 中林 牛之平 ししなご山 よしの入 しおなし 明か沢 久保之背戸

沢入 長畑 中之久保 上之山 若林 宮之沢 なみ木 みやえ之沢 かき之木平 矢のたわ あかけ沢 山之鼻 馬之平 宗沼 高石 久保之畑 とかけ場 

うへえ(之)山 瀧山 鬼岩之畑 たちう場 天狗岩 神なら 大門 宮向 丸畑 長とろ はまへ場 堂之うえ さい之神 

中山 宿長 赤岩 小すち 芝原 ふがめ 沼之平 長久保 松山 坂本 木おとし 中之平 森脇 松之久保 ささ山 上之平 まみね 堂のうえ おじ久保  

明らかに小字名と思われるものを挙げたが、この他にも屋敷前とか堂下とか向平岩、横道下など、かなりの小字名があったようだ。これにより江戸時代の三波川では場所を示す(話す)時はこれ等の多くの字名で示していた事が判明した。

「村上」という字名もこれ等忘れられた字の内の一つであった可能性がある。

Photo_39

        飯塚家文書より

そして竹野が本道から横の小川沿いに少し入った「竹谷戸」へ入り、耕地或いは萱場を開拓したので、そこは「竹の谷戸(かいと)」と呼ばれた。

折からの不景気でここにも人がやって来るようになり、竹野は更に上流に向かい上妹ヶ谷に耕地を開拓する。

この時には移住してきた人や家抱たちに手伝ってもらい、その経験から竹野が指揮をとったのではなかろうか。三波川の家抱は上日野地区よりも早くに解放されたが、この頃は本百姓一家で平均して3人の家抱を抱えていた。

小柏氏の妹の「竹谷戸」の上だから、そこは上妹ヶ谷と呼ばれ、竹谷戸の下流にある耕地付近は、村の(いちばん)(うえ)の意味が薄れ「村上」から次第に下妹ヶ谷と呼ばれるようになっていったと推測する。

なぜ飯塚の名前でなく妹(妹ヶ谷)になったかといえば、その頃の小柏氏の影響力が大きかったからと考えられる。

 

「村上」の候補地をもうひとつ挙げるとすれば、「小野上村の村上」になろうか。この地の「村上」には飯塚姓の家が20戸ほど現存している。かなりの勢力を持っていたらしく江戸時代には名主を勤めても居る。

群馬県内の殆どの飯塚氏は、源氏車の家紋を使用しているが村上の飯塚氏も同紋である。仮に「竹野」が嫁いだ村上が小野上村とすると、どんな縁でこんな遠方に嫁いだのか、どんな事情で三波川に移ったのかの説明が難しい。

上日野周辺では「村上」はおろか「小野上村」の村名も知られていない。当然小野上村の地理や歴史・風俗も皆目知られていない。

こうした場所に嫁いだとしたら「村上ノ住人」という表現ではなく「小野上村惣兵衛の妻」と記録されてしかるべきと思われる。

小柏氏の縁戚は奈良山・細谷戸・坂野・上日野(小柴・小此木)・箕輪・三波川・天引・塩沢・多比良・小幡・福島・白倉・藤岡・南牧・高瀬・倉賀野などの近隣であり遠くても松井田である。

また小柏氏と縁由の深い三波川の飯塚氏は、軍配団扇の家紋を使用していて他の県内の飯塚氏の家紋とは異なる。

「奥ノ反」付近に村上の字名があればとも思うが、これら近隣に同字名は見つからない。状況を総合的に見ると「村上」は下妹ヶ谷の地にあったとする事が一番しっくりくる。

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2007年2月22日 (木)

 「村上」とは何処か Ⅰ

「村上」とは何処か Ⅰ

八郎左衛門を最初に名乗った重高の兄弟は11人もいたので、近隣に嫁いだり移り住んだりして小柏氏の影響力を広げたものと考えられる。

鼠喰城を築城し宝篋印塔も建立した重家の時代が、小柏氏の第一期の黄金時代であったとしたら、小幡一族と共に戦国の世にその名を轟かした高政・定政父子の時代が第二期の黄金時代。

そして黒滝山に名僧潮音を招請し、不動寺を建立し開基となった重高の時代は第三期の黄金時代にも相当すると考えても良い。重高の次に八郎左衛門を名乗ったのは記重権八郎である。記重の妹は二人居るが、一人は早世しており、もう一人は藤岡の庄田家に嫁いでいて竹野となる可能性は低い。

また時代もかなり降ってきてしまい年代的にも合わなくなる。したがって多野藤岡地方誌のいう八郎左衛門はやはり重高という事になる。

 重高の跡を継いだ弟吉重も仏教に深く帰依し、同寺二世の月浦和尚に教えを受けており、不動寺にその建影碑があるとされている。三波川小柏氏もいま尚、不動寺との深い縁由を持っている。重高・吉重・竹野の兄弟であるから、結びつきが深い訳も十二分にうなずける。

これより重氏の五女・重高の妹を「竹野」と呼ぶ事にする。竹野の二つ上の兄、常氏は三波川の飯塚彦右衛門の養子となって、平右衛門を名乗り飯塚家を継いでいる。

戦国期以来の系統を引き継いでいる、三波川名主家の飯塚家の一族であろうと思われる。

「飯塚家文書1」には近世の行政文書約6,000通の目録が収載されている。

同文書の目録を丹念に見ていくと「組頭彦右衛門」の名前が何箇所にも出ている。公文書の差出人となっている物が多く、1688年から1717年頃の約20通ほどの文書に関わっている。

時代が新しいので後代の世襲名の組頭彦右衛門であろう。同時期の三波川の名主は与市(飯塚)である。また平右衛門の名前は、畑質物手形のやり取りの文書として1695年(元禄8年)に記載がある。

私の仮説では平右衛門の出生年は、竹野より4年早い1642年となり、1695年にはその年齢は53歳となる。したがって此処に記載されている平右衛門とは同一人物の可能性が高い。

もう少し詳しく「飯塚家文書(1)」の記載を見ると、質物として山之はな大道下の畑と植木を取って金子六両を貸している。五年季とあるのでこれがおそらく返済期間であろう。

地主市左衛門、証人太兵衛他六名、組頭二名、名主市太夫と書かれている。これを遡る1680年には逆に畑を質物として供出し、金三両を借りている。此処の記載では下いもかや(妹ヶ谷)村平右衛門となっており、住所地が下妹ヶ谷であった事が分る。

常氏が養子に入った飯塚彦右衛門常清家には以前、重氏の姉が嫁いでおり常氏にとっては叔母に当る。

つまり常氏は叔母が嫁いだ飯塚家を継いだのである。これ等の縁由から竹野は飯塚家に嫁ぐ事になったのであろう。昭和中期に長く鬼石町町長を務めた名主家の飯塚馨の前々代にあたる、三波川村長の飯塚清は下日野の小此木家から養子として飯塚家に入った。

この小此木氏との関わりは不明ながら、小柏定政の養女が小此木吉左衛門兼佳に嫁いでいる。さらに近世において小柏舘の最後の住人となった小柏逸が、三波川の飯塚時五郎に嫁いでおり、小柏氏と飯塚氏との縁由は深いという事が出来る。

こうした事から竹野が嫁いだ村上の住人、飯塚惣兵衛春猶もまた三波川の飯塚氏である可能性が高い。

「飯塚家文書1」を見ると惣兵衛の名前は9箇所に記載があるので、三波川の住人に「惣兵衛」なる人物がいた事は間違いない。その文書の確認されている年代は1666年から1834年までに及んでいる。

この間168年間に亘る。やはり世襲名であって、父子数代にまたがって名乗られたもののようだ。竹野の出生年を1646年と推定すると、1666年の同文書に記された惣兵衛はひょっとすると竹野の両人になるかもしれない。飯塚家文書(1)には次のようにある。

一札の事(午夏中御本丸様へ指上ヶ候小麦代鐚百六十四文御公儀様より被下候を貫納之割ニ指引請取)寛文六年六月十日 惣兵衛、太兵衛、三右衛門、三右衛門、(ママ)三郎左衛門外芭地名八名

 十名の連名で惣兵衛が筆頭・代表者になっている。文政十年(1827)に奉行役所へ提出した文書には「三波川村百姓代(代表)惣兵衛」と記されている。また享保十七年(1732)の文書には「小平村惣兵衛」と記されている。

 したがって、この惣兵衛は下三波川の小平村に居住していたもののようである。(小平村と妹ヶ谷では三波川の西端と東端とになってしまう。)

尚、後年小柏八郎治の娘逸が嫁いだ飯塚時五郎は、時の三波川村戸長の飯塚与一郎の親戚である。

時五郎は秩父事件が勃発しようとして風雲急を告げる頃、藤岡警察によって没落農民を纏めるよう「雑商人世話役」に任命された。警察は没落農民を村単位の組合に纏めて監視する政策を採ったのである。

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2007年2月20日 (火)

妹ヶ谷の開拓者 竹野(小柏)

 妹ヶ谷の開拓者 竹野(小柏)

 妹ヶ谷の地名由来

 群馬県姓氏家系大辞典(角川書店)の、鬼石町の項に次のように出ている。「三波川字妹ヶ谷の小柏氏は、藤岡市上日野の小柏氏の妹、竹野が分家したと伝え、妹が新たに開拓した谷なので、妹ヶ谷の地名が起こったという。」

「竹野」は八郎左衛門の妹と伝えられている。「多野藤岡地方誌・各説編」には日野村小柏の小柏八郎左衛門の妹、竹野が開拓したので「妹ヶ谷」と名付けたという。

とある。八郎左衛門は江戸時代以降に時々世襲された名前である。一番可能性の高い八郎左衛門は、黒滝山不動寺の開基となった一燈居士、重高である。その逞しかった妹とは重氏の五女(重高の妹)ではあるまいか。

小柏氏正系図にある五女が嫁いだ「村上」とは何処なのか、いまだ判明していないが、同系図には遠隔地であれば、武州とか松井田の庄とか藤岡の住などと頭につけて記載してあるが、村上の住としてあるだけで頭につける町名の記載はない。

この事から上日野の近くであって誰もが知っていた地名・村名であったのだろう。してみると「飯塚家」に嫁いだとあり、近隣で飯塚家といえば、かねてより縁戚となっている三波川の飯塚家とするのが必然の結果となろう。

現在の藤岡市鬼石町である。妹ヶ谷は三波川の少し上流の地であるので、その近くに分家した家であった可能性も考えられる。

伝統に基き、系図にはその名前がなく、女子とのみ記されているのが口惜しいといえる。小柏家の女子は大力があったと、何人かの逸話が残されており、後世に伝説を残すほどであった事から、この五女も自ら鋸・鍬を取って開拓にいそしんだものと推測はされる。

 

 飯塚家文書1(県立文書館収蔵目録)の三波川の概要によれば、同村は三波川に沿って東西に長く、18の耕地が点在する山間部の村落である。面積は広いものの地形は丘陵地或いは山地で起伏に富み、急峻であるため水田はなく、僅かな畑地は傾斜地を利用しているとある。

 明治13年の戸数は248戸、人口は1099人である。その他、社13戸、寺1戸となっている。

 「鬼石町誌」には徳川初年の割付石高芋萱村33石6斗とあり、譲原村などでは1728年に「満水愁作水損災害」と記されていて、相当の被害が出たようである。また天明年間の1783年には浅間山の大噴火があり、妹ヶ谷一帯にも40センチほどの降灰があった模様である。

 この当時の時代背景を考える上において注目するべき記事ではある。年貢は各戸の生産高の半分とあり、現代の税金と比べてもかなりきついものであった事が分る。

 三波川における1733年の人口は1,511人とある。

明治8年頃の編集と見られる「上野国郡村誌」によれば、三波川の字地に、下妹ヶ谷、竹谷戸、上妹ヶ谷の名ありとしている。戸数は248、社13、寺1、計262戸、人口1,990人。(先の記述と出典は同じ物のようだ)

民業は猟業23戸、製茶8戸、薪炭180戸と出ている。また諏訪社は四社あり、村の中央に2、村の西に2あり祭神は建御名方命、祭日は7月25日。鹿島社は村の西にあり祭神は武甕槌命、祭日は9月19日。と記載がある。

 妹ヶ谷は古くは芋萱と書き、芋ヶ谷と書いた事もある。現在は妹ヶ谷になっている。

この事から芋・萱が採れた場所という事が推定できる。また萱は江戸時代などには、大事な資源であった事から、萱が採取できる萱場は耕地同様で重要な意味を持っていた。

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2007年2月19日 (月)

 黒滝山 不動寺 Ⅲ

  黒滝山 不動寺 Ⅲ

 

「藤岡市史通史編」にも潮音と小柏氏の次のような記事がある。

山岳霊場の地、黒滝山不動寺は潮音道海が中興開山となった。開基となったのは南牧村の市川半兵衛、白石六郎左衛門、小柏の郷士小柏八郎左衛門重高(六代)らであった。

 小柏氏は日野小柏に土着した郷士、日野七騎の筆頭で、当地の名主を代々努め「小柏様」と呼ばれた在郷地主であった。小柏氏は「小柏系図」によると平純基を開基とし、代々北条氏、管領上杉氏、武田氏に属していた。

特に十八代小柏定重は庄司源六と称した「大力無双」の士であった。小柏源六親子は武田氏の武将となり戦功を立てたが、天正三年(1575)の織田信長・徳川家康との長篠の戦で奮闘し討死している。

また小柏源六は小幡お菊伝説で知られており、その名は童歌にも「蛇もムカデもどーけどけ、小柏殿(どん)のお通りだ」と歌われた有名な武将であった。

この童歌は小幡氏の側室お菊が蛇責めの刑を受けたものを、源六が助けてやったのでこの歌を唱えて行けば、決して蛇(マムシ)に噛まれないという蛇よけのマジナイであった。

 源六(定重)から六代目に小柏八郎左衛門重高がいた。重高は砥沢の市川宗家と縁続きであり、しかも信仰が篤く黒滝山の潮音禅師に帰依した。

重高夫婦は剃髪し、重高は一燈居士、妻は姉高大姉となって開基に加わった。小柏氏の菩提寺養命寺で出家した行者「祖源」が、黒滝山で修行し潮音の弟子となって高源と改めた事も黒滝山との結びつきをより深いものにした。

 なお、上日野の小柏家の西方の火口山に滝があり、延宝年間に潮音禅師が在住した滝壺のほとりの草庵跡には今も石垣が残されている。

 

 仏教に深く傾倒していた重高はこの頃、養命寺の本寺でもある宝積寺にも半鐘を寄進している。

「宝積寺史」には小柏重高が寄進した半鐘について、貞享四年(1687)四月作、高さ五十九センチ、口径三十五センチ、鋳造人西宮四郎兵衛。この鐘は20世仏舟海代に小柏一燈居士が寄進した物である。としている。

 重高はいま、不動寺の奥まった位置にある開山堂の中央に、木像として黙然と端座している。そのたおやかな表情はお参りに訪れる人々を迎えて、祝福を与えているようにも受け取れる。

 開山堂の内部は土間造りで敷石畳になっている。広さは五間四方というから25坪ほどになる。正面には等身大の潮音の寿像があり、両脇に三十センチほどの開基者の木像が鎮座している。

 小柏重高・吉重父子(実は兄弟)の象と位牌が並び、重高室妙香・市川半兵衛・白石六郎左衛門の開基となった四人の木像が鎮座している。(吉重を除く四人)六郎左衛門は黒滝山の土地を寄付し、半兵衛は重高と縁戚であり、かつ六郎左衛門の仏道に掩護を与えていた。

 この四人が開創・開基となり潮音を請じて、黒滝山不動寺を開山したのである。開山堂には、後に一切大藏経を寄進した栄三禅尼・御代田の普賢寺に梵鐘を寄付した吉重の木像が安置された。

この六体の木像は1852年の山火事で、開山堂が類焼した時も寺僧と近隣の人々によって一時避難し類焼を免れた。

 白石六郎左衛門は、小柏山養命寺において出家し祖源の法号を唱えていた。後に黒滝山に戻り、巌窟にこもって20年間の修行を重ねていた。近在で開かれた潮音の説戒に現れ、問答を仕掛けその結果潮音に師事し名も高源と改めた。

 小柏重高・白石六郎左衛門・市川半兵衛そして潮音の四人は奇しきも不思議な縁で結ばれていたのである。(「関東の仙境黒滝山))

 黒滝山不動寺にはこの他、黄金色に輝く金体不動明王があり行基の作と伝えられている。「不動堂」に安置され十二年に一度、開帳されるだけである。平素は小柏重高・吉重両人の寄進した厨子の中に納まっていて、その扉は固く閉ざされている。

 小柏重高の弟(重氏の二男)、重弘は白倉村の山田家を相続し、山田與惣右衛門を名乗り後に全當と号した。妹(重氏の長女)は榎谷戸村(坂野)の小柏彌五兵衛光高の妻となり法名を慧観という。

その長子の光氏は中俵家を継ぎ中俵作重郎となり、二男高行彌平治が榎谷戸家の家督を相続した。

 小柏彌五兵衛光高の長女は重氏の二女(養女)となり、高崎城主安藤右京進重長の家臣金井重兵衛勝光の妻となって法名を妙林とした。

重氏の三女は藤岡の住人、桜井五兵衛勝行の妻となった、法名は逞心とする。

 重氏の四女は始め沼田城主、真田伊賀守信利の家臣、堀田九兵衛近忠の妻となり、後に藤岡の広瀬左源太季孝に嫁ぎ法名を光心とした。

小柏重氏の四男徳氏は丑之助と称し後に宗莫と号した。真田伊賀守信利に仕えていたが、真田氏が沼田を立ち去ってからは小柏村に戻った。

 五男の常氏は三波川の飯塚家彦右衛門の名跡を継ぎ、飯塚平右衛門と名乗り、法名を了真とした。

六男、吉次は小柏権右衛門であり、後に又兵衛と改めた。摂州尼崎の城主青山大膳亮幸利に仕えていたが、後年浪々とした暮らしを送った。後に甲斐の徳本流の医師となり露休と号し小柏村に住んだ。

重氏の五女は村上の住人、飯塚惣兵衛春猶に嫁ぎ、法名を貞真とした。(竹野か)

六女は松枝(松井田)の松本勘兵衛清房の妻となった。重氏の長男重高には嗣子がなく、本多家に仕えていた弟(重氏の三男)の吉重が養子となり、小柏家の家督を受け継いだ。

吉重は初め平吉と名乗っていたが後に権兵衛と改めた。その法名を一桂といい、不動寺には吉重の建影像が残されている。

「群馬懸多野郡誌」によれば、吉重は黒滝山二世の月浦和尚について禅を学び、和尚が浅間山に普賢寺を開いた時には梵鐘を寄進した。その鐘は今も同寺に残っている。(同家系図及び古文書、小幡伝説)と記述している。

同誌では小柏家に伝わっていた系図以外の古記録「別記」を、ここで「家系図及び古文書」としている。この表現は家系図と古文書が一繋がりになっており、家系図と古文書がセットで有った事を示している。

文書舘や他の旧家にあった古文書であれば「家系図、古文書、小幡伝説」と記述する筈である。もしくはただの「古文書」では、何が何だかさっぱり分らず真偽の程が疑われるので、題名や所蔵家の名前を記すのが当然である。

史書を編纂するほどの歴史研究家であれば尚更の事、その責務ともいえるところである。したがって、題名のない古文書は同系図に記載のある「別記」にほぼ間違いないとみられる。

家系図と密接な関係を持っている古文書であったから、題名を記さず「家系図及び古文書」と二つを一つの物(セット)として表現したのだろう。

系図と関係のない古文書であれば「人別帳」とか「宗門改め帳」とかその文書の題名を必ず記す筈である。或いは表紙の付いた冊子にはなっていなくて、多くの古文書と同じように、ある年代(又は事跡を遺した人物)ごとに一塊になっていたのかもしれない.

この記述によって小柏家に、系図を補填する先祖の事跡を記録した「別記」があった事がほぼ明らかとなったと言える。この正系図が縦糸となり、「別記」が横糸の役目を担って小柏家の歴史を連綿と伝えてきたのだろう。「多野郡誌」の、この項を執筆した担当者は自分の目で「別記」を閲覧し執筆したものであろう。

 「甘楽町史」も「多野藤岡地方誌各説編」も吉重を一柱と記しているが、小柏氏正系図では一桂となっている。よく似ている字なので誤写であろうと思われる。

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2007年2月18日 (日)

潮音と重高の不動寺 Ⅱ

潮音と重高の不動寺 Ⅱ

 潮音は臨済宗の高僧であり、黄檗宗黒滝山派の開祖となり、不動寺は多くの末寺を造り隆盛を極めた。「謎の根元聖典先代旧事本紀大成経」(後藤隆)によると、潮音は延宝三年(1675)に「聖徳太子の五憲法」という本を出版したという。

 同年は上日野小柏村に滞在していた年である。とすれば潮音は重高が建立した草庵で執筆したものか。

この本を出版した版元は江戸の戸嶋惣兵衛であり、「神代皇代太成経」七十二巻本の版元と同じという。この大成経(先代旧事本紀)は多くの人が潮音の著作と考えているが、後藤隆によれば、潮音が出版に関わっていた事は事実であるとしている。後藤隆はこの七十二巻本が十巻本、三十一巻本の原典となったという。

(通説では平安時代に十巻本が成立し、江戸時代に至って三十一巻本、七十二巻本の順で成立したとされている。)

「先代旧事本紀」は学会からは無視され、幕府によって発禁処分となったりしたが、好事家や研究者の間で論争を巻き起こした書物である。

数種ある先代旧事本紀異本の中で七十二巻本を信奉する人たちは、これこそ聖徳太子が著した「先代旧事本紀」の原典であるとする。確かに「古事記」や日本書紀」には書かれていない事柄なども、詳しく書かれていて真実味が伝わってくる本である。心情的には真実が書かれていると思いたいところである。

 七十二巻本が潮音の著作になると見られるのは、同書に「聖徳太子の五憲法」の内容と全く同じ記述がある事によるという。

 伊勢神宮の訴えを受け幕府は戸嶋惣兵衛を追放、神道家長野釆女、潮音、伊雑宮神官を流罪とした。竹野の子孫という人の話では、長野采女は箕輪城主の長野業政の子孫で、潮音に先代旧事本紀を見せたという。

高名である潮音が来ているとの噂は、近在に広まっていたのではあるまいか。そして長野采女も訪れて来て一緒に「先代旧事本紀」の出版に関わったとみられる。

長野采女は神道家であるが、当時は寺社と神社は混在しており比叡山も高野山も神道を否定せず、むしろ肯定していたのである。

近代まで養命寺の山門前に不動堂があった。養命寺に向かって参道の右側に古いお堂があった。(別掲写真)潮音が開山した黒滝山の不動寺にも同じ名前の「不動堂」があり、時代にはずれがあるものの、その関連が注目されるところである。

     養命寺の不動堂  左奥が養命寺  (藤林伸治資料)

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2007年2月17日 (土)

旧事大成経と草庵

 

旧事大成経と草庵

 潮音は広済寺在住の延宝七年に偽書とされる「旧事大成経」を編纂、同書で伊勢の皇太神宮を別宮とし、本当の天照大神の本宮は同地の伊雑宮であるとしたために伊勢神宮から告訴を受けたが、裁判の結果将軍の母が帰依僧ということで流刑を許され、黒滝山へ転住させられた。(広文庫)

 「潮音年譜」は天和三年(1683)の項に「師かって官寺を厭うの志あり、万徳を辞して補陀に入らんと欲す。諸檀護黒滝に住せんことを請う。七月一日、黒滝に入る」と記され、さらに「南牧に隠れてより南牧樵夫と号し、偈を作りて志を示す」とあり、ここで三年の謹慎をしたという。

 この三年を過ぎた後、再び活動を開始、百数十寺の末寺を持つ名刹とし、黄檗宗黒滝派を開いた。(磐戸村郷土誌)潮音は天和三年より元禄三年(1690)まで在住して中興に力を注ぎ、堂塔伽藍を整えた。

 遠国からの入山僧も多かったとみえ、彼らの不自由さを見ていた塩沢村の市川好等は、宝暦十二年(1762)祠堂金五両を寄進し、年二分と定めた利金を与えるようにしている。(「祠堂金寄進状」市川文書)

 現在の山門は寛政十年(1798)の再建で、潮音筆の「東海禅窟」の額が掲げられ、不動堂は天保四年(1833)開山堂は明治二十一年(1888)の再建である。不動堂の裏は、岩が削り取られたように内曲し、上方から黒滝泉が落ちている。開山堂の裏には「潮音海老和尚寿塔」と刻まれた岩窟があり、潮音の分骨が納められている。

 また境内には目通り6.6メートルの県指定天然記念物の大杉がある。

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 「多野藤岡地方誌各説編」には次のようにある。

 小柏源六の項 定重から六代の八郎左衛門重高(一燈居士)は妻(妙香大姉)と共に、館林の潮音和尚に禅を学んだ。

村内に草庵を建て潮音を迎えたが、潮音の志望によって甘楽郡黒滝山に不動寺を建立し、夫婦の木像が同寺に現存している。一燈の子一柱は同寺二世の月浦和尚について学び、和尚が浅間山に普賢寺を開いた時に梵鐘を寄進した。小柏氏は江戸時代には名主を努めるなど土地の名家の一であった。

 潮音庵跡 上日野小柏火口山(ひのくちやま)にある。小柏八郎左衛門重高の師、潮音が数年間在住した草庵跡であるが、遺蹟保存のため観音堂を造り大正十三年九月に黒滝山から潮音の彫刻という正観音像を移して入仏式を行った。

 重高は一燈、妻は妙香と号して仏教を信じ、当時館林の広済寺潮音和尚について禅を学んだ。

潮音が故あって同寺を焼いて跡を暗ませ一燈家に隠れた時、潮音のために寺を建てようとして草庵を造ったが、潮音が南牧村黒滝山を希望したので、一燈が開基となって不動時を建立した。潮音が小柏に在住した事は次の史料で明らかである。

 

 維持延宝五丁巳年過小柏梅屋元香居士曇華室 

 法王示現曇華室 頂礼帰依作雁行 一語分明須記得

 慈悲直実子孫昌    臨済正伝三十四世 万徳潮音書印

 貞享丙寅之孟秋栄三道婆一燈居士及了源幽斎ニ老翁登山省侍偈以志喜

寿星遠聚黒滝峯 山色増光映疎林  禅脈永流弥勤会 莫忘扶法護宗心

黒滝潮音老人手書 花押  (小柏家蔵・偈)

 潮音が小柏におったのは延宝(1673~)から貞享(1684~)の間で、貞享三年には黒滝に行っていることが偈でわかる。正面観音に添えて潮音の位牌がある。

 黒滝山開祖上潮下音海老大和尚覚位。

 中略 多野郡誌によれば、当時火口滝つぼの洞穴から湧き出る泉は酒となり、潮音の毎夜の食膳に不自由はなかったという。

毎夜の食膳に不自由はなかったという。

 

 先の文章中の「小柏家蔵・偈」の偈とは経文のような物とされている。おそらくは潮音が重高のために薄い木板に手書きして、感謝の気持ちを表したのであろう。その大意は仏法は生き様を教え示してくれる。

(我々)仏弟子は五体投地の精神を持って、御仏の後ろを雁行のようにして、ひたすら奉じていきましょう。黒滝山に久しぶりに、登山され訪れて来てくれて嬉しく思う。いま黒滝山の峰の木々の色は増えて、林は光があたり映えている。法を守り援けてくれた事は忘れない。

と解しておこう。

一燈居士は小柏重高・了源幽斎は白石六郎左衛門である。現在までにその偈の所在の確認は取れていないが、こうした偈や別記と称する古文書が存在していた事であろう。他に法政大学や県立文書舘などに所蔵されている、小柏氏の古文書は虫食いなどでの傷みが激しくその数も多くはないが、小柏家に伝わっていた古記録の一端が窺われる。

潮音は卓越した詩人であったらしく事あるごとに、詩作をして偈に刻み漢文調の誌を多数残している。語彙が大変に豊富であり、見た事も聞いた事もない言葉がかなり含まれている。或いは仏教独自の用語も含まれているのだろうか。

その作品は「誌偈集」として纏められている。重高に偈を贈った時の事は次のように記録されている。

一燈玄照居士に示す

鬢髪を削除して 緇流と作す 謂う可し 世間出格の儔と

心眼豁開して 浄穢なく 一燈の照徹す 萬千秋

                          (「関東の仙境黒滝山」)

 

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2007年2月16日 (金)

小柏重高と名僧潮音の黒滝山

 小柏重高と名僧潮音の黒滝山

  重高 黒滝山不動寺の開基となる

 小柏重高については「甘楽町史」に次のようにある。

「定重(小柏)から六代に八郎左衛門重高がある。重高は一燈居士、妻は妙香大姉と号して、深く仏道を信じ上州館林なる潮音和尚について、禅を学び後、潮音を迎えて村内に草庵を建て、此処に居らしめたが、潮音の志望により親戚なる甘楽郡(下仁田)砥沢の市川氏と共に開基となって、甘楽郡黒滝山に一宇を建立した。これが今の黒滝山不動寺である。

同寺には一燈夫妻の像が今に存している。一燈の子一柱は黒滝山二世月浦和尚について学び、和尚が浅間山に普賢寺を開いた時、梵鐘を寄進した。その鐘は今も同寺に残っている。」(同家系図及び古文書、小幡伝説)

 

不動寺開山堂に鎮座する重高像 左から一桂(吉重) 妙高 一燈(重高)の小柏一族 右は丸に釘抜き紋の一燈位牌

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穏かな表情に“和尚さん“の雰囲気が漂っている。 いつでも好日H・Pより

 小柏重氏の嫡男が重高である。重高は四代目でありなぜ六代と記載されているのかは不明である。重氏の弟二人を入れたものか、さすれば確かに六代目となる。重高は小柏甚平と名乗り後に八郎左衛門と改めた。

 上日野の小柏舘跡にある石碑・板碑や、鼠喰城への登山口にある石碑には「小柏城城主、小柏八郎を中心として・・」等の文章が彫り込まれている。小柏氏で始めて八郎左衛門を名乗ったのは、重高であるので碑にいうところの「八郎」はこの重高ではあるまいかと推測される。

 「ふるさと人ものがたり」によれば、この頃には小柏家は既に数十戸の家抱や広大な私有地を持っていたとある。

 系譜には次のようにある。

 この時代は自ずから泰平の御世となり、重高は仏道を信じ上州館林に行き、臨済三十三世隠元禅師の弟子の潮音和尚に拝す。夫婦とも弟子になるため法体となる、重高は一燈と号し妻は妙香と号す。

然る後、上州黒滝山に於いて一寺を建立す。延宝年中、彼の和尚を招待す。今もって、拵えた夫婦の影像(木像)がこの寺に存しているなり。詳細は拵えた別記に記録してある。

 

 「群馬県の地名」に不動寺の記事がある。少し長くなるが、下記に引用する。

 不動寺 南牧村(下仁田)大塩沢、黒滝 黒滝山(870m)の南東側中腹にあり、背後に日東巌・星中巌・月西巌の三巌が聳え、前方には五老峰が迫る。黄檗宗で黒滝山緑樹院と号する。

 本尊の不動明王像は行基の作と伝え、寺名は本尊によるという。古くは嵯峨天皇の勅願の道場であったとも伝える。中興は館林広済寺二世の潮音道海。「国志」に「開山潮音道海和尚、潮音和尚館林の広済寺を辞して後、南牧に遊歴す。これより先、黒滝山に山居の僧あり、師を招いて山居せしむ。

 師乃ち僧と共に往きて巌窟の中に禅座す。その為地甚だ霊区なり」

とあり、「名跡志」にも「後上野志に南牧黒滝山不動寺開山潮音道海和尚という」とある。また「大日本名跡図誌」には延宝三年(1675)の創立として「市川半兵衛、小柏八郎、白石六郎、市川清平等の開基也、時に隠元禅師の法孫たる潮音和尚を帰依して開山となす」とある。

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2007年2月15日 (木)

名刀 むかで丸

 名刀 むかで丸

 ごく大まかにこの頃の時代設定かと思われる伝説がある。小柏八郎右衛門は「むかで丸」という名刀を所持していた。ある時、峠の大石に座して一休みした時に赤い鞘のその刀を置き忘れて来てしまった。

 これに気づいた八郎右衛門は後から峠を降りてきた町人に、峠の石の上に刀がなかったかと聞いた。町人は刀はなかったが、大きな大きなムカデが石の上にいてこっちを睨んでいたので、恐ろしくなり慌てて逃げて来たと言った。

 八郎右衛門が峠の大石の所まで戻ってみると、刀はちゃんと石の上に置いたままになっていた。この名刀「むかで丸」は所持する本人が見ると刀であるが、他の人が見るとムカデに見えて脅威を与えたと言う。(ふじおかふるさと伝説)

 小柏定重がお菊を助けた故事から生まれた伝承といえるかもしれない。八郎右衛門という名前は幕末の頃まで小柏系図には現れない。

 八郎左衛門と六郎右衛門の名前は時々世襲された名前である事から、「左」が「右」に誤記されたものであろうか。ちなみに同伝説には小柏氏が4箇所に登場するが、名前は全て八郎右衛門になっている。

 

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2007年2月13日 (火)

江戸時代の小柏氏

 江戸時代の小柏氏

大阪冬の陣

 小柏定政の長男は重氏(1592~1671)であり二男が貞景である。定景は小幡郷の堀口家の養子となって同家を相続し堀口伝内と改めた。法名は浄無である。

 三男が貞實であり福島の住人友松家を継承し友松傳左衛門となっている。法名は半無である。

 長男の重氏は六郎右衛門であり法名を浄安といい七十九歳で没した。系譜に拠れば

妻は城和泉守永盛の娘である。慶長十九甲寅年冬摂州大阪のご陣の節、重氏生年二十二歳にして、関東方の御使い番役の永盛に従い大阪表に随行し大いに働いた。この戦では数多の武功を挙げた。

 また永盛の従臣、熊井戸久兵衛永正は老体であり殊にこの時嬰病痾なり。かつ娘ありて男子なく、よって軍役も勤めがたくなっていた。重氏は永盛の婿永正のためにその陣代を勤めた。この他、事績の詳細を記した別記あり。

 有名な大阪冬の陣に参加した記録である。熊井戸氏は小幡家の家老格にあった熊井戸対馬守の一族であろうと推測される。同氏は小幡城を館城としていたので近隣の武将である。

この頃、元和二年(1616)家康に領地を与えられ信長の二男織田信雄が小幡城主として入国してきた。

小柏家の権勢

 日野谷(ひのやつ)には戦国時代から「日野七騎」と呼ばれた旧家があり、代々名主などの村役人を勤めてきた。日野七騎は小柏(小柏村)、酒井(鹿島)、小柴(岡本他)、黒澤(駒留)、高山(金井村)、栗崎、飯塚の七家で、地主として強大な権威を持っていた。

 「群馬県多野郡誌」では栗崎・飯塚の替わりに柴崎・笠原(後原氏)を挙げて、小柴氏と小此木氏は同一視している。

 七騎といわれる家には、代々「家抱」といわれる半隷属民がおり、10戸から多いものになると、小柏家のように約50戸も家抱がいた。家抱は、大家といわれる地主の屋敷内に住み、労役を提供していた半隷属民であった。

衣服に対する制限も厳しく、絹などを用いれば皆取り上げられた。したがって、日野七騎は江戸時代にわたり絶対的な権威を持って君臨していた。上日野村の名主小柏家は、農民を自宅に呼び出し家抱にする旨を申し渡した。家抱は笠は竹張笠、下駄は切附下駄意外は厳禁であった。

小柏家は見渡す限り一面の山をすべて所有し、一説には三千町歩もの山林を所有していたといわれ、その権威を示す「おえんが荷場」「若宮八幡の由来」などの“小柏伝説”がいくつも残されている事に象徴されている。(多野藤岡地方誌・各説編)

御荷鉾山は古くは八束山と牛伏山とで多胡三山と呼ばれていた。特に御荷鉾山は三山中の最高峰であり、その秀峰ぶりは万葉集にも歌われている。

「群馬県多野郡誌」を見ると御荷鉾山には三峰あり、西御荷鉾山(釜伏)が最も高く(1286)、次いで東御荷鉾山(1246)、亜ぎをどけ(オドケ山1191)と続くとある。

江戸時代には村民がたびたび登山して、雨乞いの祭祀を行なっていた。その跡は今にして窺う事が出来る。別名雨乞山(雨降山)と呼ばれた事もあったようだ。

御荷鉾山の頂上には不動明王の石像があり、鬼が住んでいたが弘法大師に調伏され、この時に大石を投げて去ったという。

その石の落ちたところが今の鬼石町であるとされ、その石は今なお村の中にあるという。江戸時代は木材の需要も多く、小柏家は山の支配権を背景として強大な権勢を持っていた。

山間の地にあっては、やはり山が生活の基盤をなしていた。これらの山仕事は「山稼ぎ」と呼ばれ、山元或いは元締めと呼ばれた小柏家が統轄していた。

山はすべて元締めが支配しているので、山に入るものは元締めを通して申し込むものとされていた。

山の中での事で元締めが承知していない事があれば、不取締り(吟味できない)になるので、全て元締めに報告せよとの公文書も今に残されている。

 家抱とは耳慣れない言葉だが大名家の中間、商家の下男、寺の作男みたいな者であったろう。屋敷内に住居などを与えられ、税金は大家が負担したが労働力として使われた。家族で住み込んでいる者も多かったようだ。この地域独特の制度であったようだ。

 藤林伸治によれば、吉井藩も小柏の自治権を承認し一種の同盟関係にあったとする。そして小柏家の隷属的主従関係や上・下日野村の支配体制を積極的に利用したとしている。

 家康は武田家(信玄)をかっていた為、同家の旧臣の優遇策をとったといわれる。この政策も後押しをして、小柏家も大地主としての権威を徐々に身につけていった。既に江戸時代の初期の頃には、家抱を数十人も抱えていたという。

 幕府の政策により権力を築いていったとしたら、約二百六十年後の明治政府の財政再建政策により、没落のきっかけを蒙ったのもまた廻り合わせの成せる業か。

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2007年2月12日 (月)

 春山大明神の記

  

 春山大明神の記

                                        

 「甘楽町史」に、南牧村の市川家が伝えている、春山大明神の伝説が収載されている。あまり知られていないこの伝説を最後に紹介しておこう。

 以下は南牧村星尾出身の市川氏の調査によるものである。

春女並びに菊女の伝説(春山大明神の記)

春山大明神(甘楽郡南牧村星尾仲庭、地蔵堂敷地内)祭神(春山大明神=春女)例祭(913夜の当日=旧暦)天正十五年頃(1587)国峰城主小幡上総介の家臣に甲斐国巨摩郡藤井の庄よりお召抱えの菅根正治と云う者がおり、才色兼ね備えたお春、お菊という二人の娘が居た。

ある時二人は、殿様の侍女として仕える事となった。

美しい姉妹は殿様に、格別に可愛がられたので、同輩たちがこれを妬み、殿様に差し上げる食膳の中に縫い針を入れられて、二人の姉妹の仕業として疑われ、殿を害する心ありと妹菊女はとらわれ、領内引き回しの上、桶に首だけ出して桶の中に蛇数匹を放ち、これを小幡藩主の菩提寺である宝積寺の、熊倉という山の中ほどにある池(菊が池)へ投げ入れた。

のち、この池のまわりに蒔いた煎りゴマの花が咲いたので、お菊の怨念ならんといわれた。菊女の処刑の際、何か言う事はないかと問われ、国峰の舘の見える宝積寺裏の熊倉山を処刑の場にしてくれと願った。

 これは熊倉山へ行く途中、宝積寺境内を通るので、その際、和尚が必ず命乞いを願ってくれると思ったが、命乞いをしなかったので以来寺が全焼したりなど、宝積寺へ祟ることしばしばで、寺の山門は何度建てても火災にあい、名刹でありながら今だに山門のない寺である。小幡藩滅亡もまたよりどころない二人の怨霊の祟りと言われている。

 くだって明和五年(1758)お春、お菊二人が、とかく宝積寺に祟りをするので、同寺二十七世万仞和尚は二人を金毘羅に祭り、石の祠を造りお春とお菊両名の名を刻み、寺の鎮守としてからは寺へ祟らなくなったと言う。

 石祠の文字は次の如くである。

 眷属夜刃 明和五年万仞立

 金毘羅大権現 宝積寺鎮守

 菊池山神

 姉のお春は逃れて、一路西の方へ向った。そして、ようやくのはて辿り着いた所は、山深い里、南牧村星尾仲庭の市川勘解由の屋敷であった。お春が救いを求めたので、主は屋敷内にある厩の、干草の内深く隠し入れたが、槍を手にした追っ手の者たちの手にかかり、干草が怪しいと見られ干草の上から盲刺しに突き刺されて、哀れにも殺害された。

 その日は913夜の月の夜であった。お春は絶えんとする息の底から、私が死んだら骸の上に煎りゴマを蒔いて下さい。必ずゴマの芽を出して、無実の証としますと未練を残してこの世を去った。

 お春の骸を埋葬し、言い残した言葉どおり、そのまわりに煎りゴマを蒔いたところ、ゴマの芽が生えてきたのでその不思議さに驚いた。

またその後、お春の殺されたあたりで、女の悲しい泣き声がする事があったので、仏の霊が浮かばれずにいるのであろうと哀れに思い、手厚く供養してきたと伝えられてきた。

 後年、病人が続き、また直りにくい事があったので、神職に病い平癒の祈願をお願いしたところ、お春様を大明神に祭り社に安置すれば、よいとのこと故、早速お祭り申し上げたところ、霊験きわめてあらたかに、今までの難病もたちまちに治ったと言う。

以来、毎年9月13夜の日を祭りの日として、この日は社にお神酒、供え物等し、また赤飯を炊き村の子どもたちに分け与えて春山大明神の功徳とした。

 なお市川家では(現戸主、十三代喜義)代々、ゴマを栽培する事とお春、お菊の名を子どもにつけることを禁じられている。

 昭和5310月家祖市川勘解由13代孫 市川盛敏(茂)調記

 

 (注)宝積寺古文書を参考にする事多し、現在も星尾あたりでは、墓参の時、墓地及び墓碑などに、生米など穀物を播き供え供養する風習がある。

 以上

 お菊伝説は諸人のうちに広まり語り継がれ、やがて宝積寺の鎮守となり霊験新たかと信仰され、多くの人が参詣するようになった。いかに諸人の中に浸透していたか、歌が唄われるようになり、その歌の数が多い事からも読み取れる。歌は長文なので、『宝積寺史』の中からタイトルと作者だけを列記してみる。

 述懐 反歌 作詩 新井守村 (長歌)

 お菊一代記八木ぶし 作詩 水沢天外散人 校訂 西有穆堂

 お菊さま 作者 不詳 (甘楽町史収載)

 菊女伝説 作詩 田村貞雄

 

「述懐」は国学者守村が、龍蟄が妙義町中里の菊女の墓に添碑を建てた時に、その霊前に捧げたものという。お菊一代記は、小冊子として刊行されたという。お菊さまは念仏講で、女衆が唱えて甘楽町秋畑では、昭和50年代まで歌われていたという。

 どの歌もこの稀代なるストーリーを織り込んでお菊の悲しみを歌っている。小幡龍蟄は明治維新後、明治四年に岩手県権知事に就任している。

祖先の足跡を生涯に亘って調査し、多くの史料・著書を残し、明治29年に70歳で没した。松代藩(真田家)の中老職にあり五百石を給されていたとされる。  

「宝積寺史」によれば、永久保貫一氏が同寺に調査に来た他、全国に伝わる[お菊伝説]について研究し本を出版しているという。その説によるとお菊伝説の根源地となった松代、姫路、行田、江戸、彦根などに伝わるお菊伝説は小幡一族やその家臣が伝えた物という。

また皿屋敷伝説もお菊伝説と一緒に、或いは同伝説が発展した物としてか同時に伝えられた物のようだ。

 三波川の妹ヶ谷を開拓した「竹野」(小柏氏)の子孫という人から頂いたコメントによると、三波川の竹野が来たと伝えられている小柏家の墓地には小幡家の女中の墓と伝えられている墓が二つあるという。

 また三波川の小柏氏では胡麻の栽培が禁止されているとの事である。食材の胡麻を煎る時も、一粒でもこぼれたらその胡麻から芽が出るとして慎重に扱っていたようだ、という。

これ等の伝統・伝承はお菊伝説を如実に物語っているかのようである。お菊伝説に

は骨子となる事実があった事を窺わせるのに充分である。そしてこの二つのお墓はお菊とその姉のお春の物であるのか。

 三波川には小柏姓の家が今、十二軒ほどあるが何故ここに小幡家関係者の墓が存在するのか?この謎を解明するには更なる探求が必要となるが、後述する別項において少し考察してみたい。

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2007年2月11日 (日)

上野国甘楽郡中里村菊女事

上野国甘楽郡中里村菊女事

小幡龍蟄は「上毛菊婦傳」のなかで、お菊の素性について更に詳しく検証している。「上野国甘楽郡中里村菊女事」と題された一項がそれである。次に大要を記してみよう。

上州妙義山より、辰の方角にあたる向かいの山を大桁山という、この大桁山の卯の方角の麓の村を十二村という、その小名に中里村という村がある。妙義より、一宮へ行く街道を左の方へ、百間(約180mか)程踏み込みし所の山麓に村がある。

すなわち中里村なり。

また街道よりおよそ十間程右へ踏み込みし畑の中に、墓あり、これが菊女の墓なり、東向きにて、左に槻(榎)の大木あり、この槻の木の左に高さ一尺ばかりにて、小さき石碑の如き物二つ程あり、

この石碑の如き物は、この辺の者が菊の墓へ立てて願事致すなり、成孰の節に納めし品であろうとの言い伝えがあるが定かではない。

当時この辺の畑は、中里村弁蔵という者の土地なり、且つ槻の木、枝が多く畑に支障が出て迷惑につき、近頃切り取ったが、弁蔵一家ならびに切り取った者の一家が罰を蒙り病気が絶えない、よって神職に頼みお詫びをしたところ、追々全快にいたる由。

木は若芽が出て格別、年経ずして大方、元の如く大木となったという。

この墓の辺は中里村にて、誰となく常に掃除され大切にされ、疎かにすれば罰が当たる由。中古は中里村は家数が百七軒ほどあったが、今は多くは死に絶えて今は漸く二十軒足らずの家数の由。

全く菊の墓を疎かにした罰と人々恐懼す。また近村の人々癪を煩うは、この墓石を削りて飲めば、全快するとして諸人削るため、文字の有無が判じられない。ただ菊女の墓と言い伝わっているのみで、法名を知る者なし、この辺今尚、霜雨等の夜は怨火が出る由、また諸人疎かにすれば罰を蒙り、散するれば霊験ある由、大いにこれを尊敬す。

寛永14年小幡候縄張りの節、菊徐の墓所弐畝十五歩除地、その頃この辺は助兵衛才十郎の所有の畑の由なり、徐地は旧例に従っただけである、考えるに、前に言われていた石碑の如きものは、古いものにして文字の有無は判らず、いずれにしても近代のものにあらず、恐らくは菊女一家の葬地にて家内の者の墓なるべし。安政五年四月二日この墓所に謁す。

この墓地に添碑を建てんと、中里村名主、仲右衛門・地主弁蔵へあい話し、御領主にては子細ある間敷か、承りしに一村大いに喜び、小幡領主松平玄蕃頭殿、お役人へ仲右衛門一存の趣にて申し立てしに、もとより徐地の事ゆえ子細(支障か)なき由につき、添碑の下書きは宝積寺考道和尚に頼む事として、

その下書きは四月五日仲右衛門へあい渡し、添碑建立の段取りを同所へ任す。菊女は中里村出生の者の由、遠祖、信真君の国峰城ご在城の頃、甲斐国巨磨郡藤井の庄より召抱えた菅根正治という者、中里村に住まうという。

同人に娘二人ありその一人の由。姉か妹かは今だ判らず、国峰城の奥に勤めていた時、上の思し召しに叫ぶという共、同僚の中に菊女を憎む者ありて、ある時菊女、君に御膳を上げるそのご飯中に針があり。

これ同僚のした事なりて、菊女の過ちにあらずと云共、申し訳なく罪に落入、お仕置き仰せ付けられるという。一説に最初はお詫び申し上げ、それで収まったがまた続けて同じ事があり、その節にお仕置き仰せ付けられたと云う、二度とも同僚の仕業の由。

お仕置きは御領内引き回しのうえ、菊を桶に入れ首だけ出して、桶の中に蛇数匹をいれ、轟村宝積寺の裏の熊倉という山の中ほどにある池に浮かばす。死せし後、一家の者身体を故郷中里村に葬るという。

その頃、菊女菩提寺は、菅原村管応禅寺であった筈と仲右衛門はいう。何故このように言われるか今だ判らず。且つ予家の菩提所宝積寺の和尚、菊の引き回さるるを見物し命乞いをしなかった故に、その後、寺へ祟りをしてまた予家へも祟りをなす由。

既に序にて論じたところなり。

考えるに、菊お仕置きは天正年間の事で、宝積寺十世魯岳和尚の時か、既に天正十五年の魯岳討死・寺の焼失などの事は菊の祟りであろう。又いわく、お仕置きの場で、当人に望みはあるかと聞いたところ、宝積城の中を通り国峰御殿の見える所でお仕置きになりたいと言ったと云う。

それで熊倉山でお仕置きになったと云う。当人がそう言ったのは、上の御菩提所の中を通れば、必ず命乞いの願いも聞いてくれると、思っていたが和尚は命乞いもしなかった故、寺へ祟り又、後世拠り所無きゆえ小幡城主へも祟りをなし、宝積寺にて絶えず朝暮読経し改めて贈る法名は五度に及んだ。

その法名は仏心大姉、妙心大姉、連心大姉、仏蓮大姉、心仏大姉の五大姉となった由。お仕置きのことが宝積寺に伝わっているところでは、前に言ったように菊を桶に入れ首だけ出して、桶の中に蛇を入れ、熊倉山中ほどの池に浮かばせし時、小柏源助とういう者が山狩りをしていて、通りかかりその叫ぶ声を聞くに堪えず、桶の蓋をこじ開けて、菊女は源助に一礼を述べて直ちに死すと云う。

また別説では、桶ではなく石櫃に入れ、前にいう如くにしたところ、蛇共菊女の肉を食べつくし後、石櫃の中にて共に食い合い、その声甚だ悪く小柏源助山狩りに通りかかり、声を聞き不思議に思い石の櫃をこじ開けたところ、蛇共は散って行ったと云う。

菊女が死せし後、母が来て嘆き悲しみこの如き責めに遭うとは口惜しい事なり、これより小幡家へその子孫まで祟りをなせ、我もまた同じようにする、言う事が判るならこれを発芽させよと煎りゴマを池の辺に植えた。

そのゴマは発芽したと云う。今にいたりても、年々生えて花は咲けども実はならぬと云う。熊倉は高山にして、中ほどにある菊女お仕置きの場所まで登るのには、一里余あるなり、この辺は昔は池だったか、今はおよそ百間四方ばかりの平坦地で水はない。

またこの山稜・山続には格別石もないが、菊池の辺りには六、七尺四方くらいの、大石が多くあり。そこより六、七丁左のほうに昔、天寿庵と言う庵があった由、故に今この辺を菊が池と云う。また天寿庵の淵とも云う。ここより北西の隅にあたる所に、国峰()御殿裏山の高い所が少し見える。

また曰く、お仕置きのとき石櫃に入れたという説があるが、桶のほうが事実なるべし、小柏源助は小松重盛の末孫の由。今上州日野村の郷士に小柏源助という者があり、これ小柏の家なり。安政五年熊倉山に登り菊が池を見た。案内の者がゴマ草はこれなりと云うので、それを見ると松代にて小車という草に似ている。花はどんな物かは知らない。

菅根正治の子孫は今は耐えて居ないが、正治の兄弟に治部右衛門という者が有る由、その子孫が即ち仲右衛門の由と同人が云う、また同国、下仁田村の字の、大崩村に菊女の親類筋の者が居る由、それは同、八木連村太右衛門の父出雲という神職へ、十五、六年以前に、自分は菊女の親類筋なりと話して来た事があるが、名前までは聞かなかったと、父出雲の話だった。と太右衛門が云った。

今はこの他に縁者あるというのを聞かない、また同州で山田を名乗る者の家にはとかく良くない事が起こると云う。菊女もしくは山田を名乗る者に讒言されたものか、その故に今尚、山田家を怨むものか、と高瀬村、旧臣新居又太郎が云う。

仲右衛門家より山沿いに、百間ほど東へ行ったところの山に、八幡の社ありその社,石段の前の左の方に、並んで五輪の如き石碑二つあり、これが菊女の両親の墓との言い伝えがある。

毎年九月十五日は八幡祭日の節として、村一同が祭っている由、仲右衛門の弟太平が云う。考えるに宝積寺の旧記によれば、菊女の母の葬地は宝積寺になるべし、両親

の墓というのは信じがたし。石碑二本とも文字の有無は論ぜず、もしや一家の者の墓かなおの研究が待たれる。

十二村の字、崎保村に正国寺という真言宗の寺あり、安中市の明光院の末寺なり、近頃この寺に欲深い和尚が居て、菊女の墓は諸人が尊敬するので、その墓所は正国寺の中に有と云う。

古い時代に川の洪水があった事により、やむを得ず崎保村の現在地に寺を移した、よって菊の墓は正国寺の所有なりと言った事があるが、この寺は天和年間に建立した由で、したがってこの事は事実ではないと仲右衛門は云う。

菊女、とかく宝積寺に祟りをなすので、同寺二十七世万仞和尚菊を金毘羅に祭り、寺の鎮守となすにより、以来寺への祟りをしなくなったと云う。鎮守は熊倉山菊が池より、五丁ほど左の方に小さき石の社あり北東の隅へ向いている。

またいわく小幡城主にてもこれを恐れ尊い、この社の鳥居は白木にて粗末なれど、当時小幡城主より寄進にて修復の度、宝積寺へ依頼して石社へ次の文字を彫った。

正面 眷属夜叉 金毘羅大権現 菊池山神

右  明和五年万仞立

左  宝積寺鎮守

 以下、石碑、添碑などの形状・文字・寸法などの詳細な説明が続いて、長文となっている。この他、松代の屋敷内にお菊を祀った二社について説明し、忍之藩の小幡氏、江戸小幡氏の領する安中市中野殿の、小幡氏の供養について触れているが省略して巻末の記事だけを次に示す。

松代清野村龍泉寺寺内に、安置の鎮守は菊を祭る所なり、毎年九月十九日を祭日とす、同村字鳥見塚裏に、かねて所有の土地のうち、四斗二升三合の畑を安永二年にこの社に寄付をした。

吾曽祖父義正君の御代なり、その書面に年来安置の鎮守とあれば、その前より古くから祭りたまえしと見ゆる。且つ母の玉女は後に祭りたまうと見ゆる。恐らくは仁寿君の御代の文化の時か。 比壱巻先年納置候処不相見由ニ付猶又うつし納置物也

 明治廿八年二月 六十九叟 小幡龍蟄

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2007年2月10日 (土)

お菊様の命日

 

お菊様の命日

   菊女の墓 

Photo16

国峰城の菊ヶ池伝説には幾つかの説があり、疑問も多いが、この墓は妙義町にある。
石塔は右より菊の両親の墓、菊の墓、側塔、五輪塔となっている。
この墓は菊ヶ池伝説にて紹介しているとおり、小幡氏の末裔である松代藩士小幡長右衛門龍蟄(りゅうちつ)が安政5年に調査し、妙義村の名主藤井忠右衛門に依頼して整備されたものであるが、写真の石塔等は伝説当時のものと考えられている。
 しかし、伝説が小幡信貞時代であれば戦国時代の話となり、五輪塔には戦国以前の様式が認められるため、この墓がはたして伝説の主の墓なのか疑問も投じられているが。
なお、当時の城主は小幡信貞だったとする説が定説となっているが、妙義町では信真と紹介している。
 ちなみに国峰城の菊ヶ池伝説は登場人物も歴史上存在したことが確認できる者が幾人かおり、この墓がいっそう真実性を高めているが、同じ伝説が群馬県内に安中市と前橋市にも存在している。
 八重ヶ渕伝説とお虎ヶ渕伝説である。
しかし、両伝説とも時代や登場人物がはっきりせず、したがって確認も取れない。
安中市では祟りが実際におこったと騒がれた過去が数回あり、お八重の碑を建立して祀っているが、前橋市のお虎ヶ渕は利根川の流域が当時と変わっていることから場所もはっきりせず、碑も建っていない。
 私の考えで恐縮だが、たぶん藤岡市に管領府があった頃、または山内上杉氏滅亡直後の甘楽から安中・高崎を経て前橋まで上杉氏勢力がまだ強かった時の事件であり、各地域での連帯感が残っていたために、甘楽国峰での事件が民衆の間で広範囲にまで知られることとなった。

その悲しい物語のヒロインに多くの共感者が出、人々の記憶に残り、その結果各地で語り継がれ、伝説となって残ることになったのではあるまいか。

    写真と文、国峰城(小幡城)HPより

お菊の命日には幾つかの説がある。宝積寺46世住職の西有穆堂の「因果の水鏡菊が池」では天正14年9月19日とする。小幡龍蟄は、信真が小田原出陣の留守に起こった出来事と考えたため、天正17年と推定している。(龍蟄は当初、天正15年以前と考えたが後に訂正した)

 「上野人物志」では、新井家が連綿として伝えてきて、三百五十年忌の法要を催した事から、逆算して天正1年の出来事としている。天正1年のことであれば、お菊を救出した侍は小柏源六定重であり、小柏系譜の記載と一致する。

 また天正14年、或いは天正17年の事であったのなら、救出した侍は、兄の後を継いだ定重の弟、左馬助定政、後源重郎となる。定重は天正3年の長篠の戦いで、小幡大膳介と共に討死しているからである。

 小幡龍蟄の著した「上毛菊婦傳」の末尾に、小柏高政とその二男定政の記述がある。龍蟄の研究の一助にと宝積寺が、同氏の元へ送ってきた資料の中にそれがあった。小柏氏の牌名(位牌)の中から抜書きをした物という。

 覚性浄林居士 小柏左馬介高政

 光岩智明大姉 同人妻 小幡尾張守重貞姪女

 昌室浄久居士 小柏左馬介定政 初号 源助

 寛永十二乙亥正月四日

 右者小柏八郎左衛門 牌名之内

と記された資料である。小柏系譜には定政が源助と名乗った記録はなく、後に源重郎と改めたとある。左馬助を名乗る前の幼名が源助であったという事はあり得る。

向陽寺の話では、位牌や過去帳は住職が変わったり、読み難くなったりすると、書き換える事があるという。

この際、一部の文字が変わったりする事も否定はできない。何ゆえに定重の名前がないのかは不明のままである。この資料により龍蟄は、次のように考察する。かくの如くなり、菊の一件は天正年間の事と、口碑にも伝えられていて、かれこれ考えると、山で猟をしていた小柏源助というのは、この定政なるべし。と書いている。

この後には、松代清野村龍泉寺に安置してある鎮守は菊を祭る所なり、(我)曽祖父義正君の代の書面に、年来安置の鎮守とあるのでその以前、更に古くから祭っていると見える。と記述している。

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2007年2月 9日 (金)

上毛菊婦伝

 

 上毛菊婦伝

 小幡龍蟄が著した「上毛菊婦伝」の序には、同氏の考え方が記されている。大略次のような記事である。

菊女は我十一代の祖、国峰城主小幡上総介平信真君の妻、長野氏の侍女なり、菊罪をなした事により罰するに、桶に入れ首を出し、桶の中に蛇数匹を入れて、熊倉山の池に浮かばす。

 事実は菊の過ちではなく、同僚の中に菊を憎む者ありて、罪を着せようとして、巧みにやった事という。この故に菊は罰を下されても、納得せずその後、五、六十年以前まで我家に祟りをなした由。龍蟄考えるに、菊は平日の事で知らなかったとしても、ご飯中に針があった事は罪になる。

 時は戦国時代といえども、領主たる者は下の者を慈しむ仁の心を持たねば、一日も国家を治める事は適わない。これをもって考えれば、ご飯中に針が落ちてる事は、あるべからず。

もっとも、今の時代で考えれば、例え重罪であっても、このような罰はあるべからず。しかし、戦国の世なれば、重罪の者には蛇責めの類もあるべし。また実に、針の一事だけの事で法に照らして、過重な罰ならば例え君は怒りに任せて、蛇責めの事を命じても、諸臣が止めに入り、諌めて罪を軽くするべきである。

それがなかった事を考えると、君は他国に出陣中での事で、夫人のご飯中に針があって、夫人が命じた事なので止められなかったのではあるまいか。

 老臣ばかりの戦いであって、この為に後の世まで長く君の悪名とされたものか。実に菊の過ちではなかった事が、後日判明した時は、ひとたび厳罰に処せられたとしても、何らかの回復処置が取られたであろう事は疑いない。

昔より、そうした例は少なくない。してみると、小田原の役に出陣していた事は疑うべからず。嗚呼、時を得ざるものか。子孫は泰平の世に生まれ、これ等の事情を知らずして、世評を信じ、一重に殿の御一矢(一失態か)と思うべからず。

故に去年四月、上毛に行き、祖先の旧領古跡を弔い、累世の墓碑にお参りした時に、菊女の墓所を尋ねて行き、その墓に添碑を建て、菩提を厚く弔ったのは、龍蟄は不肖だが君の意思を引き継ぐ意地であり、且つ見聞したところを記し、これを説明するは、子孫のためにする事なので失うべからず。

安政六巳未三月中浣 平信真十一代の孫 小幡内膳龍蟄識

 「上野人物志」に記されるお菊伝説は少しだけ色合いが違う。次に紹介しておこう。

 タイトルは「小幡氏侍女菊子」となっている。

菊女は甘楽郡国峰城主小幡信貞の領内、多野郡神川村生利の里正、新井右近の娘なり容色美しく、女の道にも優れたれば、遂に領主信貞の知るところとなり、召されて侍女となった。

 主君の覚えもめでたくなっていたが、ある時、菊女主君信貞に御膳を据える時に、平素、菊女の出世を羨望、嫉妬していた朋輩、女中のために謀られて、御食椀中に一本の針があるのを、気づかずに膳を整えたのが、お菊の運の尽きるところなり。

 主人、信貞食椀の中に針があるのに気づき、大いに憤り針を取り出し、菊女を責めていわく、おのれ私に針を飲ませ、殺害せんとするか、身を寸ゝに切り裂いても飽き足らぬ、言語道断の曲者なり。

さんざん苦しませて、なぶり殺してやると下郎に命じて、蛇をあまた取り集めさせて、大きな桶に菊女を裸体にして押し込め、その桶の蓋に穴を一つ開けて、蛇を一匹ずつ入れて穴をふさいだ。

 その中で、蛇は上になり下になり、カジリあい、潜りあいしてそのうち菊、

女の身体の中へも食い入って、桶の中の動揺すること、すさまじく菊女の泣き叫ぶ声、恐ろしく聞こえ人々肝魂を失いける。

そしてその桶を、国峰城付近の、宝積寺山の奥なる池に沈めたり、折から、小柏源介(ママ)なる侍、猪狩りに出てて池のあたりを通りかかり、桶が浮かび女の首だけが出ているので、源介不憫に思い弓の弭(はず)にてかき寄せ、桶の蓋を打ち破れば、蛇が夥しく出て菊女は喜び、誰さまにてまします、と問いければ小柏源介なりと答える。

菊女申して、このご恩には今後、お家の中に蛇が入っても怨みごとは致させ申すまじ、蛇も助けられ奉る、ご恩を忘れなく仕りますお心安かれ、と言う声と共に死亡した。この為に、小柏家にては例え、毒蛇を踏んでも刺されることなく、子孫今にても栄えているという。

菊女の母、悲嘆に堪えず池の辺に来て、我娘の入りたる桶に向かい泣いて、言いけるは、汝、如何なる業因にてか、殺害の方法多くある中に、かかる無慙な蛇攻めにて、死亡するとは口惜しき次第にて、実に前代未聞の残虐なり。

千日の仕官、一朝の過ちとて、歴々ある習わし、飯に埋めた針不調法なる小科なるに、大科を以って、責めらるるは主人ながらも怨みあり。我娘、死してもし霊になりてあらば、一念の魂女となり小幡殿へ祟りをなせ。

我言葉が判るのならその印を見せよとて、煎りゴマを懐中より取り出して、我娘、小幡殿に祟らんと欲せば、このゴマに萌芽を出すべしと、池辺の土砂中に蒔き置きて、泣く泣く胸をさすりつつ、我が家に帰りぬ。

三日を経て、かの池辺に来てみると、そのゴマ、悉く発芽しており母は大いに喜び、我娘の霊に向って、手を合わせ愚願成就即現怨霊と唱えその菩提を弔いける。それより怨霊、小幡家へ祟りをなし、天正十八年信貞、小田原に入城しその陥落するや秀吉の怒り甚だしく、十月二十八日切腹を命ぜられ、

その前、居城国峰城は前田・上杉の両将に陥れられ、嫡子信秀は一時浪々の境に沈降するに至る。ゴマは今に池の辺りに生ずる事、不思議というべく、また小幡家にては露地にも苑にも、菊を植える事はならざる因縁ここに起こるとか。

その後、菊女の怨霊を宥める為、菊と母、姉、妹、姪の五人を大姉に祀り、宝積寺祠堂に位牌を立て、五大姉と称し、朝暮回向に怠りなかりしと云う。

因みに云う。お菊がゴマ年々その株より若芽が生じ、ゴマの如き物が実るという。新井家、連綿今にあい伝え大正十一年お菊三百五十年忌法要を営めり。よって惨殺は天正元年の出来事なるべし。新井家当主、新井一郎と云う。

(小幡伝説、松田□氏南毛名迹)

「北甘楽郡郷土史」では、次のような記事になっている。

「菊女の墓、妙義町大字中里字五輪平にあり。永禄の頃、甘楽郡国峰城主小幡上野介平信貞の配、長野氏の侍女、父は甲斐国巨摩郡藤井之庄より出でて、小幡氏の臣となりし菅根正治の娘なり。

一日、菊女主君の飯に侍する時、飯中に針あり、者の舌頭にかかり、蛇責めの刑を受く。本郡熊倉山中に池あり、桶中に蛇をいれ菊をその中に入れ、蛇集まりて菊女の肉を噛む。

悲鳴久しゅうして死すと云う。安政五年四月小幡氏十一世の孫、品濃国松代藩士小幡長左衛門、古墳の側に碑を立て、菊女の墓、九月十九日没す。」

 

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2007年2月 8日 (木)

二本木峠と小柏峠

 

 

 因果の水鏡菊が池 Ⅲ

尚、大正十一年に小幡町で開演した、東京大歌舞伎、藤森座の広告が載せられている。要略を次に示す。

中央に縦に印刷されたタイトルが「菊女金毘羅大権現一代記」であり、副題のようにして最上段に横一列、右から「お待ちかねの菊女神霊劇開演」とある。

口上を述べた後、由来として「この狂言は、天正年間北甘楽郡小幡の城主小幡上総助、城内に起こりし愛妾菊女悲惨の最期なせし、大大悲劇にして本郡日野村小柏八郎右衛門の義勇を奮いし、実説を骨子としたるものにして、当地方としては尤も因縁深き劇なり。

この劇の主人公菊女の霊は、いまなお小幡村宝積寺に菊女金毘羅大権現と祀られ、その守札は、商売繁盛家内安全子供の虫除養(さき)には最も不思議のご利益あり、今尚、参詣者引きも切らさる有様なり。

◎特に開演中御信仰の御方には、御守札五百枚限り毎夜差し上げ候。」  

とある。

源六定重が八朗右衛門と名乗った事は、記録には見当たらない。小柏氏にあっては、世襲名ではないが、近世になって八郎左衛門を名乗る人は多かった。それ以前に六郎或いは六郎右衛門を名乗った人は三人ほどいるが、伝説の文献などに見かける八朗右衛門を名乗った人物は幕末の重基だけである。

八郎左衛門と混同したのではないかと思われる。

二本木峠と小柏峠 

第八幕の文中に「二本松峠」の地名が出てくる。この峠名は現在の地図上に見当たらないが、何処であろうか。

みやま文庫発行の「群馬の峠」によれば、上日野の小柏から山を越え、甘楽町白倉・轟・小幡町へ行く途中に二本木(にほうぎ)峠がある。標高は820m。とある。

これだけ読むと接続する両町の位置関係から、二本木峠は現在の小柏峠と思える。

しかしよく読むと、次に「中峠」の紹介があり、その説明に

小字名調書の甘楽郡小幡村に「中峠」がある。「甘楽町地名考」によると、二本木峠の北、白倉神社の西方にあり、中峠を通る道は小幡・轟から入り、二本木峠で白倉から至る道と合流した。

とある。

また同書には二本木峠の隣に「水越峠」が紹介されていて、標高800mで、小柏~甘楽町白倉とある。水越峠もまた現代の地図には現れない。

 「小柏峠と天狗山」によれば、小柏峠には近代に置かれた「小柏峠」という手書きの標識があり、一体の石仏があると云う。更に峠から少し小柏側に降った所に一体の道祖神があるとしている。

そして無名峠から小柏峠は徒歩で10分という、標高もさしたる違いはない。無名峠もまた地図には出ていない。しかし以上の資料を総合的に検証して、何れの記述にも矛盾しないように峠の位置を比定してみた。

甘楽町の小幡・轟側から入り山道を登って行くと、旧白倉神社の西にあたる場所で左右に分かれる分岐がある。ここが中峠である。左に行くと旧白倉神社に行き、右に行くと上日野小柏方面である。

右に道をとり少し行くと二本木峠である。ここで(中峠から左へ分かれて行った)旧白倉神社から来る道が左方から合流する。更に山道を小柏方面に進むとY字路の分岐がある。

右へ行くと登山者が無名峠と呼ぶ峠に至り、無名峠から左に降りれば上平を経て小柏に至る、降りないでまっすぐ行けば焙烙峠に至る。

先のY字路の分岐点で左の道を辿ると小柏峠に至る。小柏峠から更に山道を進むとまた分岐がある。右へ降りるとやはり上平へ至る、左へ進むと小柏へ至る。この道を降りた地点は、小柏舘の東の辺りへ繫がっている模様である。

(国土地理院の古い地形図)

また現在の道路から小柏舘へ向かって、舘の左端に当る所に良く見ると細い山道が見つかる。この山道は北側の裏山へ登って行く道である。幅は50~60センチほどの物であるが、登って行けば小柏舘の東側から来た道と合流しているものと思われる。

 「群馬の峠」には二本木峠と水越峠が併記されている。

したがって、この二つの呼び名は同時に存在していたと推測して差し支えない。

 結論となるが、この水越峠が現在小柏峠と呼ばれているものであろう。「二本松峠」という名称は、二本木峠の誤植、または誤りではなかろうか。松の字と木の字は似通っている。

登山者が呼ぶ無名峠の名称は文献にも地図にも現れていないが、小柏側から登って小柏峠を左に行った所である。(先に述べた場所)

 正に名前のない峠である。二本木峠は先に述べた場所にあるので、上日野の中心地であった小柏から小幡・轟に行く時には必ず通る事になる峠であった。また逆の場合も同様である。小柏氏が大檀家であった宝積寺との往来も当然にこの道を通った。江戸期以前はこの道が街道然として使われていた。会場から秋畑那須へ行く遠回りのルートは使われていなかった。

上日野地区から甘楽地区へ行くルートは、他に奈良山から焙烙峠を越える道、矢掛から亀穴峠を越える道、鹿島から小梨峠を越える道などがあったのである。

 

  

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2007年2月 6日 (火)

因果の水鏡菊が池

 新庄君はいいヤツだ..新庄く~んはいいヤツだ。同じグローブをず~っと使っている。プロに入った時に9千円ほどで買ったグローブを十数年間、引退するまでずっと使った。常に手入れをしながらだいじに使った。

 引退の弁は「こいつがもう駄目だと言ってる」だった。いいセリフだ。それなら、グローブがそう言うのならしょうがないな。

 新庄君はちょっとヘ、変なとこあるけどこの一事だけでいいヤツだあ~。お金があったけど買わなかったいいグローブが出たけど買わなかった新庄君は

 それに比べて 貂之助君は….えっ最初に買ったラケットは….質屋みたいなリサイクル店でその次はヨネックスのアルミフレームかい….

ふんで硬くなったからヨネックスから出たカーボネイトを買って….けっこう良くなったけどまたウイルソンの赤いフレームにしてそいからヨネックスが出したセミラージにして….

更にデカラケにしたってか…..それからヤマハのグラスフレームにしただとぅ~。コノヤロふんでもって..ウイルソンが出した厚ラケにしたあ?重たくなったから…?ヨネックスから出た長ラケにしたのかいふん。

何?スマッシュを思い切り打つとフレームがしなって反発力がふんな事聞いてねーよ。何?一年中テニスでテニスエルボー….!

靴はヨネックス 美津濃 ダンロップ ナイキ ウインブルドン ハイカット….で数は覚えてない..?

テニス三昧の日があっという間に ….15年ってか….まったく~ まあよかろうかい。言う事ナイワ。

 

因果の水鏡菊が池 Ⅱ 

第七幕は宝積寺戦争(合戦)の場である。時は天正十五年に移っている。この合戦譚では、寺の立場を考慮したものか、小幡伝来記などの通説とは違って、彦三郎と図書介の立場が入れ替わっている。

将軍家より御朱印として五十石を賜り、山林一里四方を所有し、山林、田畑一切無税であり、門前百姓三十戸を擁する関東の巨刹宝積寺。奥方八千代の君は仙洞院に入り、尼となっており侍女一同も、これに同行してそれぞれ尼となっていた。

信真は小田原落城の憂き目に会い、甥の彦三郎と奥方の兄、小幡図書介は不仲になり、不穏な空気が漂っている。

図書介の家来,丹生五郎景義が宝積寺を訪ねて来て、彦三郎とその妻子を匿っていると聞いたが、事実ならば渡して貰いたいと申し入れる。この時、寺はそのような事実はないと突っぱね、五郎は弓矢を持って再来すると一旦引き下がった、

魯嶽は方丈の間で彦三郎と会し、今夜にも図書介の夜討ちが入るであろう事を告げる。彦三郎は、宇田城主図書介と戦い、武運拙くここまで逃れてきたが、残兵もいることだし、一戦交えて打ち破る存念です、ついては寺にも迷惑を掛けるけれども力添えをお願いしたい。と言う。

魯嶽も今は覚悟を決め、寺衆七十名をもって加勢いたし、寺が焦土となるまで戦うので安心くださいと彦三郎を励ます。彦三郎は、図書介は八千代の父の二男なれど、腹黒い者で、八千代をそそのかして、お菊を蛇責めにしたと聞いている。小柏公が助けた時には、無念の形相悪鬼羅刹の如きで、小柏公の厚い手当て・介抱もむなしく最後を遂げたとのこと、拙者小柏公より聞きました。

この事があってより、小幡家によくないことが続きます。と言う。魯嶽は、拙僧も奥方に因果の道理をお聞かせし、小幡家に必ず悪果をもたらす、助命の事が適わないのであれば、拙僧もこの場で自害いたすとまで申し上げたが、お聞き届けなく、時間ばかりが無駄に過ぎてしまったのでした。と言う。

別れの杯を汲み交わした後、魯嶽は彦三郎の一子、玉太郎を山道伝いに、二里ほど離れた多野郡日野村の小柏にまします、小柏源助定重公館へお預けなさればと薦める。続いて魯嶽,文智和尚を呼び、玉太郎と母(弥生)を小柏舘へ案内し、このたびの合戦に御加勢を致し下さるようお頼み致せ、と命じた。

文智も小柏殿は当寺の大檀越なれば、当寺の危急を思し召し、一刻も早くお越しくださる事と存じます。と彦三郎を励ます。

第八幕は小柏舘の場である。御荷鉾山を前に眺め、清流そうそうと流れるほとりにある、小柏源助定重公の屋敷は広大なる構えにて、家来の屋敷数十棟を数え、立派なる欅の門構え。平重盛公末孫らしく、山林八百町歩を有し、田畑数百町、土地の百姓は皆悉く小柏家の領内にありて、家来同様に召し使われ、小柏公の権勢は大名と同じであった。

夜は遅かったが、門番は家老の山崎覚太夫へ取り次ぎ、早速小柏公の居間へ通された。文智は図書助が五百の軍勢で夜討ちにくる由、ご出陣・御加勢願わしゅう存じますと述べた。小柏公、家老一同に出陣の準備を命じ、小柏源助定重公が大将となって一散走り、二本松峠まで至れば遥かに紅蓮の炎が見える。

この頃、図書介は巌空坊覚禅に討ち取られ、丹生は彦三郎に討たれ、劣勢になっていたが、小柏勢が攻めかかり余すところなく討ち取ってしまった。彦三郎は小柏公の手当てを受けながら、加勢かたじけなく存じまする、

魯嶽禅師は群がる敵兵の中にて戦っていましたが、丹生が本堂の裏手より火をつけるに至り、紅蓮の炎に包まれ、禅師は釣鐘を背負って鐘が淵へ飛び込みました。天狗と言われた七尺五寸の大入道、巌空坊覚禅は開山堂側にある一枚岩の上に、立ちはだかり、立腹斬って果ててござる。と言う。

そしてこれより小幡家を再興しお菊親子の亡霊の供養を営み、宝積寺も小柏様と相談いたし再興いたすでござろう。と言う。文智へ後片づけを託し、彦三郎と小柏公は小柏屋敷へと移動する。

第九幕は宝積寺の末寺仙洞院庵室の場である。

 小幡町の仙洞院は小幡家の開基なり、仙洞御所より琴を賜り、その琴を仙洞院に納めてその名を寺号とする。後ろに山があり、前には雄川のそうそうたる流れの音を聞く。八千代の君はお菊親子を無実の罪にて、蛇責めにしてからというもの、毎夜のごとく、お菊親子の亡霊に悩まされていた。

 安らかな日は一日もなく、黒髪を断ち黒衣をまとい、尼となった侍女と共に仏道を修行し供養に勤めている。侍女たちも八千代と同様にお菊の亡霊に悩まされている。八千代はしきりに反省し、魯嶽禅師が助命嘆願に来て、因果の道理を説いてくれた時に何故、聞き入れなかったのか悔やまれてならぬ。

あの時は、わらわは嫉妬の炎が燃え立っていて承服できなかったが、このままではわらわたちは皆狂い死にしてしまうだろう。思えばお殿様も小田原の役で

戦死

遊ばされ、宝積寺も合戦で悉く灰燼となり、魯嶽禅師も相果てなされた。今日はお菊親子の月命日、お位牌を安置して供え物を捧げ、回向を致そう。と侍女たちと経を読み、追善回向を行った。

その夜、庵室に現れたお菊の亡霊に八千代は狂気となって、まだ足りぬかと長刀を手にし切りかかる。驚いて止めに入ってきた侍女初代も、八千代には亡霊に見え、突き殺してしまい、更に他の侍女も皆、切り殺したうえで自害してしまう。

第十幕は園枝取殺しの場である。時は延享二年、百六十年後である。常に雲水五~六十人が修行し、住職は三十六人の供ぞろえで道中する宝積寺の場である。寺は再興されているが、山門は何度建築するも焼失すとして今も山門はない。

小幡家の家老、神成仙右衛門が住職へ面会に訪れる。

殿様のひとり娘、園枝様が病気になり、一向に快方へ向わない、夜中にむっくり起き上がり、わらわは百六十年前蛇責めに会いし、菊女の亡霊なるぞ、汝ら我母たま殿の墓を無縁となし、供養も怠りたる段、真に不届き至極なり、我母親の石碑は小幡家廟所の左側にあり、ゆめゆめ追善供養を怠ることなかれ、怠るなれば一家親族、残らず皆殺しにしてくれん。と言う。

言い終わるとばったり倒れて死亡されてござる、その際お菊親子の命日は九月十九日なりと申せし故、追善供養・園枝様の葬式をお願いしたい。という。

福寺、道智は神成をお菊親子の墓地へ案内し説明する。初めに仏心大姉と戒名をつけ、葬儀しましたが仏果成致さず、亡霊が夜も昼も寺に現れる故、今もお菊親子の座敷があります。それより歴代の住職が進山式のたびに戒名をつけかえ、五度の葬儀を行いましたが、未だにその怨霊は退散しませぬ。 

石碑に仏心大姉、妙心大姉、蓮心大姉、仏蓮大姉、心仏大姉とあるはこのためです。と言う。この後、本堂においてお菊親子のため、大施餓鬼の大法要が行われた。

第十一幕は菊女金毘羅大権現大祭の場である。

時は明和五年である。熊倉山の菊が池の辺に、菊女金毘羅大権現の碑がある。その両側には眷属夜叉、菊が池山神との彫刻がある。左横には宝積寺鎮守と掘られた石碑がある。この場所は菊女親子が蛇責めにされた所である。石碑の前には小幡家奉納の華表があり、新しく建立された鎮守堂の周囲には、旗やのぼりがたくさん立てられている。

子供たちは「小柏どんのお通りじゃ、蛇も百足もどーけどけ」と歌っている。小柏源助公が、お菊様蛇責めの時、お助けなされたというので、こう言いながら歩くと蛇も百足も寄ってこないと言い伝えられている。

今日は菊女金毘羅大権現の、初めての大祭であるので、老若男女が朝から一万名ほども参詣に訪れている。曹同宗の名僧知識、万仭禅師が宝積寺へ住職せられ、菊女を金毘羅大権現に祀られ、大般若の大法要を行われこの引導によって、成仏得度を致した。

かつ、小幡家・宝積寺は言うに及ばず、菊女金毘羅大権現に心願をかける者は、何事も成就すると言い伝えられている。菊女の石塔を粉にして飲めば、万病平癒するとも言われ、妙義山の麓、中里村にある菊女の墓にはいつも、白蛇が住みお菊様を守っていると言い伝えられている。

お菊様に願を掛ければ、子供の虫封じが出来るといって願掛けする人も多い。宝積寺本堂においては、お菊様親子の為、万仭禅師が導師となり、一山の大衆五十名大施餓鬼法会を行い、参詣人一同の所願成就の為、大般若法会が営まれた。

そして万仭禅師は駕篭に乗り、大衆五十名、檀徒総代、檀徒数百名を連れて熊倉山、菊が池へ登り、大法要をいとなむ。

小幡孫一郎真之公も参詣し、法要に列席せられた。 参考文献 宝積寺宝物小幡静氏著菊女一代記、過去帳、書付類。――― とある。

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Photo_23  妙義神社

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2007年2月 5日 (月)

 因果の水鏡菊が池

因果の水鏡菊が池

次に大正十年に宝積寺住職、西有穆堂によって、書かれた「因果の水鏡菊が池」を概観していこう。原文は長文なので筋のあらましを記す事にする。尚、原文では小幡家は小旗の表記になっている。

第一幕は妙義山参詣の場である。主役は小幡上総介信真である。お菊は妙義町中里村の庄屋菅根正治の娘となっている。山桜に飾られて美しい妙義山麓の妙義神社の紹介から物語に入っていく。

 神社には何百段もの階段があり、社殿そのほか立派に壮麗な建物があり、裏山の妙義山は奇岩、怪石がががたる絶壁を織り成している。信真は家老の森平策之進他十数名の供侍を連れて、通り道の一ノ宮貫前神社の参詣を終え、領内の妙義神社へ参詣にやって来る。

 時代は秀吉の小田原攻めの少し前である。武田信玄の二十四将の時代を経て、今は北条氏直に仕えている。この時、妙義神社へ参詣を終えて帰路についていた菅根正治夫妻とお菊は、領主のお通りと聞き平伏していた。信真はこの時ちらりと見ただけであったが、お菊の輝くような美貌は心情に響くものがあった。

信真は家老を通してお菊の素性を問いただした上で、一両日中に殿中へ罷り越すよう申し渡した。

第二幕は城内酒宴の場である。お菊は既に侍女として、城内に奉公し一年が過ぎていた。はや、一目ぼれしていた信真の寵愛を受ける身となっていた。

菅根正治は甲州巨摩群藤井の庄の出身であり、信真が信玄に仕えていた頃からの旧臣となっている。

信真はお菊に黄金一封を与え、正治を重い役に取り立てて用いる旨を伝えた。この後、お菊のお酌で酒宴に移っていく。この時お菊は十九歳。信真は世継ぎの信直が五歳で早世し世継ぎの子がなかった。侍女たちは別間に下がってからお菊に嫉妬し、あたりちらす。

 やがて信真は、またお菊を呼び寄せ奥方も下がらせる。

第三幕は小田原出陣の場である。国峰城から赤城山、妙義山、榛名山の秀峰が望める。信真の妻は箕輪城の長野業政の娘である。お菊は子供のない時には、観音様を振興すれば子供が出来ると聞いています。

宝積寺の住職からも、大本山総持寺の螢山禅師の母が観音様を信仰し、一日に観音経を三十三編も読み、南無観世音菩薩と三万三千参百参十三編唱えて、長い間、信仰を続けたところ螢山禅師が生まれたという。宝積寺の観音様は霊験新たかな、観音様で小柏源助定重公の守り本尊と聞いています。

この観音様に殿様の武運長久を祈り、奥方様にお子様が出来ますよう祈っています。と出陣前の信真に話した。この後も二人きりで酒を酌み交わすが、信真が奥方に子供が出来なくても菊に出来ればよいと言うと、お菊は実は妊娠して既に五ヶ月であると打ち明けた。きょう言おうか明日言おうかと思案していたが、明日は出陣との事、思い切って申し上げますと言う。

信真はあっぱれあっぱれ、世継ぎに致すとして、正宗の短刀とお墨付きをお菊に与えた。

第四幕はお菊折檻の場である。信真は小田原へ出陣し留守である、奥方八千代の君は侍女の初代を呼び寄せ、菊女に与えた短刀と墨付きを奪い返すよう指示する。初代は機会を捕らえて、お菊の留守にその居間へ忍び込み、手文庫より短刀とお墨付きを盗み出す事に成功した。

嘆き悲しむお菊を、お殿様より拝領の品を盗み出されるとは油断千万、御殿奉公が勤まらぬぞと奥方は責める。今朝ご飯の中に、縫い針が二本入れてあったのもお前のやった事だろうと更に責め続ける。

拝領の品を無くしたとは嘘で、隠し男子がありその男に渡しておき、自分を殺して国峰城を乗っ取る積りであろうとした。

殿様の子とは偽りで、その隠し男の子供であろうと無実の罪を着せるのであった。必死に弁解するお菊の話は聞かないで、集まってきた他の侍女と共に散々に殴ったうえ、山田軍兵衛に命令して蛇責め百足責めにする事とした。

この時、柴田外記が現れて、自分は菊の守護を命じられている者であり、この処刑は承知出来ぬと反対した。奥方は殿の留守を預るは自分であるとして、山田と共に柴田を叱咤し、奥方は閉門を申し付けた。山田は更に、腹の子はあの柴田の子であろうとお菊を責め続ける。

第五幕は宝積寺門前の場である。時は天正十四年九月十九日である。東に赤城山、西に妙義山が望め、七堂伽藍が完備している曹同宗の古刹宝積寺門前である。国峰城からは約二十丁の所、駕篭に載せられたお菊が来る。宝積寺の後にある熊倉山を一里ほど登ると、池がありそのほとりに篭岩と呼ばれる石窟がある。

この中に石櫃をこしらえ、蛇や百足を入れてお菊を責め殺そうとする。宝積寺は十万石の格式を持ち、末寺五十三寺、孫寺を含めると百寺ほどになる。開基は国峰城主小幡実高である。

お菊は一縷の望みを持って、住職への面会を山田に懇願する。山田は許可しなかったが、他の侍たちの意見を入れて住職に会わせる事にした。

女人禁制の山なれば、第十世魯嶽禅師が山門まで出て、直々に山田に会い助命を取り計らう事となった。魯嶽はお菊に向い、当山は小幡家の開基なれば、なにかある時は一肌脱がねばならぬ、そなたに無残な刑罰を行う事はお家の為にもならぬ早速、国峯城へ行き奥方に助命の儀をお頼み申す。と言う。

尚、山田他同行の侍たちに向って、これから城に上がって奥方へ七つの膝を八重にも折って、お頼みすれば宝積寺と深い縁の小幡家のこと、きっと聞いて下さるに違いないしばしお待ちくだされと言う。

この後、寺側と侍衆の間で押し問答が続くが、暫くの間この場所で住職の帰りを待つ事になった。

第六幕は熊倉山蛇責めの場である。熊倉山の頂上に周囲七、八丁の池がある。青く澄んでいる水が満々と湛えられて、そのほとりに岩石が峨ゝと聳えている。日が暮れるまでは山門の前で住職の帰りを待っていたが、山田が痺れを切らして池の所まで移動してきたのであった。

この時、急を聞きつけたお菊の母たまが、狂気のごとく髪を振り乱してこの場所へ駆けつけて来た。無実の罪で蛇責めにあい殺されるとは、あんまり無慈悲です。後生ですから助けてください。叶わぬのなら私を身代わりに蛇責めにしてくださいと、山田を伏し拝み懇願する。

お菊に会わせて貰ったたまは、いまはの際に会えたのはせめてもの慰め、菊死んでもこの怨みは忘れるな、丁度ここに親類から貰った煎りゴマがある。これを池のほとりに蒔くから花を咲かせて見せなさい。と言い、お菊は蛇や百足にこの身が食い荒らされようと恨みに思うのは、無実の罪に陥れた奥方や侍女、この後はゴマに花を咲かせ小幡家と宝積寺に祟りをなします。と答える。

居合わせた寺僧を初めとして、同行してきた侍の中にも処刑を躊躇し反対する者もあった。殿の留守中に、その寵愛する侍女を処刑しては、後の処分が恐ろしいと言う者もあった。

たまは夫の正治と日頃仲が悪く、しかも侍女初世の父親でもある山田に最後の恨み言を言う。菊がおってはお前さんたちの邪魔になるので、謀を廻らし菊を無実の罪にでっち上げた張本人であろう、言い訳はあるかと詰め寄る。

住職もいまだ帰らず、山田は矢庭にお菊親子を石櫃の中に押し込み、外から鉄の錠を掛けてしまった。その時、一人の侍が先ほどの煎りゴマに花が咲いているのに気がついた。ここに、熊倉山に鉄砲を担ぎ猪狩りをしていた小柏源助定重公が、お菊親子の悲鳴を聞きつけて駆けつけて来た。

一旦下がった柴田外記も、この時になって再び駆けつけてきた。定重公は、吾こそは、武田信玄二十四将の一人、小幡上総介信真公とは親友にして、平重盛の末孫、小柏源助定重なるぞ、汝らは何者ぞ、鏖(みなごろし)にしてくれん。

とのたまう。

山田他侍衆は敵わないとみて、逃げ惑うがたちまち定重公と柴田に皆殺しにされてしまった。定重公が鉄砲のこじりで、石の櫃を打ち破り既に虫の息のお菊親子を助け出す。小柏公は腰の印籠より薬を取り出し、手当てをする。

石の櫃よりニョロニョロと這い出す蛇と百足を、ハッタと睨みつけ汝等虫類の分際にして、万物の霊長たる人間を食い殺すとは何事ぞ、汝らを皆悉く皆殺しにしてくれん。と大音声で、鉄砲を振り上げれば蛇は鎌首を下げ、百足はうなだれ逃げ去ってしまった。お菊親子はかわるがわるお礼を申し述べる。

お菊は最早この世の見納め、私の亡き後は小柏様のお家繁盛を守護いたします。無事息災にお暮らしなされて下さいませ。この後、私を信ずる者あれば何事によらず、願いを聞き届けんと言い残し、息を引き取った。

定重公を中心にして柴田、寺僧は遺骸をかたずけ、お菊親子の遺体は宝積寺へ運んだ。

 

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2007年2月 4日 (日)

お菊伝説

 お菊伝説

 宝積寺のお菊伝説

 お菊伝説は幾つかあり、それぞれ少しずつ違っている。また全国各地に伝わってもいるが、この各地に伝わっている伝説は、各地に散って行った小幡氏の子孫や家臣、関係者によって、もたらされたものという。当事者の一端とも云える宝積寺が著した宝積寺史によって詳しくみてみよう。

 宝積寺史には大略次のように記されている。

 宝積寺の菊女伝説は有名で、群馬県で「お菊さん」を知らない人は居ない。この伝説を最初に記録した本は不詳だが知られているのは1743年の序がある「小幡伝来記」である。この本は「上野志料集成」(大正六年)の中の上毛伝説雑記巻十一に

「小幡伝説」という題名で収録されている。

 これによれば国峰城主小幡上総介信真は、侍女菊が据えた食膳の椀に針が一本落ちているのを見つけた。信真はおのれ、自分を殺害しようとする曲者として菊を蛇攻めの仕置きにした。大きな桶に菊を裸にして入れ、蓋に穴を開けて多数の蛇を入れ、宝積寺奥山の池に沈める。

小柏源介(宝積寺史は源六)は猪狩りに来て池の辺を通ると、桶の中から女の泣き叫ぶ声がする。源介は弓の弭(はず)で桶をかき寄せ、蓋を破って菊と蛇を助け出す。菊は「今からお家の蛇が入っても怨みをさせません。このご恩は忘れません」という声とともに死んだ、このことから小柏家はたとえ毒蛇を踏んでも刺されることなく、その子孫は繁栄した。

 菊の母は「無念だお前が死んでも、霊魂があるなら小幡家へ祟りをなせ。その印を見せよ」と懐から煎りゴマを取り出して蒔くと、三日の後に芽生えた。母は「万願成就即現怨霊」と喜んだ。それから菊の怨霊は小幡家へ祟りをするようになる。ゴマは年久しくたった今でも池の辺に生えている。

 小幡家は露地にも園にも菊を植えない因縁はこれから始まった。その後、菊の怨霊を慰めるために、宝積寺は母と姉妹姪と菊を入れて五大姉にまつり、朝夕回向したという。―

 小幡伝説は信真(のぶざね)の没後百五十年経って成立した本である。小幡伝説を典拠として菊女の伝説を書いた代表的な本は次のものである。上毛菊婦伝、因果の水鏡菊が池、上野人物志、群馬県北甘楽郡史、小幡町郷土読本、甘楽町史、行田史譚、諸国百物語。

信真(1540~1592年)は実在の人物である。菊女の出生地は上毛菊婦伝(小幡龍蟄)では甲斐国巨摩郡藤井庄の菅根正治の娘としている。そして「予が家の菩提所宝積寺の和尚は、菊の引回さるるを見物し、命乞いをもせざる故、、その後寺へ祟りをなし、また予が家にも祟りをなす由、既に序に弁ずる如し。」

としている。

「春山大明神の記」(南牧村星尾仲庭の市川家伝説)もこれに従っている。上野人物志では多野郡神川村生利(万場町)新井右近の娘としている。また信真夫人が実家の箕輪城から連れてきたという説もある。どの本も実在の人物としている。

菊女を助けた小柏氏の名は、小幡伝説、上野人物志では源介。上毛菊婦伝、因果の水鏡菊が池では源助。群馬県甘楽郡史、小幡町郷土読本では源六としている。小柏源六(定重、高政の子)は、天正三年(1575年)長篠の役で戦死した実在の人物である。

 「因果の水鏡菊が池」は、宝積寺の四十六世住職が書いた脚本であるが、蛇の他に百足を入れたとする。「「ヘビもムカデもどーけどけ、小柏どんのお通りだ」のわらべ歌は有名である。宝積寺の山門は建ててもすぐ燃えると、山門のないことが寺への祟りのシンボルとなった。

しかし、山門連続焼失の確実な資料はない。行田史譚では松平忠明の家老山田大隈守が侍女の菊を刑に処したとある。山田家は庭にお菊稲荷を祀ったという。諸国百物語に見える菊女伝説は、兵庫県の姫路城の話となっている。前橋藩、安中藩にも同様の伝説がある。

上毛菊婦伝を著した小幡龍蟄(りゅうちつ)は信真十一代の孫であり、自分の先祖は伝説のような、残忍な武将ではないという同族の絆もあって、菊女の仕置きは信真の出陣中に、妻が自分の下女を仕置きしたものと考えた。

 安政五年(1858年)龍蟄は、妙義町中里村の菊女の墓に添碑を建てた。「小幡伝説」成立後三年の後、二十六世乙禅甲が記した文書には五つの法名が記され、右は菊女の法名なりとしている。次に一つの法名があり、右菊女の母の法名なり、右五大姉は当山開基の小幡上総介殿の下女なり。

幽怨代々小幡家の奥方へ祟り候由、折々申し来たれば、すなわち毎度遺し贈る大姉号なり。延享二年とある。祟りのあったつど江戸から使者が来て回向を頼む。時の宝積寺住職はそのつど読経して改めて贈った法名が五度になり、菊女のことを五大姉と称したという。

後に宝積寺は菊女を金毘羅大権現としてまつり、熊倉山菊が池の傍らに石祠を建てて寺の鎮守とした。こうして宝積寺の守護神となり、祟りはなくなった。各地に散在する小幡氏も色々な形で菊女御霊をまつり供養している。例えば江戸小幡氏、松代小幡氏、榛名小幡氏。

明治からは宝積寺の菊縁日は四月二十八日となり白倉神社(宝積寺が別当職)の春祭りと重なり、宝積寺から白倉山への峠道は参詣者の列が途絶えなかった。この行事はその後、太平洋戦争で中絶した。昭和63年には全国の小幡氏が宝積寺に参集して「国峰小幡氏に集う会」を発足させた。

 平成2年には集う会は小幡氏四百年供養法要を営み菊女金毘羅大権現ならびに小幡氏歴代の大供養を行った。平成5年には本堂前に菊女観音菩薩立像が建立された。

 「甘楽町史」によれば宝積寺住職西有静観氏が過去帳・書類に従って書いた「菊ヶ池」という芝居があるとして、他に幾つかの説を紹介しているがいずれも大差ないものとなっている。「妙義町郷土史」に妙義町大字中里、五輪平に菊女の墓の記事がある。妙義の菊女の墓は安政五年四月に小幡氏の十一世孫、信州松代藩士の小幡長左衛門が建てたと墓碑に記されている。(同町史)

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2007年2月 3日 (土)

小柏定政、小幡孫市を助ける

 

 定政小幡孫一を救う

 定重が戦死したため弟の定政が家督を受け継いだ。定政は当初左馬助を名乗り、後に源重郎と改めた。法名は浄久である。小柏系譜には

父、兄と共に武田に属した。兄定重戦死により家督を相続した。天正十壬午年織田信長のため武田家が没落し終わりぬ。

然る後、信長公西上野を統一し是を治める。その家臣滝川左近将監一益が管領となり、上野国に来て厩橋城に住む。然る処、同年六月二日信長公父子明智光秀のため、京都において生(殺)害さる。故に一益本国に帰る。是によりて当州の諸士悉く小田原の北条家に属す。

 同十五丁亥年夏小幡上総介の甥小幡三郎叛逆を企み宮崎城を陥れる。折から小幡上総介は小田原城に詰めていて宮崎城中は無勢にて防戦叶わず。上総介の妻子は宝積寺へ落ちのびた。

この時、宝積寺は敵勢のために焼かれる。この時僧侶が上総介嫡、孫市を介抱し定政の舘に逃がした。定政は大喜びし是を深く隠しおいた。然る後、上総介の留守中、小幡三郎の時、定政は忠勤し戦功も挙げた。

その後、定政は宮崎城に孫市(郎)を送り届け、宮崎城は丁重に受け入れた。上総介はこの時大喜びし、感謝すること一方ではなかった。

同十八庚寅年七月小幡信貞旗頭共定政籠城于小田原。此処にいたり、太閤秀吉のため北条家没落す。

故に定政浪々の身となり小柏村に住む。尚、委細の記録は別記に記してある。

 この記載には彦三郎が三郎とあり、孫一郎が孫市としてある。彦三郎の彦は別記から系図に写す際に脱字したのか、系図を書き写していく際に脱字したのか、或いは名前が三郎と呼ばれていた、もしくは三郎と思っていたなどが考えられる。

 孫一が孫市と書かれていたのは、小柏氏正系図が他の古文書を参考にはしなかった故であろう。これらの事は小柏家にはやはり別の古記録が伝わっていた事を裏付けるものである。

 やはりこのエピソードの骨格をなす事実が存在したと考えられる。孫一郎は上総介信真の弟の子であり後に養子とした。

子孫の小幡龍蟄は言う。孫一郎は孫一・孫一郎と書かれた両書簡があり、始め孫一と称し後に孫一郎とお改めありしなるべし。

 尚、小幡伝来記には孫市郎と記載されている。末尾の方は少し意味が判り難いが、小幡信貞が一方の旗頭として参加して、定政も共に籠城したとの意であろう。小幡上総介信真は天正十五年には軍議があり小田原城に詰めていた。

その後一度上野国に戻り再度天正十八年に小田原城に入ったのであろう。定政が小田原城に入ったのはこの時である。宝積寺住職、西有穆堂は「因果の水鏡菊が池」の中でこのエピソードが宝積寺合戦であるとしている。同書には母子で小柏舘に落ちのびたとある。

確かに小幡方面から敵が押し寄せて来たら寺の裏山に逃げるのが理に叶っている。裏山は懐深く、土地の者でなければ不用意に踏み込めない。また近隣を見渡しても裏山から峠を越えて小柏舘へ逃げるほかに適当な城舘もない。

定政の長女は小柴与兵衛兼行に嫁ぎ二女は三波川の飯塚彦衛門常清に嫁いでいる。三女は小此木吉左衛門兼佳に嫁いでいる。

何れも日野七騎と云われた武士団の面々と思われる。三波川の飯塚家は大変に古い旧家であり、代々名主を務め戦功をも顕わした名家である。近世においては政治家になっている。

 その倉に所蔵されていた三万点ほどの、大量の古文書は県に寄贈され文書館において整理されている。研究者や関係者にとって貴重な歴史資料となっている。三波川に飯塚姓は多いが、三女の嫁ぎ先もいずれ飯塚家の一族であろうと見られる。

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2007年2月 2日 (金)

長篠の合戦

  長篠の合戦

 長篠の合戦、事に設楽原の決戦では多くの西上州の武士が討死している。特に安中城主安中忠成の軍勢は、殆ど全滅し帰還する者なしと伝わっている。鉄砲隊の正面から突撃した小幡勢には比較的生存者が多かったともいう。

 長篠の合戦で討死した西上野国の将士には、定重の父で勇猛を轟かせた小柏高政、小幡信貞、大戸丹後守幸宗・信茂兄弟、松本縫之助定吉・右衛門重友がある。「信長公記」は三番手の小幡の一党は赤色の具足を揃えて、入れ替わって攻め掛かって来た。

 関東の武士たちは馬を巧みに乗りこなしたから、小幡一党もまた騎馬で突撃する戦術で、攻め太鼓を打って突進してきた。

味方は鉄砲を揃え、盾に身を隠して待ちうけ撃たせたので、小幡隊も過半数が撃ち倒されて兵力少数になって退却した。としている。

 だが、歴史考証家の名和弓雄氏によれば、騎馬軍団での突撃はなかったという。その著書「長篠・設楽原合戦の真実」の中において、合戦当時は梅雨時であり、水田は満水の状態であり、低湿地帯の設楽原は進撃する部隊により踏み荒らされて、泥濘の海原となっており、馬は足を取られて走れるものではないとしている。

 同書は[長篠日記]「三州長篠軍記」「当代記」「武徳編年集成」[三州長篠合戦記]「信長公記」など多くの古文書を検証している他、実際に合戦の現場に当時の馬防柵や空堀を設置して、鉄砲の連射までを再現し実地検証している。

 同書に拠れば武田勝頼は小幡大膳介に命じて、八剣山(竹広弾正山)の敵陣地を偵察させたという。

小幡大膳介は天王山をくだり偵察に行ったが闇夜であり、暗くて様子が判らないため傍らの、人気のない大きな家に放火させその灯りによって敵陣の様子を見ようとした。

 この時、監視に当っていた徳川軍の内藤金一郎家長らが、火事に気づきその火光で大膳介らは発見され銃撃を受けた。

大膳介は危ない所だったが逃げ帰り、警戒が厳重で偵察は不可能と報告した。勝頼は怒って再び偵察を命じた為、大膳介はやむなく再度敵陣に接近したが、銃撃され二弾を受けて傷つき、従者に助けられて明け方近くに漸く本陣に戻った。

大膳介は勝頼に攻撃の中止と、敵から討って出るのを待ち受けて戦うよう諫言した。――としている。

 諸文献を探索しても、この記事が載っている原典の古文書はまだ見つかっていないが、この記事が事実であれば定重も敵の銃弾に倒れたのかもしれない。

この小幡大膳介は小柏氏が同道して、共に戦っているところから上州小幡氏と見られるが、小幡氏の系譜の中にそれらしい名前は見られない事から、甲州小幡氏という線も排除しきれない。

ただ甲州小幡氏の系譜にも大膳介の名前は見つからない、改名したものか、傍系だった故に記載されていないのか、今は詳らかにする事ができない。長篠で討死したのは上総介信真の弟(重貞の三男)昌高である。

 「信長公記」によれば武田軍の攻撃は第一波が山県正景の部隊、第二波の突撃が武田逍遥軒信廉の部隊、第三波が小幡一党(西上野の赤備え隊)第四波が武田典厩信繁の部隊、第五波が馬場美濃守信房の部隊であったという。

 これ等の諸部隊がそれぞれ何波かに分けて突撃したものと見られる。織田徳川連合軍側は、その陣地を空堀や馬防柵、身隠しと銃眼など三段構えに作り、これが二重、三重、四重に構築してあったという。

 待ち構える鉄砲の数は三千挺弱とされている。長雨が上がった翌朝のことであり、

朝靄が立ち込め、靄が晴れても風はなく鉄砲の硝煙で視界は全くなかったという。馬を乗り入れれば馬の腹まで泥田の中に埋もれてしまう泥濘の海である。

赤具足を着けた小幡隊は徒歩にて這うように進み、長槍と大刀で銃弾の雨の中を突撃して行ったという。

名和弓雄氏は設楽原合戦の際の武田軍の人数は18,600人、突撃して銃撃され戦死した人数は12,000人と推測している。この時武田勝頼は三十歳であった。

 「信長公記」は信長の家臣太田牛一が書いた物であり、自身の日記を元にして書いたとの説もある。

「三州長篠合戦記」は設楽原の近くの乗本村の名主、阿部四郎兵衛忠政が書いた物で、阿部四郎は織田徳川連合軍に協力し、野戦築城に従い奇襲攻撃の案内もしたという。

長篠城攻撃と設楽原合戦を、織田軍の陣営の中にあってつぶさに見聞していたという。「徳川実記」を見ると勝頼は血気の勇者とあり、短気で合戦好きな若者という印象を受ける。同書によれば、武田勢は二万余騎、徳川・織田連合軍は七万二千とあり、五月雨が強く降っていたとある。

備えの前に堀を穿ち塁を築き、柵を二重三重にかまへ鉄砲数千丁を撃たす、血気の勝頼夜中より勢を繰り出す、山縣昌景、小幡上総貞政、小山田兵衛信茂、典厩信豊、馬場美濃信房、眞山、土屋、穴山、一條など名ある輩入れ代わり入れ代わり柵を破らんと烈戦する。

とある。しかし鉄砲の威力により人塚が出来るほどに敵を打ち倒したという。ここに信玄の時より、名を知られた武田方の信玄の弟兵庫頭信實、山縣、内藤、土屋、眞田、望月、小山田、小幡などが死にもの狂いで戦い討死した。

武田方の戦死者一万三千余騎、連合軍側は六十ほどだったとしている。

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2007年2月 1日 (木)

小柏 定重長篠の合戦に出陣

定重長篠の合戦に出陣

 高政の後継者(子)、定重がお菊伝説で有名な小柏源六である。定重は庄司源六と呼ばれたこともあったようだ。定重は父高政と共に武田信玄・勝頼に仕えていた。小柏系譜を見れば、お菊の事は次のように記載してある。

小幡信定の奥に召し仕えていた女、その名を菊というが小さい過ちを犯した。これを重罪となし、家来が桶に入れてかつ蛇、百足を入れて菊を責めた。

 この時に定重は軍事の用件にて二本木峠を馬で通りかかり、その山中に女の悲鳴を聞きつけ、不思議に思い山林の中に駆け込んだ。

見ればお菊がその苦痛に悲鳴を上げている、定重は忍び難く不憫に思いすぐにお菊を助けた。このとき菊女は苦痛の中から声を絞り、定重に告げて吾の苦痛を救ってくれた厚き恩を幾度生まれ変わっても忘れないと言った。この縁によってあなたの子孫を必ず長く守る事を誓うとしてこときれた。

これによって小柏家をはじめ小柏村出生の者まで皆蛇の害を免れた。もし蛇の災いがありそうな時は小柏氏のお通りと唱えていけば蛇も寄ってこないと云う。

 その他の事跡の詳細については別に記録がある。

以上が小柏氏系図に記載されているものである。「藤岡市史」には小幡伝来記にもお菊伝説が収載されているが、内容の違いなどから小柏系図の方が古いものであり、小幡伝来記から取られたものではないとの趣旨を記載している。

宝積寺史収載の「旧領弁録」ではお菊を助けたのは小柏源介定政となっているが、

宝積寺史には正しく記載されている。二本木峠は現在の小柏峠と思われる。(別項記載)

 定重については「多野郡誌」に次のような記載がある。

 小柏源六は甘楽郡小柏村に生まれた。小柏家は小松内府重盛の嫡子三位維盛の一子維基を始祖として、この地の郷士となり、鎌倉北条に属し、後平井上杉に従い、また甲州武田に帰した。江戸時代には土地の名主をして現代に至った。

 維基から十八世定重に至った。定重は左馬助六郎右衛門高政の嫡子で、すなわち庄司源六と称した。父子ともに武田の武将で、諸所の合戦に武功を顕したが、天正三年遂に長篠役で戦死した。

 長篠役後勝頼から定重の功を賞し、甲冑及び武具を添えて感状(感謝状)を寄せられた。これが今同家に存している。それより前、小幡信貞の女中菊女蛇責の事によって世に知られている。

 「甘楽町史」にもほぼ同様の記事があり、その次に定重が関わったお菊伝説を紹介している。(「多野藤岡地方誌・各説編」の記事もほぼ同様。)

 小柏氏系譜には次のようにある。

 定重 小柏源六 父子共に武田信玄同四郎勝頼に従う。天正三乙亥年五月二十一日未だ黎明の時、武田勝頼の命を承り、小幡大膳亮と共に小斥候に出て敵陣に忍び寄りし時、敵これを知り足下に起き上がり囲まれた。

 定重性質、大力あり武勇無双の者にして度々の戦功あり。事此処に至っては今更逃れ難く、いまその時節に望みても、その場において聊かもその猛気おち)ず、比類なき働きをなし、三州長篠にて終いには戦死してお訖(おわりぬ)。 

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